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何がなんでも長崎大学に行きたい

作者: さとるん
掲載日:2026/02/25

今日は、国立大学前期の二次試験の日だ。

まだ夜が明けきらないうちに、僕は目を覚ました。目覚ましより先に起きたのは久しぶりだった。布団の中で、天井を見つめる。

今日で決まる。

長崎大学医学部医学科。後期はない。他の大学も受けていない。僕には、ここしかない。

静かな台所から、味噌汁の匂いがした。母はいつも通りの時間に起きているらしい。父はすでに居間で新聞を広げていた。

「起きたか」

それだけ言って、また紙面に目を落とす。父の胸には、あの手術痕がある。冬になると少し痛むと言っていた。

あの夜のことは、今でもはっきり覚えている。

中学二年の冬。父が突然、胸を押さえて倒れた。救急車の赤い光が家の壁を照らしていた。地元の病院では、手術はできないと言われた。

「助けられるのは、長崎大学病院だけです」

医師はそう言った。外は嵐だった。ヘリは飛ばない。救急車での搬送になると聞いたとき、母の顔が真っ白になった。

命懸けの搬送だった。

受け入れてくれたのが、長崎大学病院だった。

手術前、廊下で、執刀医が母に言った。

「ここは長崎の最後の砦です。どこの島でも、どこの町でも、最後はここが受け止めます」

僕はその言葉を、壁にもたれながら聞いていた。

十二時間後、父は生きていた。

退院の日、父は笑って言った。

「俺は長崎大に拾われた命だ」

あのときから、僕の中ではすべてが決まっている。

医者になりたい、じゃない。

長崎大学病院で働きたい。

長崎を守りたい。

それだけだ。

朝食はほとんど喉を通らなかった。母は無理に食べさせようとはしなかった。ただ、湯気の立つ味噌汁を、何度も温め直していた。

家を出ると、冬の空気が頬に刺さった。

試験会場に近づくにつれ、受験生の列ができている。みんな同じような顔をしている。緊張と不安と、少しの覚悟。

教室に入ると、机の上の受験番号が目に入った。僕の番号。何度も暗記した番号。

深呼吸をする。

ここまで来るのに、何年かかっただろう。

模試の判定がEだった日、帰り道で泣いた。袖口を濡らしながら、自転車をこいだ。成績が上がったときは、誰にも見られないようにガッツポーズをした。

父の通院日には、受付の椅子で英単語帳を開いた。母がパートから帰ってきてからも、机に向かった。私立医学部の学費の話になったとき、家の空気が少しだけ重くなったのも覚えている。

だから、ここしかない。

試験が始まる。

問題用紙をめくる音が、一斉に響く。

数学。思ったよりも難しい。でも、解けないわけじゃない。焦るな、と自分に言い聞かせる。

途中、ふと手が止まった。

胸の奥が熱くなる。

親父、お袋、絶対に長崎大学の医学部に受かるよ!!!

声には出さない。ただ、心の中で叫ぶ。

ペンを握り直す。数字が少しずつ形になっていく。

時間が足りない。いや、足りる。最後まで書く。

英語。理科。面接。

気づけば夕方だった。

校舎を出た瞬間、全身から力が抜けた。空が、やけに高く見えた。

終わった。

受かる自信は、それなりにある。でも、絶対とは言えない。その曖昧さが、いちばん怖い。

家に帰ると、母が「おかえり」とだけ言った。父は「どうだった」と聞いたが、僕は「やれるだけやった」と答えた。

夜、自己採点をする。思ったより悪くない。思ったより良くもない。

合格圏内かどうかは、微妙だった。

机に突っ伏したとき、スマホが震えた。

B先輩からだ。

「試験終わったか?」

「うん、がんばった」

少し間があって、返信が来る。

「そうか。頑張ったんだな。ところでさ、国立の前期の時期になると、毎年楽しみにしてることがあるんだよ」

「何?」

「京大の数学が出るだろ。予備校のサイトに夜アップされるんだ。あれを解くんだよ」

さらに続く。

「解くだけじゃない。なんでこの誘導なのか、なんでこの発想に至るのか、考える。研究するんだ」

先輩は理学部の三年生だ。数学が好きで、いつもどこか楽しそうに数式の話をする。

京大の問題は、シンプルなのに難しい。良問で、考えさせられるから面白い、と前に言っていた。

僕はただ、点を取るために数学をやってきた。

この人は、数学そのものを好きでやっている。

長崎大学の医学部にこだわる僕。

京大の数学にこだわる先輩。

同じ「こだわり」でも、何かが違う。

「もし受かっても落ちてもさ、勉強は終わらないからな」

先輩が軽く言う。

僕は、心の中で反論する。

俺は違う。俺は、長崎に行けなきゃ終わる。

通話を切ったあと、予備校のサイトを開いた。京大の数学の問題が並んでいる。

一問目を読む。難しい。まったく歯が立たない。

それでも、二問目の途中までは追えた。

ノートに式を書きながら、ふと思う。

数学は、どこへでも行ける。

でも僕は、長崎にしか行けない。

時計を見ると、日付が変わっていた。

発表まで、あと数日。

目を閉じる。

長崎の海の匂いが、なぜか思い浮かんだ。



発表の前夜、なかなか眠れなかった。

机の上に受験票を置いたまま、番号を何度も見た。

紙の手触りを確かめる。

この番号で、明日すべてが決まる。

電気を消して、布団に入る。

長崎の坂道を思い浮かべる。

あの病院の白い廊下。

そこに立つ自分。

それを考えているうちに、眠ってしまった。

 

