悪夢の始まり
長編推理小説初挑戦です。まだまだ未熟で、描写が荒い部分も多いですが少しでも楽しんでいただけたら幸いです。
ずいぶん久しぶりだと私は思った。
大学時代、頻繁に通った通学路。この辺りは主要の幹線道路からは少し外れているが、住宅地の合間を縫うように道が舗装されているので、夜になっても真っ暗ということはない。だが、明かりのついていない学校は随分と気味が悪かったし、その近くの林の傍を通ときは自然に足早になったものだった。
もう九月の上旬であるにも関わらず、今年は例年よりも残暑が厳しいらしい。私は額に汗の粒を浮かばせながら、林に隣接する長い階段を上っていった。上り始めてから数分、私は自分の体力がかなり衰えたことを実感した。まだ半分も達していないのに息が荒くなる。シャツが汗を吸って気持ち悪い。この地特有の粘着質な熱気は私から急速に体力を奪っていった。学生の頃は平気だったはずなのに、と私は苦笑する。年はとりたくないものだ。
林からはセミの鳴き声が聞こえてくる。これはヒグラシだろうか。キキキキキ……と次第に消えてゆく哀愁を帯びたメロディーは、妙に涼やかに私の耳に響くのだった。
その居酒屋に着いたのは午後八時を少し過ぎた頃だと思う。大学からほど近い場所にある四階建ての雑居ビル。二階が麻雀、四階がカラオケのフロアとなっているため、学生が娯楽を求めて利用することが多い。私も大学時代はたまにここを訪れてはストレスを解消していたものだった。――もっとも、あんな事件が起こった後では私に心安らぐ場所などどこにもありはしなかったのだが。
居酒屋はこのビルの一階にあった。店の入り口の横には『柳蘭』と書かれた古い看板が立て掛けられている。それなりに繁盛しているのだろう。所々にヒビが目立つ壁からは、微かに客の笑い声が漏れ聞こえてくる。耐震工事はしているのだろうか、と常からの疑問を今日も抱きながら、私は店の中へ入った。
暗い夜道から明るい店内に入ったため、目が慣れるのに少し時間がかかった。おや、と違和感を覚えたのはそのせいだった。おそらく古くなった照明を買い換えたのだろう。以前は淡い光に包まれていた店内が、今日は白く寒々しく映った。私たちがそうであるように、この店も時代と共に変わりつつようだった。記憶と変わっていないのは、店内の隅にあるテーブルがテニスサークルの常連で埋まっていることと、壁の上部に掛けられている古びた時計、そして酒の臭いだけだった。
「お、来た来た。おーい、高柳、こっちだ」
昔何度も足を運んだはずなのに、まるで初めて来たかのように物珍しく店内を見回していると、一人の男が私を見て手招きしていた。やや薄い頭髪に、丸顔。まるで子供のようないたずらっぽそうな目。中年体型でよくあるように、お腹がでっぷりと出ている。まあ、その点に関しては私も似たようなもので、あまり人のことは言えないのだが。
私も彼に向かって手を振って応えた。
「久しぶりだな、東宮。大学卒業以来だから、もうかれこれ二十年か」
お互い学生時代に携帯電話のメールアドレスを交換してはいたものの番号は知らなかったので、こうして言葉を交わすのも二十年ぶりということになるが、彼の名は懐かしさや時間の溝をまるで感じさせないほどフラットに私の心に響いた。
「お前とはそうなるな」
「お前とは?」
妙な言い方だ。
「ああ。俺と若林は高校の文化祭で顔を合わせているからな。おおよそ五年おきにといったところだが、いやはや五年、十年経てば人は変わるもんだなあ。外見はもちろんだけど、中身もこう、全体的に丸くなった感じか。高校時代は将来の夢を豪語していた奴も、今ではそこらへんにいる凡庸なサラリーマンと変わらない。久しぶりに交わす内容は、政治や会社の上司への不満、あるいはお互いの結婚生活や芸能界のスキャンダルといった面白みのないものばかりだ。まるでありきたりなドラマの一場面も眺めているようで、なんとも言えない気持ちになったね。正直、由佳たちとバドミントンの団体戦優勝を目指していたときの方がよっぽど楽しかった」
まるでジョッキの中に注がれたビールに語りかけるような口調だった。そして彼の言葉に出てきた由佳という名前が、私の記憶を過去へ過去へと巻き戻していく。決して戻らない、とある少女と送った華やかな日々のことを――。
