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フィクションとは何か

 まず初めに、「文学」とは何かを規定しなくてはいけない。素朴に考えれば、漱石、太宰などの手記、手紙、交流関係、つまりは生い立ちを通して、その思想に迫っていく、それが文学部の役割だと思うだろう。外国人で言えばカポーティやダンテなどの。

 したがってフィクションを解釈するのが文学部の務めであり、何の生産性もない、という図式で語られる。

 しかし厳密に考えていくと、<フィクションとは何なのか>という問題が立ちはだかる。現実ではない、架空のこと。それではフィクションとノンフィクションの境目ははっきりと分かれるのだろうか。

 フィクションの中に現実が投影されていることもある。ダンテの『神曲』ではベアトリーチェの魂を求めて、地獄めぐりをしていく。もちろん地獄めぐりはフィクションである。しかし、当時のヨーロッパ世界がギリシャ哲学に対して、あるいはイスラムに対してどのような見方をしていたのかが解る。紛れもなく現実の一端を切り取っているといえるだろう

 しかし一方でフィクションがいつの間にか現実を支配した例もある。1897年「アメリカ婦人を裸にするスペイン警察」という新聞報道で、スペインに対して怒りの声が湧き起こった。この記事が一端となり、スペインとアメリカは米西戦争に突入するのだが、この記事は新聞の購買部数を伸ばすための捏造記事だったのだ。これは後に映画『市民ケーン』で揶揄されることとなる。

 このような例は枚挙に暇がない。卑近な例で言えば、ニュース解説番組で字幕を捏造し、韓国人に対してネガティブなイメージを植え付けようとした例が挙げられる。

 つまり、フィクションかノンフィクションかなどははっきりと問えるものではないのである。むしろこの二つは互いに影響しながら、厖大な数の文章エクリチュールを生み出していく。小説、広告、新聞記事、学術論文。強いて言えば内容ではなく、<文体>の違いなのだ。もし米西戦争の記事が戯曲形式で書かれていたら、同じ内容でも与える印象は全く違っていたはずである。

 したがって、ここでいう文学とは「文」学、つまり文章エクリチュールについて学問である、と定義する。

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