第二十七話 鋼鉄の処女
それから二日。
私は節電のため設定温度を最低に落とした冷え切ったコクピットで、相変わらずグーグー鳴り続ける胃袋を抱えて思いにふけっていた。
本日のテーマは、そう、異星船について。
中野さん、いや、高野さんか。彼女が私の目の前で半ば確信犯的に新しい興奮の入ったびっくり箱のフタを開くまで、異星船の事はずいぶん長いこと頭から追いやって、ほとんど思い出しもしなかった。
悔しくないかと問われれば、もちろんそんな事はない。あれほど悔しい思いをしたのは生まれて初めてだった。
しばらくはそれだけで頭が一杯で、大げさじゃなく何も考えられなくなったほど。思い返してみても、あの頃の記憶はそれ以外何もない。
だけど、あの時湊は言ったのだ。私が彼に聞こえないよう、こっそりと自分の想いを告げた後。
「太陽圏は狭くない、同じ道を歩く限り、必ずまた会える」と。
それだけは、今もはっきり覚えている。
その後私は宇宙開発の最前線から強制的にリタイヤさせられ、彼と同じ道を歩むことはできなくなった。でも、私に今の職場を紹介した日岡さんはまったく屈託なく、いつもの魅力的な笑顔で言ったのだ。
「今はお互いに力を貯めておくターン。それに、あなたは私達よりも若いし、時間はまだたっぷりあるわ」
私はその時、相当不本意そうな顔をしていたのだと思う。
「その時は回り道だと思っていても、後で考えると案外そうでもなかったりするものよ」
そう笑って火星に戻っていった。
あの日から随分時間がたった。
今の私は、宇宙開発どころか、宇宙に最も遠い場所にいるじゃないか。
私は自嘲気味に乾いた笑い声をあげる。
遙かな高み、木星の大赤斑。そこで、私たちの挑戦をあざ笑うように超然とたたずむ異星船。
一方、海の底で直径4メートルのタングステンの球に閉じ込められ、文字通り手も足も出せずにいる自分。
いや、まて。
別の意味で言えば、あの異星船と私は意外とよく似た境遇なのかもしれない。
深い重力の井戸の底で、いつ来るとも判らない訪問者を、ひたすらじっと、身を潜めて待ち続ける。
「フフッ」
急に親近感が湧いてきた。
もし私が異星船ならば。
私は思う。
永遠に近い時間の末に、ようやく巡り会えるのなら。
「やっぱり湊がいいなあ」
思わずつぶやきが漏れた。
同時にお腹がグーッと鳴る。色気も何もぶち壊しだ。
気がつくとポロポロ涙がこぼれていた。
空気を読まない胃袋が悔しかったわけじゃない。
「会いたいよ、湊」
さびしくて、つらくて、容赦なく迫り来る人生のデッドエンドが怖くて、私はこの事故に巻き込まれてはじめて、声を上げて泣いた。
思う存分泣いて、三日ぶりに一食分のパックを完食したところでようやく気分が落ち着いた。
みっともない話だけど、どうやら私の心はひもじさの影響をかなり強く受けるらしい。
これまではできるだけ食料を長持ちさせようと、一食を三回に分けて食べていた。でも、それだと私は自分の精神状態をうまくコントロールできないみたいだ。
今の状況で気持ちを前向きに保てないのは困る。そこで、残りのサプライを総ざらいしてみた。
残りの食料は二十一食、一食分を二回に分けて食べれば二週間は持つ。
酸素と水は月にだって行ける量がある。万一備蓄が無くなっても海水から無尽蔵に取り出せるので今のところ心配する必要はない。
バッテリーも大丈夫だ。外部センサーを失ったニューロコンピュータにはほとんど負荷がかかってない。ほとんどアイドリングで流しているようなものだ。
一方、二酸化炭素吸着剤の酸化セリウムユニットはあと二日も使えば活性を失う。一応もうひとつ予備はあるが、再活性化には支援船の真空ポンプが必要。今の状況では使い捨てせざるを得ない。というわけでこいつはあと七日が限界。
そして、一番ヤバイのがトイレカートリッジ。飲んだり食べたりすれば出るものは出るわけで、こんなに長期のテスト潜航を想定していなかったので残りの在庫はわずか三セット。
