「お前の代わりはいくらでもいる」と言われたので、本当に全員で辞めてみた
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「お前らの代わりなんて、いくらでもいるんだよ」
その一言が会議室に落ちたとき、私が最初に感じたのは怒りではなかった。
ああ、やっと言ったな、という妙な納得だった。
火曜の朝礼後。
東和メカトレード第二営業課の小さな会議室で、課長の鬼頭修一は腕を組んだまま、後輩の佐々木を見下ろしていた。
「納期トラブルを未然に防いだ? そんなもん当たり前だろ」
「防げなかったら大問題なんだよ。いちいち手柄みたいに報告するな」
佐々木は北条精工向けの部品に不良ロットが混ざっていることに気づき、出荷前に工場へ差し替えを手配した。
報告書の末尾に「念のため共有します」と書き添えただけだ。
それを鬼頭は「手柄アピール」と呼んだ。
「課長、それは佐々木さんの判断で防げたことです。評価されるべきだと思います」
私が口を挟むと、鬼頭の目が細くなった。
「水瀬。お前、主任になって調子に乗ってるな」
「いいか、営業なんて誰がやっても同じだ」
「お前らの代わりなんて、いくらでもいるんだよ」
会議室が静まった。
佐々木の顔から、血の気が引いていくのが見えた。
唇を噛んで、手元の資料を握りしめている。
入社三年目の彼が、先月から朝の電車で吐き気がすると話していたのを、私は知っていた。
「……承知しました」
私はそれだけ言って、頭を下げた。
鬼頭は満足そうに鼻を鳴らして出ていった。
扉が閉まる。
私は自分の心が、驚くほど静かなことに気づいた。
怒りの沸点はとっくに超えていて、その向こう側に、冷たく澄んだ場所があった。
* * *
鬼頭を語るなら、まず彼の「仕事」を並べてみるのが早い。
先月、鬼頭が役員会で発表した新規開拓の企画書。
美しいグラフと、説得力のある数字が並んだあの資料は、私が三晩かけて作ったものだ。
彼は表紙の担当者名を自分に書き換え、「私の発案で」と言い切った。
役員は感心し、鬼頭は特別賞与をもらった。
北条精工の北条社長は、無茶な依頼で有名だ。
「明後日までに五百個」と、電話一本で言ってくる。
それを断らずに通してきたのは、ベテランの大野さんだった。
無口な彼は、工場の担当者に頭を下げ、ときには自分で夜の生産ラインに立ち会い、何度も不可能を可能にしてきた。
鬼頭はそのたびに「俺が社長に話をつけといた」と周囲に言っていた。
事務の真壁さんの机には、古びた大学ノートが五冊ある。
顧客ごとの支払いサイト、担当者の癖、過去のトラブル、好みの菓子折りの種類まで、手書きで細かく記されている。
システムには入っていない、生きた情報だ。
「このお客さんは、月末に請求書が遅れると機嫌が悪くなる」
そんな一行が、何度この課を救っただろう。
では、鬼頭は何をしているのか。
顧客の前に出るのは、年始の挨拶と、接待ゴルフと、接待の席だけ。
彼は北条精工の担当者の名前を、三人のうち一人しか言えない。
それでも彼は信じている。
この課の成績は、自分の指導力の賜物だと。
私は何度も思った。
この人は、自分が何に乗っかっているのか、一度も下を見たことがないのだ、と。
* * *
その夜、私は大野さん、佐々木、真壁さんを駅裏の居酒屋に誘った。
乾杯もそこそこに、佐々木が箸を置いた。
「僕、辞めようと思ってます」
誰も驚かなかった。
彼の声は震えていたけれど、目は思ったより据わっていた。
「今日、課長に言われて、ああ、本当にここにいても何も残らないんだなって思ったんです」
「僕が止めた不良品も、誰も覚えてない。覚えてるのは、怒鳴られたことだけで」
「……そうか」
大野さんがぽつりと言った。
それから、ビールをひと口飲んで、続けた。
「俺も、去年から二社に声をかけられてる」
真壁さんが「あら」と声を上げ、それからばつが悪そうに笑った。
「実は私も。取引先の経理の方から、うちに来ないかって何度か」
私は思わず笑ってしまった。
私にも、同業他社の部長から名刺をもらっていた。
いつか考えますと答えたまま、ずっと机の引き出しに入れていた。
全員が、辞められる状況にあって、辞めずにいた。
理由はたぶん、同じだった。
