家族
家に入ると、二階の方から母さんの声が聞こえてきた。
「おかえりー。今日制服採寸もあるって聞いてたんだけど、早かったね」
思っていた通り、母さんは俺が合格していると思っているらしい。
そりゃあそうだ。全体の半分が定員のため、半分より上位にいれば合格できる。今までの俺の成績から言えば、特に心配する事もないだろう。
でも、俺は落ちた。今鞄に入っているのは、入学資料が入っている封筒ではなく、軍入隊用の資料などが詰まっている封筒。制服採寸なんてしていないし、高校の校舎内にすら入らなかった。
母さんの言葉に何て返したら良いのかわからず、とりあえず廊下を進んでリビングへと移動する。
今日は平日なため、父さんや兄貴達は仕事に行っているのかリビングには誰もいなかった。
テーブルの上には今日の新聞とチラシ、飲みかけのコーヒーが入っている母さんのカップが置いてある。テーブルの目の前にあるテレビには、ドラマの再放送が流れている。数年前に放送されて人気が出たドラマだ。
その時は本気になってドラマを見ていたが、今は主人公の声すら上手く聞こえてこない。
どうやって不合格だった事を伝えるか。
その事を考えると、まるで外を走ってきたかのように心臓がバクバクと脈打つ。いつもならば居心地の良いリビングが、どこか別の部屋のような感じがする。
今朝も、いつもと同じ時間に起きて、家族揃ってこのリビングで朝食を食べた。食事の最中に新聞を見ようとした父さんを母さんが怒って、それをいつもの事だからと兄貴達と受け流して。あの時は、数時間後の自分の姿を全く想像していなかった。いや、逆に制服採寸の方法を考えたり、同じクラスになるかもしれない奴は誰だ、等とのんきな事を考えていた。
そんな事を考えていると、トントンといった軽快な足音と共に母さんがリビングにやってきた。
時間的にも薄暗くなってきた室内で、電気も点けないで立ち尽くしている俺に気付いたのか、入口付近のスイッチを押して電気を点ける。
「ちょっと、何で電気点けないのよ。目悪くなっちゃうわよ」
いつもと同じ調子で話しながら、夕飯の準備でもするのか俺の横を通ってキッチンへと移動する。
軍の事を言うんだったら、今しかない。
そう思い、俺に背中を向けて何か作業をしている母さんに声を掛ける。
「母さん…あのさ…」
「なーにー?あ、今日の夕飯は春人の好きなハンバーグにするからね。多分お父さんとかも、何かお土産買ってくると思うわ」
俺の震えた声にも気付かないのか、上機嫌で話を進めていく。
「そう言えば、小学生の頃同じクラスだった智弘君って覚えてる?あの子も合格したらしいわよ。携帯でメールを送ってくれたんだ、って智弘君のお母さんが買い物しながら言ってたわ。春人も、近くの公衆電話とかから電話くれれば良かったのに。そしたらドキドキしないで済んだのに…」
「あのさっ……俺、高校…駄目だった」
手慣れた手つきで材料の下ごしらえをしている姿を見ながら、母さんは昔近所に住んでいて、それなりに親交のあった家族の事を話しだす。俺はそれを聞きながら、今まで手に持っていた鞄から封筒を取り出す。ドキドキしすぎて、声が裏返りそうになりながらも、どうにか本当の事を話す。話しながら、何かがせりあがってくる感覚の後、頬に熱い涙が流れた。
今まで鮮明だった視界は一気にぼやけ、その中にいた母さんの後ろ姿がゆらゆらと揺れている。
「…冗談でしょ?」
俺の視界の中で揺れ続けている母さんは、今までの明るい声色ではなく硬い声で聞いてくる。しゃくりあげながらこくりと頷き、「…うん」とだけ返す。それ以上は喉に何かが詰まったように言葉が出てこない。
「これ…入隊用の資料…」
あんな硬い声の母さんなんて初めてで、手に持っていた封筒をテーブルの上に置くとどうにかこうにかそれだけを言い、そのまま逃げるようにリビングから出た。
玄関近くにある階段を駆け上がり、真っ先に自分の部屋へと入る。
勉強机とベッド、漫画ばかりしか収納されていない本棚しかない部屋。力任せに扉を閉めると、鞄を投げ捨てるようにして手から離し、そのままベッドへとダイブする。
