プロローグ
「寒い…。」
空は暗い雨雲が覆い、冷たく激しい雨が力なく横たわる彼に降り注いでいる。まるで天が戦場に立ち込め続ける硝煙の香と、引き裂かれた地面を彩る無数大量の血肉を彼ごと洗い流そうと試みているかのようだ。
「…寒い。」
雨はそれ以外にも、虫の息とはいえまだ生きている彼の体温を容赦なく奪っていく。特に体に何発もの銃弾を浴び、血で濡れていない箇所がほとんどない程出血している彼には余計に冷たさが身に染みる。
「…………さむい。」
しかしそんな雨の中でも遠くに木霊する砲撃音や銃声は奪えないのか、死に間際の彼に子守唄のごとく響いていた。彼の仲間はまだ戦っている。この国を守るために、そして生き残るために。
「…………………さむ…い。」
彼は暗い空をその瞳に映しながら自分の過去をふり返る。
宣誓文を声高らかに読み、国防を誓った入隊式の日。同期と共に乗り切った過酷な訓練の日々。部隊に配属された日。後輩・同期・先輩・上官との訓練や宴会の日々。初めての酒にたばこ、合コンとキャバクラ。
落下傘を背負い、初めて飛んだあの日。空挺き章を胸につけ、精鋭という誇りを持った日。
防衛出動が発令された日。親、友人からのたくさんの電話やメール。部隊皆で決意を書いた国旗の寄せ書き。戦場の空に舞い降りた日。初めて敵を殺した瞬間…。
死んでいった同期や後輩の顔。最後まで励ましてくれた先輩。泣く泣く置いていくことを決断した上官。
いったいどれだけの敵を殺しただろうか、二けたを過ぎたところで数えるのをやめた。どうせ地獄に行くのだから。
いったいどれだけの人が自分を悲しんでくれるだろうか。考えるのはよそう。もう死は覚悟している。
「………………………さ、む…い。」
後悔が無いわけはない。読み終えてない漫画、観ていないアニメ、完結していない小説、まだ見ぬ将来の彼女。
まだ戦っている部隊の皆。もう戦えない自分。
事に臨んでは危険を顧みず、身をもって国民の負託に答える使命。果たせず半ばにして自分は逝く事の、この不甲斐なさ。
「…あ、………ああ。…あ。」
もう片方だけになったドックタグを彼は力いっぱい握った。しかし彼に残されている力などもはや無いに等しく、すぐに地面へと落ちる。
「………………はぁ。」
暗い空を近くに感じ始めた彼の瞳が光を失っていく。死神の足音が近づいているような気がした。
「………か?お…………のだ。」
もはや聴覚すらもままならないのに、耳に届いたその音は自分に何かを伝えているような気がした。本当に死神が来たのかな。
彼にとってもはやどうでもいいことだ。暗い空、激しい雨、立ち込める霧。逝く前に抱く無念や後悔。心に渦巻く悲しみ、怒り。
彼は思う。死神よ、自分の願いを聞きてくれ。叶えないでもいいから聞いてくれ。
もう一度、青い空が見たい。
あの青い空の中を、もう一度降りたい。
あの時の太陽の光を、清々しい風の音を、そして感動をまた…。
「………………。」
いつの間にか彼の息は止まっていた。光を失くした瞳には、相変わらず暗い空が映っている。
しかし彼は納得したのだろうか、または青い空を思い浮かべたのであろうか、その死に顔は穏やかだった。
相変わらずの暗い空と激しい雨は、一人の自衛官の死を洗い流すかのごとく、さらに勢いを増すのであった。