何がなんでも長崎大学に行きたい
今日は、国立大学前期の二次試験の日だ。
まだ夜が明けきらないうちに、僕は目を覚ました。目覚ましより先に起きたのは久しぶりだった。布団の中で、天井を見つめる。
今日で決まる。
長崎大学医学部医学科。後期はない。他の大学も受けていない。僕には、ここしかない。
静かな台所から、味噌汁の匂いがした。母はいつも通りの時間に起きているらしい。父はすでに居間で新聞を広げていた。
「起きたか」
それだけ言って、また紙面に目を落とす。父の胸には、あの手術痕がある。冬になると少し痛むと言っていた。
あの夜のことは、今でもはっきり覚えている。
中学二年の冬。父が突然、胸を押さえて倒れた。救急車の赤い光が家の壁を照らしていた。地元の病院では、手術はできないと言われた。
「助けられるのは、長崎大学病院だけです」
医師はそう言った。外は嵐だった。ヘリは飛ばない。救急車での搬送になると聞いたとき、母の顔が真っ白になった。
命懸けの搬送だった。
受け入れてくれたのが、長崎大学病院だった。
手術前、廊下で、執刀医が母に言った。
「ここは長崎の最後の砦です。どこの島でも、どこの町でも、最後はここが受け止めます」
僕はその言葉を、壁にもたれながら聞いていた。
十二時間後、父は生きていた。
退院の日、父は笑って言った。
「俺は長崎大に拾われた命だ」
あのときから、僕の中ではすべてが決まっている。
医者になりたい、じゃない。
長崎大学病院で働きたい。
長崎を守りたい。
それだけだ。
朝食はほとんど喉を通らなかった。母は無理に食べさせようとはしなかった。ただ、湯気の立つ味噌汁を、何度も温め直していた。
家を出ると、冬の空気が頬に刺さった。
試験会場に近づくにつれ、受験生の列ができている。みんな同じような顔をしている。緊張と不安と、少しの覚悟。
教室に入ると、机の上の受験番号が目に入った。僕の番号。何度も暗記した番号。
深呼吸をする。
ここまで来るのに、何年かかっただろう。
模試の判定がEだった日、帰り道で泣いた。袖口を濡らしながら、自転車をこいだ。成績が上がったときは、誰にも見られないようにガッツポーズをした。
父の通院日には、受付の椅子で英単語帳を開いた。母がパートから帰ってきてからも、机に向かった。私立医学部の学費の話になったとき、家の空気が少しだけ重くなったのも覚えている。
だから、ここしかない。
試験が始まる。
問題用紙をめくる音が、一斉に響く。
数学。思ったよりも難しい。でも、解けないわけじゃない。焦るな、と自分に言い聞かせる。
途中、ふと手が止まった。
胸の奥が熱くなる。
親父、お袋、絶対に長崎大学の医学部に受かるよ!!!
声には出さない。ただ、心の中で叫ぶ。
ペンを握り直す。数字が少しずつ形になっていく。
時間が足りない。いや、足りる。最後まで書く。
英語。理科。面接。
気づけば夕方だった。
校舎を出た瞬間、全身から力が抜けた。空が、やけに高く見えた。
終わった。
受かる自信は、それなりにある。でも、絶対とは言えない。その曖昧さが、いちばん怖い。
家に帰ると、母が「おかえり」とだけ言った。父は「どうだった」と聞いたが、僕は「やれるだけやった」と答えた。
夜、自己採点をする。思ったより悪くない。思ったより良くもない。
合格圏内かどうかは、微妙だった。
机に突っ伏したとき、スマホが震えた。
B先輩からだ。
「試験終わったか?」
「うん、がんばった」
少し間があって、返信が来る。
「そうか。頑張ったんだな。ところでさ、国立の前期の時期になると、毎年楽しみにしてることがあるんだよ」
「何?」
「京大の数学が出るだろ。予備校のサイトに夜アップされるんだ。あれを解くんだよ」
さらに続く。
「解くだけじゃない。なんでこの誘導なのか、なんでこの発想に至るのか、考える。研究するんだ」
先輩は理学部の三年生だ。数学が好きで、いつもどこか楽しそうに数式の話をする。
京大の問題は、シンプルなのに難しい。良問で、考えさせられるから面白い、と前に言っていた。
僕はただ、点を取るために数学をやってきた。
この人は、数学そのものを好きでやっている。
長崎大学の医学部にこだわる僕。
京大の数学にこだわる先輩。
同じ「こだわり」でも、何かが違う。
「もし受かっても落ちてもさ、勉強は終わらないからな」
先輩が軽く言う。
僕は、心の中で反論する。
俺は違う。俺は、長崎に行けなきゃ終わる。
通話を切ったあと、予備校のサイトを開いた。京大の数学の問題が並んでいる。
一問目を読む。難しい。まったく歯が立たない。
それでも、二問目の途中までは追えた。
ノートに式を書きながら、ふと思う。
数学は、どこへでも行ける。
でも僕は、長崎にしか行けない。
時計を見ると、日付が変わっていた。
発表まで、あと数日。
目を閉じる。
長崎の海の匂いが、なぜか思い浮かんだ。
発表の前夜、なかなか眠れなかった。
机の上に受験票を置いたまま、番号を何度も見た。
紙の手触りを確かめる。
この番号で、明日すべてが決まる。
電気を消して、布団に入る。
長崎の坂道を思い浮かべる。
あの病院の白い廊下。
そこに立つ自分。
それを考えているうちに、眠ってしまった。
気がつくと、僕は長崎大学の正門の前に立っていた。
見覚えがある景色だ。