朝、起きたままで放置していたベッドはいつでも寝れるようにと、綺麗にメイキングされていた。ベッドの横の床には、畳まれた洗濯ものが重なって置かれている。ほとんど自分で掃除をしない部屋なのに、埃すら滅多に見ない。
全部母さんがやってくれた事だ。
なんて俺は駄目な奴なんだろう。
努力したわけでもないし、本気になって勉強した記憶もない。
それなのに頭の中では、合格した自分しか思い描いてないで。
自分の情けなさに、止まりかけていた涙が再び溢れてくる。そのまま俺の頬を伝って、枕カバーに冷たい染みを作る。
あぁ、このまま寝て、起きたら昔に戻っていないだろうか。
そんな事を考えながら、ゆっくりと目を閉じる。久しぶりに泣いた事で目が疲れていたのか、目を閉じるのが気持ちよく感じた。
ハッ、と目を覚ますと、枕元にある目覚まし時計の針は七時を指していた。
先ほどよりも暗い室内の中で、ゆっくりと体を起こす。制服のまま寝ていて、上手く寝返りなどができていなかったのか背中などが痛い。
ベッドから降りて、電気を点けるためにドアの方に近づく。
お世辞にも厚いとは言えない壁やドアを通して、階下から何か話す声が聞こえてきた。
父さんか、兄貴のどちらかが帰ってきたのかもしれない。
電気を点けるのを止めて、ドアをそっと開ける。
微かにしか聞こえなかった声が、ドアを開けたためにはっきりと聞こえてきた。
「明日からどんな顔すればいいのよ!近所にはあの子と同じ世代の子が沢山いるのよ?!その中であの子だけ不合格だなんて、恥ずかしくて外も歩けないじゃない!」
「それはただの世間体だろう!お前は春人が軍に入る事よりも、自分のその後の世間体の方が大切なのか?」
「だって、私達はずっとここで暮らしていくんですよ?!それとも、他の家族のようにせっかく建てた家を売って、他の地区に引っ越すんですか?!そんなの私は嫌ですよ!」
母さんと父さんが言い争っているようだった。ヒステリック気味に叫ぶように話す母さんに、いつものように落ち着いた口調で、だけど所々声を強くしながら話す父さん。滅多に喧嘩なんかしない二人が、二階まで聞こえるような声で話している。
他に声が聞こえないことから、兄貴達はまだ帰ってきていないみたいだ。
父さんは近所の郵便局で働いているから、兄貴達よりも早く帰ってくる時がある。
そのまま扉を軽く開けた状態のままで二人の話を聞き続ける。下に降りるタイミングでもなければ、まったく無関心になれるわけでもなかった。
比較的仲が良かった両親の言い争いの原因が自分だと思うと、せっかく止まった涙が再び瞳一杯に溢れてくる。
「雅人も幸人もちゃんと合格できたじゃないですか!それが、何であの子だけ…っ」
「それは、まだ兵役義務の制度が無かったから学校だって沢山あっただろ。だから大きな枠じたいから今とは違うんだよ。雅人と幸人、春人を一緒にするんじゃない。あの子はあの子だろ」
「それはそうですけど…。でも!全体の半分は合格できるんですよ?!今までの成績だったら安全だったはずなのに…っ」
「もしかしたら体調とかが優れなかったのかもしれない。得意じゃないところが出たのかもしれない。駄目だった原因なんて、俺達が知るわけないじゃないか。分かったとしても、結果は結果なんだ。受け止めないといけない」
俺は父さんが思ってるほど努力してないんだよ。
体調は万全だった。分からないところが出たんじゃない。
そんな事ばかりが頭の中でぐるぐると回っている。
いろいろ考えているうちに話しあいも終わったのか、静かになった。少ししてから、母さんが鼻をすする音が聞こえた。
「ほら、もうこんな時間だ。そろそろ夕飯の準備しないと、雅人も幸人も帰ってくるぞ?」
「…今からなんて、何も作れませんよ…」
「じゃあ、久しぶりに出前でもするか。それだったら、二人が帰ってきてから頼んだ方がいいな」
「……勝手にどうぞ…」
父さんの優しさに、堪え切れなかった涙が止めることなく溢れてくる。嗚咽を堪えようと唇を噛み締め、きつく目を閉じるも自然と肩が震えてしまう。
泣き声が聞こえないように、これ以上父さんの優しい言葉が聞こえないように再び部屋のドアを閉めると、ベッドへと横になる。
このまま、このまま目が覚めなかったらいいのに。