第五十七話 Curse
木星の大気圏に挑もうと考えた時、まず越えなくてはいけないのが最大で厚さ四千キロにも及ぶ外気圏だ。このあたりは宇宙空間と木星大気の境目、温度は絶対温度でおよそ一千ケルビン。摂氏一千三百度近い高温と、即死レベルの放射線が、太陽系最大の資源量を誇るこの惑星を未だに処女地に保っている最大の原因だ。
大赤斑の上空はさらに特殊で、どんな理由か最高温度は時に一千六百ケルビンを越える。摂氏に直すと二千度近い超高温だ。私達が直接大赤斑の上空から垂直進入せず、苦労して大赤斑外周の渦を越えたのはこれが理由だ。
だけど、一つ内側の熱圏まで降りてくると、摂氏せいぜい六百度程度と一気に過ごしやすくなる。今私が拘束されているのは熱圏の最上層から少し下がったところ、外気温はほんのり暖かい摂氏五百八十度だ。とはいえ、過ごしやすいのはそのための耐熱装備を持つTM102に限った話で、ハイパーセラミックの耐熱外殻以外にこれと行った耐熱装備のないアルディオーネが外気圏や熱圏を越えてくるなんて事態は最初からまったく想定されていなかった。
また、当たり前だけど耐放射線防護もそれを前提に設計されたTM102に比べたら貧弱で、湊が今その身に受けている木星からの放射線はヒトが長時間浴びていいレベルなんかじゃないはず。多少なりとも耐放射線防護機能を持つというNaRDO謹製の耐Gコクピットを信じるしかない。
「湊、お願い、すぐ戻って!」
『冗談だろ。それより体調は? まだ頑張れるか?』
無駄とは知りつつお願いしてみたが、案の定あっさり無視された。その間にもアルディオーネは茶色い霧を吹き飛ばしながら一切沈下スピードを落とすことなく降りてくると、TM102の数キロ下方で派手にスラスタを展開し、透明な何かにガツンとぶつかったような勢いで急制動をかけた。そのまま流れるようにくるりと船体姿勢を反転させると、今度は先ほどまでの豪快さはどこへやら、アリの歩み並にじわじわと上昇。キャッチャーアームを開きながらTM102を柔らかく包み込むように静かに距離を詰めてくる。
相変わらず海洋生物のようになめらかな機動。禁断の感覚融合にまで手を出して強引にTM102を操る自分の不器用さがが無様に思えて悲しくなる。
『ぅわ!』
ところが、目視距離まで接近したところで彼は小さくうめき声を上げ、その場でまるで足踏みでもするように船体をかすかに揺らしながら相対停止した。
『まいったな。思ったより外殻が損傷してる。下手に抱き上げるとバキッといきそうだ』
(ちょ、ちょっと、不安になるような事言わないでよ!)
『悪かった。明らかに俺のオペレーションミスだ。ただ、外から見る限り損傷は船殻どまりだ。対放射線シールドは恐らく影響を受けてない。耐圧殻も無傷だと思う』
(・・・ならいいけど)
ちっとも良くはないけど、そもそもの原因を作ったのは私の不注意だ。文句も言えない。
『お詫びに、最後まで責任持って守るから』
(あ・・・りがとう)
『じゃあ行こうか。Gドライブ駆動。そっちの誘拐犯からTM102(おまえ)を引っぺがすからな。重力変化に備えろ!』
言葉と共に、異星船に向いていた重力ベクトルがどんどん弱まってくる。異星船は発するそれとは逆向きの重力ベクトルを発生させ、異星船の引力を相殺しようとしてくれているのだ。
「知らなかった。アルディオーネにはこんな機能もあったんだね」
『ここ数年、ダテに遺跡荒らしをやってた訳じゃない。使える機能はしっかり自分の船にも取り入れさせてもらった』
「なるほど。サンライズから直接海上の船にワイヤスプールを運べだのはこれがあったから・・・」
『っと、そろそろ重力平衡だ、ちょっとスラスター吹いてみろ』
言われるまでもなくはっきりわかる。さっきまで全身に感じていた猛烈な圧迫感がいつの間にかほとんど解消している。船底のマルチスラスタをひと吹かしすると、艇体がわずかに震えて浮き上がりそうな気配。
『よし、とりあえずこっちに』
ギャリン!