時は二十数年前、私たちが横浜市内の某大学に入学したときまで遡る。就職氷河期と言われていた当時では、大学生の就職内定率が六十パーセント前半とかなり厳しい状況に追い込まれていた。これは私の先輩から聞いた話だが、一流大学のトップクラスの成績であっても四十社ほど採用試験を受けるくらいはザラだったらしい。そういう荒波もあって、できるだけ就職に有利な道に進もうと決めた私は、工学部電気電子情報工学科へと進んだ。
入学当初は友人もおらず、講義内容、履修登録、各サークルの新歓コンパなど、慣れないことだらけで戸惑ったものだが、五月の半ばくらいには周囲の環境にも下宿での一人暮らしにも幾分余裕ができた。
東宮陣と知り合ったのは、第一回の英語実習のクラスだった。たまたま席が隣同士になったのをきっかけに、東宮の方から話しかけてきたのだ。簡単に自己紹介をした後、私たちはお互いの趣味や地元のことなどを話し合った。
東宮は名古屋市内の有名私立高校の出身で、現役時代は京都大学を目指して勉学に励んでいたそうだが、入試前日に体調を崩してしまい惜しくも不合格となった。進学校の特徴として、本当に自分が行きたい大学を目指すために浪人する生徒が数多くいることが挙げられるが、東宮もそんな空気に流された一人だった。しかし一浪しても学力は大して伸びず、またしても不合格。さすがに二浪はできず、やむなく滑り止めとして受けたY大に入学したのだった。
その結果を、世話になった進学担当の教師に報告したところ、東宮の一つ下の後輩に当たる若林陰が現役でY大の教育学部に合格したこと、若林はバドミントン部に入るらしいからお前も行ってみたらどうだ、というようなことを教えてくれたらしい。もともと高校でもバドミントンを通して若林と交流があった東宮は、教師の提案通り、バドミントン部の新歓コンパに顔を出したという。
「学科の友達にも面白い奴はいるけど、やっぱり地元を語り合える親友が一番だよ」
とは、私にも入部を勧めてきた東宮が語った評である。それほど二人は仲が良かったのだろう。ともあれ、GW明けから正式に部員となった私は、東宮と若林、それに祟利渚と霊峰隠由佳を加えた五人で楽しい大学生活を送ることになる。もっとも渚と由佳は経済学部だったため、五人集まれる機会は主に講義後の部活か、昼休みのカフェテリアだけだったが、田舎者の私としては都会育ちの彼女たちの話は新鮮だったし、なにより由佳の魅力的な笑顔に惹かれていった。
二年の春に由佳と正式に付き合うことが決まったとき、仲間たちは大いにはやし立てた。その晩はみんなで私の下宿に集まって、お祝いパーティと称した飲み会を催した記憶もある。渚なんかは東宮に「じゃあ、私たちも付き合っちゃおうか」などと冗談交じりに囁いては、その言葉を割と本気に考えていた東宮をからかっていた。もちろん、「それだと、僕だけ彼女いないことになるじゃないですか!」と若林が気を落としていたのは言うまでもない。
そして――そんな幸せな日々は長くは続かなかった。
「まさか、由佳が殺されるとはな……」
店員にビールの追加を注文しながら、東宮は心ここにあらずといった様子で呟いた。あの事件が未だに信じられないだろう。それは私も同じだった。
「確かあれは――」
「二年の夏休みに入った直後くらいね。あんたたち二人が電気系に行くか情報系に行くかで散々悩んでいたのを覚えているから」
突然見ず知らずの女性が会話に入ってきて、私は一瞬どきりとした。しかし、すぐにかつての旧友の雰囲気と重なり、私は彼女に笑顔を向けて言った。
「渚か。これまたえらい別嬪さんになったな」
「ふふ、そんないやらしい目で見ても何も出ませんよーだ。しかし零君もかなりオジサン臭くなったわね。もっと身なりや言動に気をつけないと結婚なんてできないわよ。ジン君はまだしも、カゲ君にも先を越されちゃって」
私の隣に腰を下ろした渚は早速痛いところを突いてくる。この手の話題に弱い私としては苦笑を返すしかない。
「あいにく、しがない物書きには劇的な出会いに恵まれなくてね。月に二、三回ほど打ち合わせで顔を合わせる編集者が唯一の恋人といったところかな」