一セットでおよそ大人一日分の排泄物を処理できるけど、無理して詰め込んでも四日後に限界が来る。
「よりによってトイレかぁ!」
思わぬところに伏兵がいた。
下着の替えを入れて持ち込んだ私物のジップパックは四つ。最悪の場合これも使うか。としても一週間は持たない。
となれば、食料をこれ以上節約しても意味はない。私は自分のメンタルをできるだけ長期間健全に保つことに目的を切り替える。
「私がこれ以上香ばしくならないうちに助けに来て欲しいなあ」
救助隊がハッチをこじ開け、思わず顔をそむける瞬間を想像してげんなりする。
だが、心配は杞憂に終わった。
その日の深夜、私がほとんど眠りについたころ、タングステンの殻は突然外からノックされた。
最初にドンと来た。
次に金属同士が擦れ合うイヤーなきしみが長く響く。
ああ、このやり方は長谷川君。相変わらずマニピュレータの操作が大雑把だ。
でも、どうするつもりだろう。TM101の開発には私も深く関わっているので、何ができて何ができないのかはよく知っている。四トンもの荷重を支える能力はないはずだ。
その間にも101のマニピュレータは耐圧殻の表面をガリガリと荒っぽく引っ掻き回す。
さすがに心配になって来た。中に人いるんですけど。
「このくらい近ければいけるかな」
私は超音波通信のプロトコルを立ち上げ、潰れてしまった外部音響ユニットのかわりに室内用のスピーカーを耐圧殻に押し当てて送信。殻内に超音波が反響して激しい耳鳴りがしたけど、なんとか通信確立はしたらしい。
「こちらアイアンメイデン、TM101、感度いかが?」
『うおっ!』
相当驚いたらしき叫び声が入る。
『お、お前! 無事だったのか?』
「無事って? どういうこと?」
『いや、船長が、もしかしたらもう…』
「ちょっと、勝手に殺さないで下さい。外はどんな感じですか?」
『あ、いや、とりあえずワイヤーを取り付けた。今から引き上げるから。じゃあ』
「あ、ちょっと待って!」
長谷川君はなぜか猛烈に焦って私から離れていった。すぐに搬送波をロストする。
「何であんなに慌ててんの?」
全くわけがわからない。
だが、しばらく待つうちにギリギリと何かを引き絞る音が頭上から響き、次の瞬間、私はフワリと揺れて持ち上げられた。
『TM102、いや、鋼鉄の処女と呼ぼうか? 通信とれるか?』
すぐに半分面白がっているような口調で通信が入る。聞いたことのない声だ。
「はい、TM102、香帆です。勢いで言っちゃいましたけど、その呼び名はさすがに恥ずかしいです。うっちゃって下さい」
『起重機船〈豊後〉了解。これから貴方を海上までご招待する。圧力変動で耐圧殻が浸水する恐れがあるので、できるだけゆっくり行こうと思う。スピードは毎分10メートル、海面までおよそ五時間の道のりだ。不都合はあるか? 体調は?』
「TM102了解。不都合ありません。体調良好。ただ、浦島太郎状態です。情報を下さい」
少し間が開いて再び男の声が響く。
『〈豊後〉了解。今は貴方を引き上げているカーボンワイヤーに音響搬送波を載せている。ビットレートをこれ以上高くできないので音声通信が精一杯だ。それで良ければ話し相手になろう』
私はホッとして大きく安堵のため息をついた。
「TM102了解。お心遣い感謝いたします。では、早速なんですけど、一体何が起こったんですか?」
返事が帰ってくるまでの間は、さっきよりさらに長かった。ほとんど私が不安になった頃ようやく声が届いた。
『不明点が多く一言で説明できないそうだ。表向きには、地球浄化プロジェクトに反対する環境テロリストの仕業で、海洋調査の妨害だ。犯行声明も出ている。だが、恐らくは他人がテロリストの名義を借りて行った犯行だそうだ』
訳が分からなくなってきた。
『君たちを沈めたヘリはアメリカの民間から流れた中古ヘリに偽装が施されていた。また、攻撃には米軍から流出した旧式のMk47魚雷が使われたと思われる、だそうだ』