「うっ!」
浮上しかけた私は着陸脚を異星船に突き刺す勢いで強制的に着床させられて思わずうめき声を上げた。胸の上に大型犬でも飛び乗ってきたような激しい圧迫感に呼吸が止まりそうになる。耳障りな衝突音と共に着陸脚と異星船の接触部分にオレンジ色の火花が散り、次いで、異星船の表面でまるで仕掛け花火のようにいくつもの光点が閃き、あれほど絡まっていたサルベージ船のワイヤーはバラバラに分解された。支えを失ったサルベージ船のなれの果てはくるくると舞いながら茶色い雲の向こうに落下して行く。
(私は拘束されているのに、残骸は自由落下?)
『どうも人工重力の影響先を選択的に操作できるようですね』
『意地でも逃がすつもりはないらしいな。こっちももう少し出力上げてみるか』
だが、アルディオーネの奮闘をあざ笑うように、重力場はどこまで行っても異星船側に傾いたまま変化しない。
『くそ!』
さすがに湊の声にも焦りの色が見えはじめる。
『船長、カホ、異星船の高度が下がり始めています。沈降速度も次第に上昇中』
『いい度胸だな。こうなれば根比べだ』
湊はアルディオーネの船体をTM102の下方で木星の中心に対して直立するように、ゆっくり距離をつめてくる。アルディオーネの船体を最大限に利用して木星放射線を遮る位置取りだ。違う、そうじゃない。むしろ彼の方が異星船より上空に位置すべきなのに。
『今度こそ逃がさないからな』
(でも、湊)
『大丈夫。最後まで見捨てたりしないから安心しろ』
湊はさらりと言う。でも、恐らくアルディオーネのコクピットでは今も放射線警報がガンガン鳴っているはずで、加えてこのまま高度が下がっていけばいずれ私達は成層圏を突き抜け、対流圏に入る。大気圧は急激に上昇し、恐らく対流圏の底あたりでアルディオーネの圧壊深度を越えてしまうはずだ。
それまでわずか千キロほどしかない。現状の加速度からするとわずか数分でそこまで墜ちる。
異星船が垂直方向に逃げる可能性は当初から想定されていた。だからこその潜航艇の起用だ。
このままどこまで引っ張り込むつもりかはわからないけど、私なら木星の海に突入してもなお耐圧性能には余裕がある。
(困ったな)
湊が私を見捨てないでいてくれる事は純粋に嬉しい。TM102が思わぬ傷を受けたことで必要以上に責任を感じてくれているのもわかる。
でも、今の彼は普通じゃない。
陶子さんを失った記憶も薄れないうちに今度は私が異星船にさらわれそうになったせいで、正常な判断力をなくしている。うぬぼれに聞こえるかもしれないけど、多分、今の彼はTM102を守ることしか考えていない。その結果自分がどうなるか、なんて、針の先ほども気にしていないだろう。
(シータ、湊に内緒で相談があります)
『何でしょうか? カホ』
(湊を、彼を止めて! これ以上は彼の命に関わるわ)
『しかし、それでは逆にあなたの肉体にも危険が及びます。異星船の発している重力波は木星重力の八倍を越えています。アルディオーネの展開している対Gドライブフィールドがなければ、身体が潰れてしまいますが・・・』
(・・・異星船と交渉できない?)
『と、言いますと?』
(異星船は私を逃がしたくない。私は湊をこれ以上巻き込みたくない。私がおとなしく異星船に従うという約束があれば、異星船は今の拘束を解いてくれないかしら?》
『・・・異星船はあれっきり沈黙しています。先ほどの様子から交渉が通じる相手かどうかは疑問ですが、とりあえず呼びかけてみましょう』
確かにこちらの言い分が通る保証はない。でも、異星船は何か特別な目的があって、どこか邪魔の入らない場所まで私達を引っ張り込もうとしているのではないかと感じたのだ。
それに、今回のミッションが始まって以来、ずっと感じている違和感の正体も気になる。
以前の太陽系追いかけっこでうっすら感じていた異星人の性格は、ここまで冷酷ではなかったように思う。もう少し、茶目っ気というか、はた迷惑というか、身近な例に例えて言うなら・・・辻本司令のような、そういう人間くさい部分もあったはずなのだ。今回の対応とはかなり違う。
太陽系を縦横無尽に飛び回ったあげく、あっさり消えた異星船。それとタイミングを合わせるように浮上した大赤斑の大型異星船。親子のようによく似た、流れるようなデザインの船体。「我を捕らえよ」とまったく同じメッセージを発する二隻。
本当に両者が同じ勢力だと単純に判断して、果たして良かったのだろうか?
