盲人国
ウェルズの小説に「盲人国」という短篇小説がある。主人公が目の見えない人たちが暮らす国に迷い込むという粗筋だ。「盲人国」では目が見える主人公が異常者として扱われ、最終的に目を潰されそうになる。
「障害者」と「健常者」。この二分法は堅固に見えて、実は脆弱なのだ。もちろん「盲人国」はフィクションにすぎないが、社会の一面を浮き彫りにしている。
つまり「障害」とは何かという問題である。最近では「発達障害」の診断基準も整ってきているが、「障害者」と「健常者」は明確に二分できるものではないのだ。連続体を社会福祉制度の必要上、区切っているのだから、障害かどうかは医学的な要因ではなく、社会的な要因によって決まる。そもそも「発達障害」ではなく「非定型発達者」と「定型発達者」と区分するのが正しい。
しかし待って欲しい。<純粋な>定型発達者は存在するのか。こう問われると、途端に返答ができなくなる。もちろん、二歳児以上は二語以上の言葉を話す、などの目安はある。しかし、誰もが誰もある日を境に──例えば二歳の誕生日を過ぎたら二語以上の単語を話せるようになるのではない。これは極論だが、ではどのくらいの幅を持たせれば「障害者」として規定できるのだろうか。二歳半? 三歳? 四歳?
どれだけの幅にしようとも、「障害者」と「健常者」の境界に位置する人は出てくる。
理性と狂気の区分け。そもそもこの二分法自体が定型発達者の発明なのだ。
フーコーは『狂気の歴史』で「一八世紀はもはや狂気を定義する能力がないのを告白したまさにその時点において性急で僭越な確信をもって、狂人を認知できるとしたのである」と述べている。それではどうして狂気を認知し、強引にでも定義しなければならないのか。自分が「正常」な感覚の持ち主だとは証明できないからである。そして正常であり、理性で判断できるという担保がなければ安心しない。
もし非定型発達者が定型発達者を見た場合、「異常者」だと映るかもしれないのだ。もし病名をつけるのなら「忖度症候群」といったところか。
引用:ミシェル・フーコー『狂気の歴史』(新潮社)