第一部 Epilogue ウロボロスの輪
トロイス天文台の主望遠鏡は、複合直径一万二千ミリという超高解像度冷却CCD素子を装備した、太陽系最大規模を誇るデジタル・光学ハイブリッド望遠鏡だ。
その主操作室。
柿沼主任研究員はただ一人、観測シートに沈み込み、久しぶりに味わうそのゆったりとした座り心地にすっかり満足していた。
異星船騒動の間、この操作室もプロジェクトに召し上げられ、異星船を光学追跡する大勢のスタッフが二十四時間体勢で缶詰となった。
そのあおりをくって、柿沼は自宅待機を命じられた。それ以来、一年近くも望遠鏡はおろか天文台エリアに近づくことさえ許されなかったのだ。
木星の偉大さに魅せられ、最高の観測条件を求めていつの間にかこんな辺境にまで流れて来た柿沼にとって、望遠鏡を奪われるのは死刑を宣告されるよりつらいことだった。
彼にとって、異星船は木星と自分を遠ざける憎むべき障害以外の何物でもなかった。
イライラと待ち続けたこの一年あまり、彼は太陽系内をふらふらと飛び回る異星船を半ば本気で恨み、いっそのことこのままぱっと消えてくれないかと何度星に願ったか知れなかった。
その願いが通じたのかどうなのか、異星船は本当にきれいさっぱりと消えてしまった。
プロジェクトスタッフの深い失意と引き換えに、彼は再び平和な日常を取り戻した。
コントローラーを起動した柿沼は、パスワードを打ち込んで彼に割り当てられた作業領域を呼び出す。
長いこと中断していた観測を再開する前の日課として、鏡筒を木星のある特徴的な一点、大赤斑へと向けるコマンドを実行した。
リニアアクチュエーターがかすかにうなり、巨大な鏡筒がゆっくりと頭をもたげる。動作を窓越しに確認した彼は、ふと視線をコンソールに移し、コーヒーの染みだらけになってしまったテーブルと床を認めて眉を曇らせた。どうやらここに貼りついていたスタッフはそうとうにそそっかしい人間だったらしい。
柿沼は観測機器の稼働を確認し次第、徹底的な大掃除をしようと強く決意した。
彼にとってここは偉大なる神、木星をあがめるための神聖なる神殿であり、たとえわずかな不浄も許されるものではないのだ。
ほどなく小さく電子音が響き、鏡筒の移動が終わったことを彼に知らせた。
柿沼はディスプレイに望遠鏡からの可視光画像を呼び出し、ピントを手動で慎重に微調整してから全波長レコーダーを作動させる。
アクセスランプが二、三度閃き、タイムカウントが動きだしたのを確認した彼は、ゆっくりと木星に見とれる前にコーヒーを注ぎ足そうとマグを持って立ち上がりかけ、その姿勢のままで凍り付いた。
「おいおい、まさか! やめてくれよ!」
つぶやく柿沼の両手がまるで痙攣のようにわなわなと震え始める。
いつの間にか取り落とした低重力マグが床に新たなしみを一つ増やしたが、もはや彼はそれに気付きさえしなかった。
彼の視線はディスプレイに釘付けにされ、その両目はまるで眼窩から転げ落ちんばかりに大きく見開かれている。
「司令部か? か、観測部の柿沼だが……辻本司令の端末を呼び出してくれ」
震える指でインターホンのボタンを押しながら、彼はかすれた声で呼びかけた。
「席を外している? それどころじゃない! すぐに呼び出してくれ。大変なんだ! 緊急事態だ! とにかく、今! すぐ! ここに来てくれ!!」
彼はそれだけ機関銃のようにまくし立てると、そのままがっくりと肩を落し、崩れるようにシートに沈み込んだ。
床に転がったままのマグがつま先にあたってカランと乾いた音をたてたが、彼にはもはやどうでもよかった。
うつろな目付きでぼんやりと見つめるディスプレイの中では、彼の愛してやまないメタンの分厚い大気をかき分け、次第に全身を現しつつある巨大な人工物の姿が鮮明にとらえられていた。
地球のそれとはひどくかけ離れた形だが、細くくびれた船腹に、グラマラスにぐっとふくらんだ船尾とおぼしき部分……
しかも、果てしなく巨大な…
---I'd like to meet you again soon.---
最後までおつきあいいただいたみなさま、本当にありがとうございました。
皆さんのおかげでどうにかここまで書き切ることができました。
恐らく、それほどお待たせすることなく、また彼らに再会できるのではないかと思います。
それでは、それまでしばしのお別れを。