「相変わらず詩的な表現するのね。でもまさか工学部を良い成績で卒業した霊君が作家になるとは思っていなかったけど……やっぱり由佳が死んだことが人生の岐路になったのかしら」
私は答えに窮した。確かに渚の考えは正鵠を射ていると言っていい。あの事件以来、私は昔以上に由佳の存在に固執するようになった。もちろん、由佳はもうこの世にいないということは重々理解していた。彼女の葬儀では涙を枯らさんばかりに流したし、今でも時々は由佳の実家を訪問して仏壇に線香を供えたりもしている。しかし彼女の存在だけは何年経とうが私の中から消えることはなかった。私が作家になる以前に勤めていた電話会社でも、通勤から帰宅までの間、ずっと由佳の影がちらついていた。私は幽霊の存在を信じるほうではないが、あのときは体中を恐怖が駆け巡ったものだった。
だが数年経ち、私が作家としてそれなりに売れるようになってきた頃には、気味の悪さもだいぶ薄れていた。いや、それどころか安心感さえ覚えていた。由佳の霊(この頃には私も幽霊肯定派に傾きつつあった)は依然として昼夜場所問わず、常に気配を漂わせているが、それは私に悪さをするといった類いのモノではなく、むしろ守護霊のように私の身に危険が迫らないよう見守ってくれているという感じに近いのだ。
渚が評したように少し詩的な表現をするなら、身体は遠いが心は近い、といったところだろうか。そのもどかしい関係は、まるで昔の恋が今でも続いているかのような錯覚を見せてくれる。そしてこの奇妙な温かさが続く限り、私はとても他の女を好きになることができないのだ。
「そうは言ってもねえ……。そのお前が言う由佳の霊っていうのは、なんらかの気配を感じるだけであって、別に姿が見えたり声が聞こえたりするわけじゃないんだろ? それじゃあ、ただの思い過ごしという可能性だってあるわけだ。過去に愛した女性を吹っ切れない奴の中には、いつまでもその影を引きずるケースも少なくない。ましてやお前と由佳はお互い本気で愛し合っていたんだ。それをあんな形で急に壊されたら、少しくらい気が変になったって仕方ないさ。もっとも本当に幻覚や幻聴まで出始めたら精神病の疑いがあるけどね」
「ジン君の言うとおりよ。いつまでも過去に囚われていたら前へは進めないわ。良い機会だから、この辺できっちりケリをつけましょうよ。いい? 由佳は死んだの。二十年前に何者かに殺されて。彼女は決して蘇らないし、もちろん霊も存在しない。だからもし零君が誰かの気配を感じるというのなら、それはちゃんとこの世に生きている人よ。零君は売れている作家だから、ファンの一人かもしれない。あるいは――」
「由佳を殺した犯人」
私のつぶやきに、東宮と渚はびくっと体を震わし、次いでお互いの顔を見合わせた。その強ばった表情は明らかに動揺しているように見えた。渚は目の前のビールを飲み干すと、唇を舐めて静かに切り出した。
「確かにその説もゼロではないと思うけど、それならなぜ二十年も零君をつけ回しているのか、という疑問が残るわね。殺すつもりならさっさと殺すだろうし、そもそもあの事件に霊君は関わっていないはずだし……」
東宮も、ジョッキを持った右手の人差し指をこちらに向けながら意見を述べる。
「高柳の説を補足するなら、犯人は由佳と高柳の両方と関係に深い人物ってことになるな。もしくは二人の交際を知っていた人物か。いずれにせよ、その条件に当てはめるなら、まず真っ先に挙げられるのは俺たちだが、あの日は渚も俺も、そして若林にもアリバイがある。なにより由佳が殺されていた部屋は完全な密室だったんだ。あの謎を解き明かさない限り、犯人を特定するのは難しいだろうな」
密室。当時私は体調を崩し、大学近辺にある船員保険病院に短期間入院していたため実際に現場を見たわけではないが、私の病室を訪れた刑事の話によると、どうやらそのような状況だったらしい。無論、そのときの私は密室などどうでもよく、由佳が死んだという事実だけが心を掻き乱していたのだが。
「由佳は、彼女が下宿していたアパートの一室で殺されたんだったな」
私は渚に訊いた。
