第五十五話 Point of No Return
インカムの向こうで湊が叫んでいるのが聞こえる。
私はそれに聞こえないふりを決め込むと、潜航艇の隅々まで自分の意識野を拡張し、船体にぎっしりと配置された感覚センサーを”イコライザーもパスフィルターもなし”でMMインターフェースに直結した。MMインターフェース運用規約で明確に禁止されている極めて危険な行為だ。
まるで濁流のように突然増えたノイズとおびただしい情報量のせいで、激しい目まいが襲う。こみ上げる吐き気をなんとか瀬戸際で踏みとどまり、いらない情報を徐々にフィルタリングしながら身体になじませていく。
昔、自動車がまだ内燃機関で駆動し、ヒトによってコントロールされるのが当たり前だった頃、熟練のドライバーは車のパーツの状態を自分の体の一部として感じ取っていたという伝説を聞いた事がある。
タイヤが路面をつかむ感覚、エンジンのビート、ボディのしなり。それをまるで自分の足裏の感覚や、心臓の鼓動と同じように感じられたのだと言う。
以前の私にはその話がまったく現実的だとは思えなかった。機械と一体になるという感覚がどうしても理解できなかったのだ。
でも、今ならば判る。特に、TM102は設計の段階から関わり、湊による大改修で宇宙機に生まれ変わった経緯はあるものの、陸上でのテストやシミュレーター訓練を含めると総搭乗時間は間もなく一万時間に達しようとしている。そこにMMインターフェースによるディープリンクが加わる。もはやTM102の外殻は私の皮膚、マニュピレーターは私の腕。まるで生まれつき肉体の一部であったような自然な感覚で私は潜航艇からの情報を感じることが出来る。
でも、この超感覚は両刃の剣だ。MMインターフェースを装着したばかりの頃、そして、TM102が船体のありとあらゆる場所に非常識なほど高密度のセンサーをまとうようになった時にも、馴染みの医療技官に警告された。致命的な自己見当識の喪失に繋がるからだ。
「いいですか、インターフェースを通じて感じるすべての情報はあくまで外からのものです。絶対にあなた自身の五感と混同してはいけませんよ」
彼女はそうくどいほど繰り返した。
見当識を失うと、ヒトとしてのアイデンティティそのものが揺らぐ。最終的には自分が誰であるか、しまいには人間であるかどうかすらわからなくなり、いつの間にか自分がMMインターフェースによってつながれた別の何かであると勘違いしてしまうのだという。
「帰還不可能点を超えたらもう戻れなくなります。最悪の場合人格が破綻して、あなたは今のあなたでなくなりますよ」
医療技官に脅かされた台詞が頭の中で何度もリフレインする。
実際、金星での潜航テストで私は、自分の五感を保ったまま、外部環境を肌感覚として感じる以上の感覚フィードバックしか受けられなかった。それが、ヒトとしてのアイデンティティを保つギリギリの線だとも説明された。
それでも、この危険なミッションを無事にこなすには、より深い潜航艇との融合が間違いなく必要だ。それは確信できる。
私は乱れる気持ちを押し固めるように小さく頷くと、自分の五感を自分の意思で遮断し、潜航艇のそれとひとつひとつ、意図的に置き換えていく。
ヒトとしての身体構造と五感を捨て、私は潜航艇に生まれ変わる。
陶子さんを失って以来、湊がふとした瞬間に見せるもの悲しげな表情はそのたびに私の胸を締め付けた。
多分、その事には彼自身、自覚はない。
平静を装い、冷静に、淡々と出航準備をこなす彼。でも、いくら能天気な私でも、彼の内心を埋め尽くす深い後悔と懺悔の念にまったく気づかないほど鈍感でもない。かつて最愛の女性を失ったトラウマが、今回の彼の苦悩をより深くしている事にも気づいていた。
でも、まともに聞いたって取り合ってなんてもらえない。自分の気持ちを決して見せず、表面を取り繕うことについてはあの辻本司令と双璧だというのは誰に言われるまでもなく私が一番よく知っている。
私も最近ようやく少しは気にかけてもらえるようになったけど、それが相棒としての義務感みたいなものなのか、それとも本心なのか、いまいち確証が持てない。
私の気持ちははっきり伝えた。何度でも。でも、彼の本音はどうだろう? 彼がよく使う”相棒として”という言葉以上の関係を本当に結べていると言えるだろうか?
