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恐怖と退屈の狭間

 イスラエル出身の文芸評論家にエドワード・サイードがいる。彼の主著は『オリエンタリズム』。この本が国際問題を解決すると、本気で信じている。

 彼は西洋から見た東洋を規定し直した。つまり無邪気な憧れの対象ではなく、支配するために知識を記述した、と。しかもオリエントは、全体として、見慣れたものに対し西洋が抱く軽蔑の念と、新規なものに対して感ずる喜び──あるいは恐れ──の戦慄とのあいだを揺れ動くことになるのである」と指摘している。つまりオリエントに対して、好奇心、過度な期待、落胆、軽蔑、戦慄が入り混じっている、と考えているのだ。


 ところで、恐怖心はどこからくるのだろうか。もっと言えば我々は何に畏れを抱くのだろうか。これに対し、思想家の岸田秀は死んだはずの愛猫が毎晩、飼い主に身体を摺り寄せて去っていくという例を引き合いに出している。「死んだはずの生き物は生き返らない」という<常識>に反するので恐怖を抱くのである。

 つまり、自我の安定を乱すものが恐怖の対象なのだ。

 別に幽霊に限った話ではない。放射能で社会がヒステリー状態に陥ったことからも解るように、自我の安定を乱せば、恐怖の対象になるのだ。ここで彼らの科学リテラシーを磨いたところで、対処療法にすぎない。恐怖心とは何か、好奇心とは何か、落胆とは何か、軽蔑とは何か……。それぞれが自己省察を通して向き合わなければ、また別の恐怖心を生み出すだけである。そしてこの問いかけは紛れもなく人文科学、それも文学の領域である。自然科学も、実験心理学も答えてはくれない。自然科学の方法──実験、測定、数値化、そして一般化という手順では答えることはできないのだ。問題は恐怖<一般>ではなく、恐怖を感じる<私自身>なのだから。

 それでも参考までに言うならば、岸田秀は自我の安定は退屈をもたらすと述べている。西洋人がオリエントに好奇心を抱き続けるのも退屈か恐怖かの二者択一の狭間で揺れ動いているせいだともいえる。


 サイードは知識を支配の道具だと述べているが、知識で恐怖心を制御していたのかもしれない。

 初めは自然災害の恐怖心を。実際、哲学史を振り返ってみれば、十二世紀に自然哲学をイスラム世界から学んでいる。したがって、科学、数学用語はアラビア語に由来するものが多い。アルカリ、アルゼブラ(代数学)、アルゴリズムなどがそうである。

 それどころか三次方程式の解放はアラビアの詩人、オマル・ハイヤームが西洋に先駆けて見つけていた。また光学もニュートンよりも先にイブン・ハイサムが似たような知見を見つけていた。

 このころの領土は広大であり、はるかスペインにまで及んでいた。しかしスペインでキリスト教徒が肩身の狭い思いで暮らしていたかというとそうではない。イスラム教徒、キリスト教、そしてユダヤ教が共存していたのだ。

 このころの史料を読解すれば宗教問題を解決する糸口になるはずである。


引用は『オリエンタリズム』(平凡社、テオリア叢書)より

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