顧客や、この課の仕事そのものを、見捨てられなかったのだ。
「全員で辞めたらさ」
大野さんが、半分冗談のような口調で言った。
「どうなるかな」
テーブルが静まり返った。
焼き鳥の脂が、小さく音を立てている。
「それって、仕返しになっちゃいませんか」
佐々木が言った。
私は少し考えてから、口を開いた。
「ひとつだけ、ルールを決めよう」
三人が私を見た。
「就業規則どおりに辞める。退職届は二週間前に出す。有給は権利として使う」
「引き継ぎ資料は、誰が読んでも分かるものを完璧に作る」
「顧客に自分から連絡して引き抜くようなことは、絶対にしない」
「私たちは、正しく辞めるだけ」
「それで、課長が困ったら?」
真壁さんが尋ねた。
「それは課長が、引き継ぎを読まなかったからです」
大野さんが、静かに笑った。
「いいな、それ」
四つのグラスが、小さく触れ合った。
* * *
二週間後の月曜日、午前九時。
私たち四人は、並んで鬼頭の席の前に立った。
それぞれの手に、白い封筒。
「なんだ、お前ら揃って」
「退職届です。就業規則に則り、二週間後付で」
鬼頭は封筒を見て、私たちの顔を順に見て、一瞬だけ表情が固まった。
空気が抜けたような、間の抜けた顔だった。
けれどすぐに、いつもの薄笑いが戻ってくる。
「……ふん。どうせすぐ後悔するぞ」
「こんなご時世に、お前らみたいな連中を雇うところなんてあるか」
「ご心配、ありがとうございます」
私は頭を下げた。
騒ぎを聞きつけた部長が飛んできた。
「待て、一度話をしよう」
慌てる部長に、鬼頭は言った。
「部長、問題ありません。補充すればいいだけの話です」
「代わりはいくらでもいますから」
部長は何か言いたそうに口を動かしたが、結局黙った。
私たちは残りの二週間、粛々と動いた。
引き継ぎ資料は、顧客別に一冊ずつ。
連絡先、過去の取引履歴、納期の癖、担当者の人柄、注意事項。
大野さんは工場との交渉ルートを図にし、真壁さんは五冊のノートを丁寧に清書してファイルにまとめた。
完成した資料を、私は鬼頭の机に置いた。
「引き継ぎ資料です。ご確認ください」
鬼頭は画面から目を離さず、言った。
「そこに置いとけ」
資料は結局、最終日まで、一度も開かれなかった。
最終出社日の夕方、私たちは何も言わずに机を片付けた。
佐々木が最後にもう一度だけ振り返って、小さく頭を下げた。
誰に向けたものかは分からない。
この課で過ごした日々に、だったのかもしれない。
エレベーターの扉が閉まるとき、彼は小さく息を吐いた。
「なんか……空気が、軽いです」
「うん」
私は言った。
「そうだね」
* * *
鬼頭修一は、最初の一週間を「想定内」だと考えていた。
補充として回された新人は、入社半年の若者で、顧客の名前もろくに覚えていなかった。
電話が鳴るたび、彼は「えっと、少々お待ちください」と受話器を押さえて、鬼頭の顔を見る。
鬼頭は苛立った。
「そんなことも分からないのか。前任者の資料があるだろう」
そう言って、机の隅に積まれたファイルを顎で示した。
ただし、鬼頭自身は、それを一度も開いていない。
二週目の水曜日、北条精工から電話があった。
「担当の方が変わられたと聞いたのですが」
北条社長の秘書の声は、穏やかだったが、温度がなかった。
「は、はい。しかしご心配なく、私が責任をもって――」
「取引条件を、一度見直させていただきたいと社長が申しております」
電話が切れたあと、鬼頭はしばらく受話器を握ったままだった。
三週目には、納期遅延が三件重なった。
どれも、北条精工が「明後日までに」と急に言ってきた案件だった。
大野がいつも工場に頭を下げて通していた、あの類の依頼だ。
新人は何も知らず、通常ルートで発注し、通常の納期を回答してしまった。
鬼頭は自ら謝罪に出向いた。
応接室に通されると、北条社長が現れ、鬼頭の顔を見て首をかしげた。
「失礼ですが、どちら様でしたか」
「第二営業課長の鬼頭です。何度も、ご挨拶を……」
「ああ、年始のときの。……ええと、それで今日は?」
鬼頭の背中に、嫌な汗が流れた。
四週目、他の主要顧客からも連絡が相次いだ。
取引量の縮小。
支払条件の変更要請。
見積依頼の停止。
部長が会議室に鬼頭を呼び出した。
「何が起きているんだ」