陶子さんとの事にしたってそうだ。
私は最初、陶子さんの事を、湊の新しい彼女なんだと思っていた。
トロイスでの別れからまるまる四年。ヤトゥーガのせいでまったく会うことも連絡することも叶わなかった。下手をすれば結婚してこどもが生まれるくらいの変化がお互いに生じていてもおかしくはない時間だ。年齢も近そうだし、私なんかより・・・と、卑屈になったりもした。
でも、そうじゃなかった。
彼はクライアントである安曇家の一人娘で、深刻な障害を抱えた女性だった。湊がそんな人を放っておけるわけがない。
理解はしていても、そのことを思うたびに胸の奥がざわざわしたのは事実だ。実際とてつもなく有能な人だったし。
でも、湊はそんな彼女に対しても決して踏み込まなかった。
彼女がなんとなく湊に想いを寄せていたのは見ていてわかった。でも・・・。
「俺は周りの人間を不幸にするから」
彼がことあるごとにつぶやく、解けない呪い。
そのせいで、彼は人を絶対に近づけようとしない。いつも、いつまでもたった一人。
心を許すのは、彼自身が生み出した宇宙機だけだ。
で、あるならば。
私も宇宙機になりたい。願わくば、彼の魂を救う船に。
「TM102、これより遭難者の救出を開始します」
わたしはそう宣言すると、右手を突き出し、ゆっくりと接近を開始する。
『香帆、頼むから自重しろ!』
「ごめんね湊、もう後戻りできない」
答える間もなく背中にワイヤーがかする感触。ほんのわずかに身体をひねり、左手で軽く挟んでテンションを確認。うん、これは大丈夫。カットして回収用のスプールに巻き取っていく。ある程度巻き取ったところでガツンという硬い手応え。これ以上は無理だ。再度カットして、切れ端がその辺に漂わないようサルベージ船のボディに軽く溶接する。
今度はお腹側に接触。右手で慎重に引っ張ってみる。ダメだ、これはまだ生きている。仕方ないのでワイヤーをまたぎこすように機動し、サルベージ船のコクピットが見通せる角度に微妙に頭の向きを変える。
『香帆! 後ろ!』
おっと。船体を断ち切ってしまいかねない鋭い残骸がいつの間にかぶら下がっている。スラスタを噴かして急制動。
どうしよう、早速身動きが取れなくなった。
『・・・両面噴射、噴射炎で焼き切るといい』
疲れたような湊の声が響く。
「おお! 湊、ナイスアシスト」
早速船首と船尾でプラズマスラスタを同時噴射。反動を相殺しながら船尾の噴射炎をギリギリまで細く絞って燃料比率を微調整、バーナー温度をギリギリまで上げる。まるでサーベルのように長く伸びた超高温の青白い炎を船体ごと回転させて大きく振るうと、無骨なフレームの残骸はまるでバターを切るようにちぎれて落ちていった。
「ありがとう、湊」
『あの・・・もうね、正直どうかと思う』
MMインターフェース経由で湊の感情までがダイレクトに流れ込んで来た。ああ、これは本気で呆れられている。
『命を懸けるつもりがあるんならもう少し慎重に動けよ。こんな調子じゃ本当にすぐ死んじゃうぞ』
確かに。もっとも過ぎて反論すらできない。
『こっちでもアシストするから。できるだけ不用意な動きはするな』
「・・・うん」
頭を抱えてため息をつく湊の顔が脳裏に浮かぶ。でも、こんな時でも見捨てられる心配だけはしなくていいのがちょっと嬉しい。彼は、優しい。
『とりあえず、マーカービーコンを出してくれ。低出力でいいからずっと出し続けていて欲しい』
「あっ」
言われるまで完全に忘れていた。赤面しながら慌ててマルチバンドビーコンを起動。
『超音波とレーザーマーカーは拡散モード、電波はバーストモードでいいから』
(なんで?)
続く指示に頭の中で疑問符が浮かぶ。TM102の位置をモニターしたいのなら拡散モードじゃなくて直接アルディオーネに向けて打つべきなのでは?
