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紅の空

作者: 鱈井 元衡

 ある時から、空が突然、紅に染まった。

 まるで、おびただしい血の海のようだった。

 あまりにも澄んでいて、深く、濃く、恐ろしささえ感じたけれど――それを口に出すにはあまりにも妖艶で、幻想的な紅の空だった。


 紅の空には、何か異様な前触れがあったわけじゃない。気づくとすでに、僕らの知っている青い、海のような空に、一つの赤い斑点が浮かんでいた。

 初め、誰もがその目を疑った。一体、あの空にぽっかりと空いた、赤い穴は何なんだろう。あれは本物なのか?

 それとも偽物か?

 だが数日でその斑点は急激に大きくなっていった。赤い斑点は、僕らが息をのんで見守る中急激に膨張し、青い空の領土を瞬く間に侵略していく。

 世界の終わりか、と思わずにはいられなかった。あの赤は、地上全てに君臨するかのごとく空に満ちていったのだ。

 しかも、その青い空がなしくずしにされていくたびに、僕らは今まで固く信じて疑わなかったものを、粉々に壊されていくような気がした。


 さほど久しくも経たぬ頃、今まですべての人間が見慣れていた、青々とした宝石のような色の空を、僕たちは目にしていなかった。

 代わりに、あまりにも赤い決して崩れたりすることのない血の大洋が、はるか彼方から僕らを覆っていた。

 ただ、それだけのこと。……ほかに、何も変わらないのに。

 それだけのことで、世界中が馬鹿騒ぎの渦にのまれた。

 ある人はこれを神の罰であるといい、ある人はすぐに収まるといい、ある人は新しい時代の始まりだと叫び、他の人々は「関係ないさ」とつぶやいた。

 世界中で、赤い空が青い空にとってかわった。

 それは真理であって、誰にも否定できるものではなかった。


 それにしても……と、いつも意う。

 全くの疑問だ。いつから空の色が青であると思いこんでいた? それが真理であると、誰が決めつけていたのだろう?

 最初、僕の周りには空が赤いことを認めない人がたくさんいた。

 現に、僕の叔父がそうだ。

 叔父はいつも物事をあまりにも深く考えすぎる癖があり、誰かの放ったささいな一言にさえ深く記憶にとどめ、なぜそのような言葉を発するに至ったか、その理由に関する考察を人前でべらべらとしゃべり散らかす。

 だが叔父のそれはノイローゼというべきものではない。妄想的なまでに哲学的なのだ。

 叔父と言えば……このような思い出があった。

 たしか、紅の空が誕生したわずか数日後のことだった。

 まだ僕らの誰も紅の空を認めることができなかっただろう。僕も、この紅の空を虚偽と思い、その眩惑の解ける日を今か今かと待っているところだった。

 血の海に浮かぶ巨大な白い球体を視つめながら、僕が言わく

「今日もあの空、青くならないね」

 傍らには叔父がいた。

「お前にはあの空が赤く見えるのだろう。だが人間以外の生物にとって赤色ではないという可能性もある」

 万事こんな感じなのだ。いつも、物事を断定するのを避けようとする。叔父は

「我々の認識におけるクオリアが変異したまでだろう。空は赤色でも何でもない。あの空そのものは、実は赤色ではないのかもしれん。勝手に我々が赤い思いこまされているという可能性もある」

 真実を確かめようとせず、こんなことを口走るのだ。

「あるいは、空とはそもそも赤いもので、何らかの拍子で我々が空が青いものであるという妄念が解けたのではないか? 理由は分からないが、恐らく胎児の段階において受け継がれてきたその考えがなくなったのではないか? また古代人と現代人では色覚が違っていたそうだ。それは実は急激なもので、その変化が我々の世代にいきなり発生して――」

 いいかげん目覚めてくれ、と思う。

 空が青いことには科学的な理由がある。だがどうしてその理由で『青い』と言えるのか、それに関する答えと言う物はいまだに発見されていない。だから叔父はこのようなことを早口にまくしたてるのだ。

 それはさておきと――最近、空が突如として赤くなった理由が判明した。

 少し前からその存在が確認されていた、大気中に数億匹と生息するバクテリアがなんらかの理由で次々と突然死を遂げたそうだ。そして死んだバクテリアが内部で化学変化を起こして、赤く変色したのだと。