「あいつらが……あいつらが無責任に辞めたせいです。引き継ぎもろくにせず、顧客に悪い噂を流して――」
「引き継ぎ資料は読んだのか」
部長の声が、冷たかった。
鬼頭は口を開けて、閉じた。
机の隅に積まれたファイルの山。
それが、いつの間にか、ひどく大きく見えた。
* * *
その連絡が来たのは、退職から二か月後のことだった。
私たち四人は、同業の中堅商社に、ほぼ同時期に再就職していた。
新しい職場でも相変わらず地味に働いていたけれど、顧客から声がかかったのは、自然な流れだった。
北条精工の社長から、「一度食事でもどうか」と。
会食の席は、駅近くの落ち着いた料理屋の個室だった。
私と大野さんが並んで座り、向かいに北条社長。
約束の時間の五分前、襖が開いた。
「失礼します、東和メカトレードの――」
入ってきた鬼頭は、そこで言葉を止めた。
北条社長の隣に、私たちが座っていた。
「……水瀬。大野。なんでお前らが」
「お久しぶりです、課長」
私は静かに頭を下げた。
「北条社長が、会食に誘ってくださったので」
鬼頭の顔が、みるみる赤くなった。
「引き抜きだな。顧客に手を回していたんだろう」
「契約違反だ。法的措置を取るぞ」
「課長」
大野さんが、穏やかな声で言った。
「私たちは、就業規則どおり、二週間前に退職届を出しました。有給も、規則の範囲内で消化しました」
「引き継ぎ資料は、顧客ごとにすべて提出しています」
「退職後に私たちから顧客へ連絡したことは、一度もありません。必要でしたら、通話履歴でもメール履歴でもお見せします」
淡々とした声だった。
「北条社長が、ご自身で判断されたんです」
鬼頭は北条社長を見た。
社長は湯呑みをゆっくりと置いた。
「鬼頭さん、でしたね」
「は、はい。このたびは、弊社の不手際で大変ご迷惑を――」
「私はね、この四人が好きだったんですよ」
社長は、私たちを順に見やった。
「無茶な依頼を言っても、嫌な顔ひとつせずに受けてくれた。何かあれば真っ先に電話をくれて、先回りして動いてくれた」
「私が取引していたのは、会社じゃない。この人たちだった」
「それは、あの、教育したのは私で……」
「あなたが、辞めさせたんでしょう」
社長の声は静かだった。
「聞きましたよ。代わりはいくらでもいる、と言われたそうですね」
鬼頭の口が、動かなくなった。
「それならこちらも、新しい取引先を選ぶことにしました」
「代わりは、いくらでもいますから」
しばらく、誰も何も言わなかった。
やがて鬼頭は、何か言おうとして、結局何も言えず、頭を下げた。
その背中は、私が七年間見てきたどの場面よりも、小さく見えた。
襖が閉まる音がした。
「さて」
北条社長が、いつもの調子に戻って笑った。
「新しい案件の話をしましょうか。実は来月、また無茶なお願いがあるんですが」
「はい、承ります」
大野さんが、珍しく声を出して笑った。
* * *
後日、東和メカトレードの元同僚から、近況を聞いた。
北条精工をはじめ、売上の半分近くが他社に流れたこと。
鬼頭は部長から厳しく問われ、課長職を解かれて、倉庫管理部門に異動になったこと。
そこでも「営業なんて誰がやっても同じだ」と言い続けた結果、居場所をなくし、半年ほどで会社を去ったらしいということ。
「あの人、最後まで、自分のせいだと思わなかったみたいだよ」
電話の向こうで、元同僚がそう言った。
「そう」
それ以上は、何も感じなかった。
怒りも、同情も、胸の奥のどこにも残っていなかった。
新しい職場の窓際で、私はコーヒーを飲みながら、フロアの向こうを見た。
佐々木が、取引先の担当者と電話をしている。
受話器を耳に当てたまま、小さく笑っていた。
顔色がいい。
数か月前の、あの青白い横顔が嘘みたいだった。
大野さんは、隣の席で図面を広げている。
真壁さんは経理部に移り、新しい大学ノートを、また一冊目から書き始めている。
「水瀬さん、ちょっと相談いいですか」
佐々木が、受話器を置いて駆け寄ってきた。
「うん、どうしたの」
「先方から、また急ぎの依頼が来て。どう動いたらいいか、水瀬さんの考えを聞きたくて」
「いいよ。一緒に考えよう」
私は椅子を引いた。
代わりはいくらでもいる、というのは、半分だけ正しかった。
ただ、私たちの代わりはいなかった、というだけで。