何ですべて伝聞調なんだろう? まどろっこしい。
「あの、できればそこにいらっしゃる詳しい方に直接話していただきたいんですが!」
またも沈黙。
『すまん。相手とは無線で話してる。本船に乗っている訳じゃないんだ。それに、現時点で直接の会話は差し控えたいと言われたよ』
なんだそれ? 失礼な。
でも、まあ、大雑把でも状況が分かって良かった。逝ってしまった〈ろっこう〉の仲間達のために、怒りをぶつけるはっきりとした対象が欲しかったのだ。
「生存者は他にいませんでしたか?」
今度は早かった。
『君達が救助した乗組員の他に、数名が海上保安庁の巡視艇に救助された。残念ながら他には…』
男は語尾を濁した。気持ちはわかる。私もなんとなく寂しくなった。気分を変えようと別の質問を口にする。
「それにしても、三千メートル近い巻き上げワイヤーなんてよく調達できましたね? 確か〈ろっこう〉のワイヤースプールなんて納期が一年以上かかりましたよ」
『ああ、君が遭難した時点では確かに地球上どこを探してもなかった。今使っているのはコロニーの建設現場から地上に運ばれたものだよ。私も、まさか海の上で宇宙船から直接品物を受け取る羽目になるとは思わなかった』
色々驚いた。
3000メートルのワイヤーともなれば自重だけで数トンはいくだろう。それを巻き付けているスプールも入れると十トン近い重さのはずだ。
それを地上に直接運べるだけでも驚きなのに、海の上と言うことは起重機船の甲板に直接下ろしたと言うことだろうか?
どうやって受け渡した?
まさか空中に浮いたまま?
数年前から更新されていない私の宇宙船に関する知識には、そんな曲芸みたいな運用が可能な宇宙機は思い当たらない。
唯一可能性があるとすればアローラムタイプの派生型だけど、どうやってもエンジンからの高温の噴射ガスで下にあるものは真っ黒焦げになるはず。なぜそんな事が可能なのか見当もつかない。
戻ったら真っ先に中野さん(鷹野さん?)に聞いてみよう。
そう思った所でさらに衝撃的な情報がもたらされた。
『そういえば、神戸宙港にしばらく停泊するって言ってたぞ』
「んあっ!」
変な声が出た。神戸宙港ならば私の部屋から自転車でも行ける。
これは絶対見逃せない。アローラムを初めてこの目で見た時の驚きと興奮にもう一度出会えるだろうか?
そう思うだけでわくわくしてきた。ここを出て、部屋に戻り次第出来るだけ早く行こう!
私は心に決めた。
だが、現実はそう甘くなかった。
五時間後、ようやくタングステンの牢獄から解き放たれた私は、次の瞬間、今度は高圧酸素チャンバーのお世話になることになった。
どうやらTM102のAIは、魚雷の爆発のショックで発生した耐圧殻のミクロン単位の変形を水圧の影響と勘違いしたらしく、内部の気圧を限界まで高めて外圧に対抗しようとしたものらしい。
加圧はじわじわ来たので私はさっぱり気づかなかったけど、ハッチが開かれた途端、三気圧近い環境から一気に減圧され、耐圧殻から這い出したと思う間もなくその場で気を失った。
その後は〈豊後〉が港に入るまで私は目を覚ますこともなく、全く、何にも覚えていない。
いや、一つだけ。
室内の明かりが消されていたので多分夜中だったと思う。
水面に浮かび上がるように突然ぷかりと目を覚ました私は、ぼんやりと、「何で目が覚めたんだろう」と思いながら、ただボーッと真上を見上げていた。
その時、ふと誰かの視線を感じて顔を動かす。チャンバーののぞき窓越しに懐かしい顔が見えた、気がする。夢だったかも知れないが。
彼はホッとしたように笑顔を見せると、一言何かささやいた。
分厚い耐圧ガラス越しで声を聞き取ることはできなかった。
でも。
「やっと会えたな」
彼はそう言った。多分、きっと。
---To be continued---