坂道を上がった先、建物の壁に白い掲示板がある。
発表の掲示板だ。
人が集まっている。
ざわざわとした声。
紙が風で揺れる音。
僕は人の間をすり抜けて、前に出る。
白い紙に、黒い数字が並んでいる。
受験番号。
上から順に目で追う。
落ち着け、と自分に言い聞かせる。
まだ慌てる時間じゃない。
一段目。
二段目。
三段目。
ない。
胸が、ひゅっと縮む。
見落としだ。
そう思って、最初からゆっくり見直す。
指で数字をなぞる。
自分の番号を探す。
ない。
隣の番号はある。
前後の番号もある。
でも、その並びの中に、僕の番号だけがない。
紙を見上げる。
何度見ても、ない。
周りから、小さな歓声が上がる。
「やった」
「受かった」
そんな声が聞こえる。
でも、それは遠い。
僕の耳には、風の音だけが入ってくる。
掲示板の紙が、ぱたぱたと揺れている。
白い紙。
黒い数字。
そこに、僕の番号はない。
足が少し震える。
後ろに下がる。
誰かの肩にぶつかる。
「すみません」と言われる。
僕は何も言えない。
坂道を、ゆっくり下る。
長崎の町が広がっている。
海が見える。
空は青い。
世界は何も変わっていない。
変わったのは、僕だけだ。
長崎大学の建物を振り返る。
さっきまで、あそこに入るつもりでいた。
六年間、そこで学ぶつもりでいた。
でも、扉は閉じた。
選ばれなかった。
そう思った瞬間、胸の奥が冷たくなる。
父の顔が浮かぶ。
「俺は長崎大に拾われた命だ」と笑った顔。
僕は、拾われなかった。
家に帰る。
玄関のドアを開ける音が、やけに大きい。
母が顔を上げる。
父も、こちらを見る。
僕はうまく笑えない。
「……だめだった」
それだけ言う。
母の目が、少し潤む。
父は、しばらく黙ってから、
「そうか」
とだけ言う。
責める声ではない。
怒りもない。
でも、その静けさが、いちばんきつい。
長崎に行けなきゃ終わる。
そう思ってきた。
じゃあ、終わったのか。
自分の部屋に戻る。
机の上の受験票を見る。
番号は、ただの数字になっている。
あんなに特別だったのに。
長崎は遠い。
昨日まで、手が届きそうだったのに。
坂の上の掲示板が、遠い場所になる。
そこで、目が覚めた。
暗い天井。
自分の部屋。
胸が激しく上下している。
夢だ。
まだ、発表はされていない。
時計を見る。
朝だった。
布団の中で、しばらく動けない。
掲示板の白い紙が、頭から離れない。
あの、番号のない空白。
もし、本当にああなったら。
僕は、もう一度立てるのか。
それとも、本当に終わるのか。
ゆっくり体を起こす。
足はちゃんと床につく。
現実は、まだ決まっていない。
今日は、発表の日だ。
僕は受験票を手に取り、深く息を吸った。
発表の時間より、少し早く大学に着いた。
正門の前には、すでに人が集まっている。
みんな口数が少ない。
坂道を上がる。
夢で見た景色と、ほとんど同じだ。
白い掲示板が、まだ紙を貼られるのを待っている。
係の人がやってきて、紙を持つ。
空気が、ぴんと張る。
紙が掲示板に貼られる。
ざわめきが一斉に動く。
僕も歩き出す。
前にいる人が急に止まる。横から誰かが割り込もうとする。
人とぶつかりそうになる中、体を九十度回転させながら移動し、掲示板の目前へと向かった。
白い紙。
黒い数字。
上から、ゆっくり目で追う。
慌てない。
夢の感覚が、まだ胸に残っている。
一段目。
二段目。
三段目。
呼吸が浅くなる。
その並びの中に、見慣れた数字があった。
僕の番号。
確かに、そこにある。
指でなぞる。
消えない。
何度見ても、ある。
周りから歓声が上がる。
「受かった!」
「やった!」
誰かが泣いている。
肩を抱き合っている人もいる。
でも、僕の耳にはあまり入ってこない。
ただ、掲示板の白さだけがはっきり見える。
長崎大学医学部医学科。
その下に、僕の番号。
夢ではなかった。
いや、夢とは違った。
番号は、ある。
僕は一歩、後ろに下がる。
坂の下に、町が広がっている。
海が見える。
風が、少し強い。
長崎。
あなたは、僕を拒まなかった。
選ばれた、とは思わない。
ただ、届いた。
何年もかけて、やっと。
あなたはあの夜、父を受け入れてくれた。
嵐の中でも、断らなかった。
僕は廊下の端で、何もできなかった。
ただ、祈っていた。
今日、僕の番号はあなたの掲示板にある。
それだけのことだ。
でも、それだけで十分だ。
これから六年間、あなたの坂道を歩く。
路面電車の音を聞く。
白い廊下を歩く。
勉強して、怒られて、迷って、それでも残る。
簡単じゃないのは、わかっている。
医者になることは、思っているよりずっと重い。
それでも、ここに来た。
長崎。
あなたに救われた命の続きを、今度は僕が支える側に回りたい。
あのときの父のように、不安で震える誰かに、
「ここが最後の砦です」と言える人間になりたい。
まだ何もできない。
ただ番号があるだけだ。
でも、ここから始まる。
喜びよりも先に、責任が胸に落ちてくる。
掲示板をもう一度見る。
白い紙に、黒い数字。
風が紙を揺らす。
僕の番号は、揺れながらもそこにある。
長崎。
待っていてくれて、ありがとう。
僕は、あなたにふさわしい医者になる。
坂の上で、静かにそう約束した。