『船長はマーカーの反射波を利用したエコロケーションモニターをお考えだそうです。私に反射波解析の指示を出されました』
「おお!」
シータの耳うちでようやく理解した。湊は、私の負荷を一切増やさない方法で、TM102の周りの環境情報を得ようとしてくれたのだ。
『香帆の正面、二時、三時五十分、六時、八時三〇分方向に浮いているワイヤーはすべてテンションがかかってない。全部切れ。それ以外は次の解析までそのまま』
「了解」
言われるままに身体をひねり、邪魔なワイヤーをざくざくと切り刻んでスプールに回収する。念のため、切り口はすべてレーザートーチで焼いて邪魔にならないようにそのあたりに貼り付ける。
『次、仰角三十二度、二時方向にスプールが浮いているはず。こいつに絡まっているワイヤーは絶対に緩めるな。全部まとめて溶接しちゃっていい』
「はい」
プーリーから外れかかったワイヤーが数本。絡まったままでスプールのリールとフレームの間に挟まっている。いつズルッと滑るか、見るからに危うい。私はうっかりワイヤーを焼き切ってしまわないように慎重にレーザーを当てる。
ビンッ!
熱でわずかに伸びたのか、突然ワイヤーが軋み、私は身をすくめて声にならない悲鳴をあげた。TM102とほとんど同じくらいのサイズのごつい重荷重スプールだ。まともにぶつかったら跳ね飛ばされる程度ではおさまりそうにない。
『大丈夫か?』
「う、うん」
『よし、次、仰角二十五度、八時方向、スプール下から引っ張っているケーブルだけ除去。スプールはそのまま。ワイヤーが反動で跳ねるぞ、絶対に動線に入るなよ』
「了解」
今度はカッターで慎重に切断する。じわじわとブレードが食い込むに従ってテンションを保ったままの高張力チタンワイヤーがブチブチと引きちぎれるように伸び、不意に凄い勢いで吹っ飛んでいった。重みを失ったスプールが跳ね上がり、サルベージ船の船体に轟音とともに激しく衝突、粉々になって弾け飛ぶ。
「こ、怖い!」
TM102にもスプールの破片がバラバラと降り注ぎ、周囲を取り囲んでいるサルベージ船のフレームがギシギシ、ミシミシと不気味に揺れる。
(やっぱり怖い! やんなきゃ良かった)
避けきれず、スプールの破片がぶつかったあたりが痛む。多分センサーがまとめていくつか死んだっぽい。
『再解析する。そのまま待機』
「りょ、了解!」
ドキドキと早鐘のように暴れ回る心臓をどうにかなだめると、この間に自己診断ルーチンを走らせ、結果を見てショックを受けた。かすり傷だと思っていたのに、背中側の船殻がかなりの広範囲でダメージを受けている。
破損したセンサーから飛び込んで来る木星由来の強力な荷電微粒子がズキズキとうずく。背後の感知に影響が出るのは承知の上で、私はダメージを受けた範囲のセンサーを意識から切り離した。
『大丈夫だったか? ダメージは?』
「ごめん、ちょっと背中にかすった。甲板側のセンサーが半分くらい逝っちゃった」
『半分って! おい、船殻に影響は?』
「うん、機動には影響ないみたい。でも、ドッキングハッチのあたりが一番ヤバい。懸垂フックももぎ取られたかな。そっちに戻るときにちょっと困るね」
何事もなかったように軽い口調で報告してみたけど、語尾が震えるのを抑えることはできなかった。
そもそも、潜航艇は自力での長距離航行を考慮していない。木星の重力圏を抜け出すにはアルディオーネに運んでもらうしか方法がないのだ。
懸垂フックがないということは、そのアルディオーネに回収してもらえない危険がある。うまくアルディオーネの待機高度まで上昇できても、燃料が尽きたら私はいずれ墜落する。それまでに解決方法を考えないと、そのまま木星の底まで落下して終わりだ。加えて、何とか捕まえてもらえたとしても、ドッキングハッチが故障している以上、EVAなしには移乗すらできない。これだけの高放射線、高荷電微粒子環境下で、宇宙服一つで船外に出る行為はそのまま死を意味する。
『・・・方法を考える。少し時間をくれ』
多分、湊もその事には気付いている。
「とりあえず、次の指示を。まずは目の前の事をやるよ」
後のことを考えてもしようがない。私は強引に頭を切り替えると、もうほとんど手が触れられるほどに近づいているサルベージ船のコクピットをじっと睨みつけた。
---To be continued---