『船長の被曝放射線量、荒い推定ですがミッション開始から累計千二百ミリシーベルトを突破、そろそろ自覚症状が出てもおかしくないレベルです』
だが、それ以上物思いにふける余裕はなかった。硬い調子でそう告げるシータの声に、私は心が張り裂けそうになった。
(湊! お願いだから上昇して!)
『悪いけどそれはできない。これ以上俺の船で不幸になる人間を出さないと誓ったんだ。もちろん香帆もだ』
「だからって、代わりにあなたが不幸になることはないじゃない!」
私は、網膜に投影されている自分自身の被曝線量を睨みながら声を限りに絶叫する。私の受けた木星放射線の総量は未だ三ミリシーベルト程度。一般的な宇宙生活者の一日分とそう変わらない。湊が私をかばってその身に受けたダメージとの差に愕然とする。
『カホ、計算上の対流圏下縁まであと十分程度です。外部圧力十気圧。外部温度二百二十ケルビン。温度が再び上昇に転じました』
事前のレクチャーで何度も念を押された通り、実は木星の大気と海の境目ははっきりしない。超臨界流体と呼ばれる特殊な状態で、気体と液体両方の性質を持つ層が数キロメートルは続く。恐らく、もう半分海に突入している可能性が高い。だとすれば、この先は温度も液圧も急上昇する。
(湊、本当にお願い、もう戻って! この先は・・・)
焦りと心配でとめどなく涙が流れる。滲む視界の片隅で、外部温度センサーの表示が千ケルビンを越えた。圧力は・・・もう見たくない。
『・・・最初からこうすれば良かったんだ。後悔するのはもう・・・』
一方、湊のつぶやき声はまるで自室でリラックスしているように穏やかだった。
それが彼の声を聞いた最後になった。
『カホ、船長の意識が途絶えました』
「嘘! 気を失っただけだよね?」
『はい。今のところバイタルは損なわれていません。ただ、船殻が一部圧壊、機能も一部喪失しました。このままでは・・・』
「シータ、アルディオーネの制御をインターセプトできない? 最速で安全域まで上昇させて!」
『しかし...いえ、了解しました。最優先で』
そのままシータの気配も途絶えた。湊が施したロックを解除して操縦系統をハックするのに全能力を振り向けているのだろう。
気がつくと、潜航艇の中は恐ろしいほどに静まりかえっていた。
意思疎通が出来ているのかすら怪しい異星船と二人っきり(?)、木星の海を漂いながら、私はどこまでもぐるぐると考える。
(なんでこうなっちゃったんだろう?)
いくら考えまいとしても思いは自然にそこに行き着く。
私は、湊と一緒に異星船の謎に挑みたかった。
もしかしたら、今度こそ異星人とのファーストコンタクトになるかも、彼と一緒なら、きっとワクワクする体験になるはずだと勝手に思い込んでいた。
こんな風に巨大惑星の海で孤独に漂うつもりなんて全然なかったのに。
(きっと、これは罰だ)
誰かに守られることに安穏として、自分の身を、自分の生き方を、自分の力で切り開かこうとせず、誰かに頼った罰だ。
辻本司令にそそのかされるまま、サンライズに停泊するアローラムの貨物倉に忍び込んだあの日から、私はずっと湊に頼り切っていた。
彼と彼の船に寄生することで、ESAでは掴めなかった自分の生きがいをようやく見つけたような気がしていた。
ヤトゥーガに追われて地球で隠れ暮らしていたときもそうだ。世間知らずの乙女のように、いずれ湊がむかえに来てくれるはず。どこかでそう思っていた。
彼は私の願いを裏切らなかったけど、多分それは彼の責任感がそうさせたのだ。
私ははっとした。
いつか彼が何気なく言ったことがある。見た目はまったく違うのに、私を見ていると昔なじみのある人を思い出す・・・と。
もしかして・・・
私の存在そのものが、彼を辛い過去の記憶に縛り付けた?
忘れたい故人を会うたびごとに思い起こさせ、いまだばっくりと口を開いたまま血を流し続けている辛い記憶の傷口に塩を塗り込み続けていたのは果たして誰? だとすれば・・・
彼に呪いをかけたのは、他ならぬ私自身だったのかも知れない。
その事に気付いた私の瞳からはとめどなく涙が流れ落ち、私は声を限りに号泣した。
---To be continued---