「ええ。二階建てのアパートの角部屋、確か部屋番号は201だったかしら。私がコンビニから帰ってすぐに彼女の部屋のインターホンを鳴らしたんだけど、反応がなくて。携帯の着信音は部屋の中から聞こえてくるのにおかしいなと思ったのよね。それで大家さんに頼んで合鍵を使って中に入ったら……」
渚は言葉を切ると、体を抱きしめるように両腕をさすった。
「由佳が部屋の中央に俯せで倒れていたの。彼女は白いワンピースを着ていたから首筋にくっきりと残っていた細い紐状の痕がよく見えたわ。顔も血の気がなくて、まるでそう、幽霊のようだった。それで私も大家さんも気が動転してしまって……警察と救急車には連絡したけど、その後の事情聴取は完全に上の空だった。警察からの連絡を受けてジン君とカゲ君が駆けつけてきてくれなかったら、私まで気が変になっていたかもしれない。でもよりによってどうして由佳が……。私たち親友だったのに……」
細い身体を震わせる渚の背中を私はさすってやった。
「すまなかった。久しぶりの再会だというのに無神経だった」
本来なら今日は、私たち四人のささやかな同窓会となるはずだったのだ。それを、私のつまらない妄想のせいで和やかな空気を壊してしまった。やはり私は一人でいるほうが性に合っているのかもしれない。
「ううん。私が涙もろいだけだから気にしないで。それに今日の集まりは由佳の一件を風化させないためでもあるんだもの。カゲ君が来られなくなったことは残念だけど、彼の分まで由佳を弔ってあげないと」
「そうだな。由佳は俺たちみんなのアイドルだったんだ。高柳と付き合うと聞いたときにはそりゃあショックもあったが、あいつの嬉しそうな笑顔が見られるのなら別にいいか、と妙に納得したものさ。こんなこと、この歳になってからしか言えないけどな」
それからはかつての昔話に花を咲かせた。由佳が文化祭のミスコンで上位に入ったこと、工学部図書館が耐震工事を兼ねて改装されたこと、みんなで食事に出かけたとき由佳がもんじゃ焼きをひっくり返そうとして失敗したこと、出席回数が足りず危うく単位を逃しそうになったこと――。
そうして気付けば十一時を回っていた。駅に向かうバスはもう残っていない。どうやらタクシーを呼ぶ必要がありそうだ。
「――と、もうこんな時間か。明日も仕事があるし、そろそろ切り上げようか」
東宮が背広を取り、ややふらつきながら重い腰を上げる。
「ちょっと大丈夫なの? そんなにふらふらしちゃって。ジン君の自宅はここから歩いて帰れる距離だったと思うけど、今日はおとなしくタクシーを利用した方がいいんじゃない」
「いや、今日はなんだか歩きたい気分でね。酔いを覚ますという意味でも夜風に当りながら帰ることにするよ。高柳はどうする。途中まで方向が同じなら一緒に歩かないか」
東宮の提案に私は頷いた。よし決まり、と彼は立ち上がり、伝票を持ってレジへと向かった。
店の前で渚と別れてから、私と東宮は例の長い階段を下っていた。熱気は幾分和らぎ、心地よい秋風が感じられた。
階段を下って住宅地を抜けると、両側を田んぼに囲まれた田舎道へと出る。都会特有のせまい空から一転、開けた視界の彼方にはぼんやりと霞んだ三日月が浮かんでいた。背後から迫ってきていたバイクを道の左端に寄ってかわしたとき、それまで思案顔で沈黙していた東宮が、それにしても、と声を上げた。
「高柳、さっきの話、一体どこまで本気にしてるんだ」
「さっきの話?」
「由佳の霊のことさ。今この瞬間にも気配を感じるのか」
遠い横浜の明かりを見つめる背中に、私は「ああ」と頷いた。彼は、そうか、と短く呟いてから低いため息を漏らした。
「柳蘭では渚の手前、ああ言うしかなかったけど、俺としてはお前の単なる思い過ごしなんかじゃないとも思っているんだ。これは会社の同僚から聞いた話だが、彼の友達の奥さんが今のお前と似たような体験をしていたらしい。一日中誰かに付きまとわれているようで気味が悪いと、日頃から夫に相談していたそうだ。夫は質の悪いストーカーの仕業だろうとなだめていたそうだが、妻の方は日に日に精神状態が悪化していったという。何もない壁に向かって怒鳴ったり、深夜に訳もなく外出したり、あとは……そうだ、以前付き合っていた男性と縁の深い場所に赴いてはぼうっと佇んでいることもあるとか言っていたかな」
「それは……」