 また……他にも変化があった。

 それまで宇宙に打ち上げられていた人工衛星が次々と地球との連絡を途絶した。おそらくバクテリアが電波を遮断しているのかも。これだけでも、世界中で紅の空がいかに大きな『産物』をもたらしていることはよく分かる。

 だが一応それからことに大きい変化は、空の色に関する言語表現が、次々に変化したことだ。

 もはや青空という言葉は虚偽の物となってしまった。そうではなく今僕たちが用いている言葉は『赤空(あかぞら)』だ。『青々とした』が『赤々とした』になり、『蒼穹(そうきゅう)』は『紅穹(こうきゅう)』という言葉に変わった。

 空が赤いという表現を教科書や辞書に適用させるべきか、論議する人さえいる。

 だがやはり、叔父は空が赤いことを認めようとしない。バクテリアが赤く変色したのも、人間から見ればそういう風にしか分からないのだろう、と説教し続けている。


 今、まわりの人々の間に、今度は空が赤いという固定観念が生まれだした。

 空が赤いものであるとする考えがすっかり精神の奥底に吸収され、誰もがそのことに疑いを持たぬようになっている。なにしろ、赤い空以降に生まれた人間が、青い空を映す写真を見て、

「なんやこれ? 空の色を塗り替えたんやろ?」

 と言うくらいなのだから。

 それを痛感したのは、それほど昔のことでもない。

 僕は、知り合いである一人の少女に偶然あるレストランで再会した。かつてはよく一緒に遊んでいた少女である。僕らはすっかり童心に帰り、昔の思い出や、近況についていろいろ話し合った。

 店を出たころ、すでに日が落ちかかっていた。空はもう夕暮れ、といってもかつての青い空が君臨していた時代とはあまりにも違う。

 かつての青い空の元にあった夕焼けの空は、明るく澄み切っていた。それはあまりに幻想的で、時にはこの世のはかなさを思い知りさえさせる、美しいものだった。

 ことさらに慣れ親しんだあの光景は、もういみじくおどろおどろしいものになっていた。

 青い空の頃における夕暮れと同じ時、紅の空は鮮やかさを失ってさびた銅の如くなり、雲々が赤黒く照らされ、太陽の弱々しくもまぶしい光がそこに加わって奇妙なコントラストが生まれていた。

 それはあたかも、世界の終わりが始まったかのような光景だった。僕はその景色が好きではなかった。しかも、そこにふらふらとやってきた赤い雲が、僕の鬱屈な感情にさらに寂寥感をもたらすのだ。

 建物が立ち並ぶ街の中心を離れて、大きな川を渡す橋の方まで来た時、彼女はいきなり空を指さして言ったのだ。

「あの空は本当に赤々としているわね。とてもきれいだわ」

 僕は即座に言った。

「君はあれを美しいというのかい?」

「どうして? 異世界にいる感じがするじゃない」

 あの夕暮れには、優しさがない。内面的なものを含むわびしさはあっても、温かみがない。

「たしかに、この世のものじゃないって感じはするさ。でも、昔の夕暮れの方がもっといい感じがしたと感じる」

「昔の空のことを言っているの?」

 かつての少女は

「でもさ、赤い空って結構かっこいいじゃない? 昔の青い空って、力が効いてないのよね」

 とそう言った。

「こういうのを観てると、全てはうたかたのごとくなのね、って感じがするのよ。この世界は」

 少し驚き。

 昔のこいつなら、世界を虚無とみなす言葉なんて一つも発さなかったはずなのに。

 いや、あるいは彼女の個人的体験がそう感じさせたのかもしれない、という推論も可能であるが、あれを告げた時の彼女の表情は――少女の時そのもの、だった。

 紅の空によって人間は少し変わってしまったのだろう。青い空だったからこそ、人間が自然に持っていた感情は、赤い空を真理であることによって変化していくのだろう。

 いつだって空は青かった。誰もが「空を青い」と信じて疑わなかった。

 今は違う。

 いつも空は赤く、もう「空は赤い」を真理とみなす人々は増え続けている。

 赤い空と、青い空が人間に生み落とす『心』とは、全く違うものなのだろうか?


 結局、こう考えるしかない。

 世界がそういう風に見えているのは、元からそうなっているからだ。

 空がいきなり赤くなったのも、つまりはなるべくしてなったからにすぎない。

 そのことに惑わされる方が、時間を徒費すると言うものだ。

 家のベランダから、やはり赤と黒の間でなずさい続ける夜空を見つめて、そう思った。

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