新年-2-
夏撫飛鳥。
彼女は物々しい町並みとは無縁の、静かな田舎の方で産まれた。
車の音は農作業に使われる乗り物以外なく、街灯も数十メートルおきに立っていなく、舗装された道路の方が少なく、駐車場は田畑となっていた。
騒々しいのは虫の羽音くらいで、それ以外はのんびりとした優しい空間だった。
故に若い者たちより年老いた者たちの方が多かった。
だから飛鳥と年が近い子はいなく、姉妹もいなかったためいつも一人で遊ぶか年寄りと一緒にいた。
そんな中、一番年が近かった子が一人だけいた。
その娘は叔母の元に遊びに来た都会人で、一日だけ遊んでもらう機会があった。
彼女は飛鳥よりも七つも違い、クールな雰囲気をかもちだしていたものの、飛鳥の姉のように可愛がってもらった。
「飛鳥ちゃんってさ、私って言うよりボクって言う方が可愛いと思う」
おままごとを二人でしている時に、不意に彼女が飛鳥にむけてそう提案してくる。
まだ五歳の飛鳥にとって一人称のことをよくは知らずに聞き返した。
「どうして? ぼくって、おとこの人がいうんじゃないの?」
「なんとなく。可愛いと思うから取り敢えず言ってみて」
彼女の言っていることに半信半疑のまま、飛鳥は自己紹介をしてみた。
「えーっと、ぼくのなまえはあすかです」
しかし彼女は難しい顔をして唸る。イマイチ言っていることが伝わっていないみたいだった。
「……違うな。ぼく、じゃなくて、ボク」
「……? ぼく、じゃないの?」
「なんて言うかな。ぼくとボクは違うんだ」
「うーん……よくわからない……」
「そのうちわかるさ。ほら、ボク」
何度もボクということを言わせられ、おままごとをそっちのけでそれの練習が始まった。
最初のうちは全然変わらなかったが、少しずつボクに近づいていった。
「ぼ、ボク!」
「それだ。がんばれ」
近くなったり遠くなったり、紆余曲折しながらも飛鳥は長い時間をかけてようやくボクと言えるようになってきた。
そのことを習得した頃には彼女の帰る時間となってしまっていた。
互いの母親がペコペコと頭を下げている間、二人は笑って約束を交わしていた。
「今度はうちに来なよ。歓迎するから」
「うん! ぜったい行くね!」
子供らしくお互いの小指を出して指切りを始める。それを母親たちは暖かく見守った。
それから少しも経たずにある事件が起こった。
「ねーねー、なんであすかちゃんって、ぼくって言うようになったのー?」
幼稚園での些細な出来事。
早速飛鳥が自分のことをボクと言い始めたら友達の子が訊ねてきた。
「えーっとね、ボクって言ったほうがかわいいって言われたから!」
「へー。そうなんだー!」
「でもおんななのにぼくってへんじゃねー?」
その時の男の子の何気ない一言が、飛鳥に響いた。
「へん、なのかなぁ……」
でもあの人は可愛いと言ってくれた。褒めてくれた。
あの時には何も疑問に思わなかったが、女の子がボクというのは変なのだろうか、と。
そして訊いた。母親に、ボクって言うのはへんなのかな。と。
そうしたら鬼のような形相で飛鳥を叱った。
「女の子が僕なんて言うんじゃありません! 僕なんて可愛くないでしょ!?」
母親が少し厳しいことは飛鳥も日頃からわかっていた。それでもそのような怒られ方は初めてだった。
そんな怒られることより、間違ったことを心の中に反芻してしまった。
僕なんて可愛くない。
ボクはかなであすか。
じゃあボクはかわいくないの?
僕はかわいくないから、ボクもかわいくないんだ。
それ以降その言葉が頭から離れなくなり、無意識のうちに心の深いところまで根付いてしまった。
ボクは可愛くない。
可愛くないから、ボクって言う。
それからの飛鳥はとことん自分のことを褒められる度に謙虚な姿勢になった。誰もが違和感を覚えるほどの。
自分は可愛くない。
だって母親に言われたから。
彼女のことは別の所に置いてきてしまい、どうしてボクと呼称しているのかすら忘れてしまった。
そんなおぼろ気な存在になりつつなっていても、飛鳥は高校を選ぶ時に自然と都内を選んでいた。
何故かはわからない。地元の高校でも飛鳥はよかったのだが、それではいけないと勝手に脳が警告してきた。
当然母親は反対した。父親は反対ことしなかったものの、一人暮らしの方には唸っていた。距離や時間、お金の都合上一人暮らしの方が安上がりなことはわかってはいたのだ。
それでもたった一人の娘を一人だけで都会に暮らさせることは両親にとって怖いものでもあるのだ。
「本当に、ここに行きたいのかい?」
「行きたいです。ここが一番行きたい高校です」
飛鳥の強い意思と説得により、両親はそこの高校に行かせることを決断してくれた。
それから無事に合格した飛鳥は親元を離れ、両親が決めてくれたとあるマンションに住むことになった。
これからここで一人で暮らしていくんだと思うと、ワクワクの他に不安といった感情も入ってきた。ちゃんと上手くきるのだろうか、と。
でもあることのために、それまで頑張っていこうと決めたのだ。
「…………よし!」
そして飛鳥は学校初日にあんな漫画のような運命的な出会いをするなんて思ってもいなかった。