「な? 過去の想いを引きずっているところが、けっこうお前と似ているだろう。もっとも、その男性は由佳と違ってまだ生きているそうだがそれはさておき。困り果てた夫は、とうとう妻を病院に入院させることにした。だがそれが間違いだったんだろうな、入院させてから一週間後の深夜、妻は病室の窓から飛び降りて死んだそうだ」
「死んだ……?」
それはあまりにも衝撃的な結末だった。私のように得体の知れない気配に脅かされ、病院送りにまでなった結果が死とは……。
知らずに私はその場に立ち竦んでいたらしい。月の隠れた真っ暗な闇の向こうで、東宮は足を止めて振り返った。
「おそらく思い出に縛られすぎていたんだろうな。幽霊なんてただの迷信だと今でも思っちゃいるが、ふとしたことがきっかけで、そういう誘いの手が見えることだってあるかもしれないってことだ。精神的なものから来る一種の衝動みたいなものか。それがどういう状況下で起こりうるかはわからないが、お前みたいに普段独りでいることが多いと、人間はどうしても色んなことを悪い方向に考えてしまう。その妻と同じ末路を辿ることになるとも限らないわけだ。――それでもお前は、由佳を愛し続けることができるのか」
愛し続ければ、いずれは死ぬかもしれない。私の人生を、二十年も昔に死んだ恋人のために捨てる覚悟があるのか、と東宮は問う。
私はしばしの間黙考していたが、雲の切れ間から再び月が顔を出したころ、真っ直ぐに東宮の目を見て答えた。
「――ああ、愛そう」
たとえ死者でも、私はいつまでも由佳を愛そう。それが、この二十年間、私を見守り続けてくれた彼女への答えだった。
東宮は十字路で足を止めると、ふっと柔らかく微笑んだ。
「由佳は本当に幸せなやつだな。ま、これからも体に気をつけて頑張れよ。お前の新刊が発売されるのを毎回楽しみにしているからな。じゃ、俺はここで。たまには連絡寄越せよ」
「ああ、わざわざありがとう。嫁さんによろしくな」
東宮はこのまま田舎道を西へ、私は南へ折れて最寄りの駅へと向かった。由佳は相変わらず私にぴったり寄り添うようについてくるが、不思議と体は軽かった。
駅に着き、横浜方面への切符を購入した後、プラットホームに降りた。時計を見ると、十一時三十七分を指していた。あと一時間ほどで終電のはずだが、それでもまだ五、六分おきに電車が到着するのは有り難かった。都会の人混みは未だに苦手だが、交通網の広さと運行ダイヤの正確さは、私が都会生活で気に入っている数少ないポイントの一つだった。
電車に乗り込むと、案の定車内はがらがらだった。私は座席でいびきをかいて寝ている酔っ払いから少し距離を置いて座った。
向かい側の窓に映った自分の姿を見る。よく実年齢よりも老けて見えると言われるが、なるほど白髪交じりでくたびれたような表情をしていればそのように映るだろう。どこから見ても、売れている作家という答えは出てこないに違いない。その唯一の小説にしても、最近は若干スランプに陥り気味だ。書きためていたネタ帳を眺めても、文章がまったく浮かび上がってこない。気晴らしにと、私が物書きを始めた頃に参考にしていた愛読書を開いても、心に響いてくるものが感じられなかった。
ふと、私の隣に由佳が座っている姿を想像した。彼女は生前と変わらない笑顔で優しく私を励ましてくれるだろう。その何気ない一言が、私の背中を後押ししてくれた場面はもはや数え切れない。
「由佳……。どうして死んでしまったんだ……」
密室であったアパートの一室で冷たくなっていた彼女。その儚い姿を思い描くだけで、私の思考はさらに黒く染まっていくのだった……。
そして翌日。九月六日、水曜日の朝。
私の携帯電話が突然バイブ音を響かせた。まだ半分寝ぼけ眼で携帯を開くと、どうやら知らない相手から電話がかかってきているようだ。そのまま無視しようかとも思ったが、重要な連絡である可能性も否定できなかったので、私は通話ボタンを押した。
果たして相手は、神奈川警察署の者だと名乗った。警察がこんな朝早くから何の用だろうと身構える私に、電話の相手はあくまで冷静に背筋の凍るような事実を告げた。
それは、今朝早く、環状二号線の高架下にある階段で東宮陣の遺体が発見されたというものだった。