気がつくと、僕は長崎大学の正門の前に立っていた。

見覚えがある景色だ。

坂道を上がった先、建物の壁に白い掲示板がある。

発表の掲示板だ。

人が集まっている。

ざわざわとした声。

紙が風で揺れる音。

僕は人の間をすり抜けて、前に出る。

白い紙に、黒い数字が並んでいる。

受験番号。

上から順に目で追う。

落ち着け、と自分に言い聞かせる。

まだ慌てる時間じゃない。

一段目。

二段目。

三段目。

ない。

胸が、ひゅっと縮む。

見落としだ。

そう思って、最初からゆっくり見直す。

指で数字をなぞる。

自分の番号を探す。

ない。

隣の番号はある。

前後の番号もある。

でも、その並びの中に、僕の番号だけがない。

紙を見上げる。

何度見ても、ない。

周りから、小さな歓声が上がる。

「やった」

「受かった」

そんな声が聞こえる。

でも、それは遠い。

僕の耳には、風の音だけが入ってくる。

掲示板の紙が、ぱたぱたと揺れている。

白い紙。

黒い数字。

そこに、僕の番号はない。

 

足が少し震える。

後ろに下がる。

誰かの肩にぶつかる。

「すみません」と言われる。

僕は何も言えない。

坂道を、ゆっくり下る。

長崎の町が広がっている。

海が見える。

空は青い。

世界は何も変わっていない。

変わったのは、僕だけだ。

長崎大学の建物を振り返る。

さっきまで、あそこに入るつもりでいた。

六年間、そこで学ぶつもりでいた。

でも、扉は閉じた。

選ばれなかった。

そう思った瞬間、胸の奥が冷たくなる。

父の顔が浮かぶ。

「俺は長崎大に拾われた命だ」と笑った顔。

僕は、拾われなかった。

家に帰る。

玄関のドアを開ける音が、やけに大きい。

母が顔を上げる。

父も、こちらを見る。

僕はうまく笑えない。

「……だめだった」

それだけ言う。

母の目が、少し潤む。

父は、しばらく黙ってから、

「そうか」

とだけ言う。

責める声ではない。

怒りもない。

でも、その静けさが、いちばんきつい。

長崎に行けなきゃ終わる。

そう思ってきた。

じゃあ、終わったのか。

自分の部屋に戻る。

机の上の受験票を見る。

番号は、ただの数字になっている。

あんなに特別だったのに。

長崎は遠い。

昨日まで、手が届きそうだったのに。

坂の上の掲示板が、遠い場所になる。

 

そこで、目が覚めた。

 

暗い天井。

自分の部屋。

胸が激しく上下している。

夢だ。

まだ、発表はされていない。

時計を見る。

朝だった。

布団の中で、しばらく動けない。

掲示板の白い紙が、頭から離れない。

あの、番号のない空白。

もし、本当にああなったら。

僕は、もう一度立てるのか。

それとも、本当に終わるのか。

ゆっくり体を起こす。

足はちゃんと床につく。

現実は、まだ決まっていない。

今日は、発表の日だ。

僕は受験票を手に取り、深く息を吸った。



発表の時間より、少し早く大学に着いた。

正門の前には、すでに人が集まっている。

みんな口数が少ない。

坂道を上がる。

夢で見た景色と、ほとんど同じだ。

白い掲示板が、まだ紙を貼られるのを待っている。

係の人がやってきて、紙を持つ。

空気が、ぴんと張る。

紙が掲示板に貼られる。

ざわめきが一斉に動く。

僕も歩き出す。

前にいる人が急に止まる。横から誰かが割り込もうとする。

人とぶつかりそうになる中、体を九十度回転させながら移動し、掲示板の目前へと向かった。

白い紙。

黒い数字。

上から、ゆっくり目で追う。

慌てない。

夢の感覚が、まだ胸に残っている。

一段目。

二段目。

三段目。

呼吸が浅くなる。

その並びの中に、見慣れた数字があった。

僕の番号。

確かに、そこにある。

指でなぞる。

消えない。

何度見ても、ある。

周りから歓声が上がる。

「受かった!」

「やった!」

誰かが泣いている。

肩を抱き合っている人もいる。

でも、僕の耳にはあまり入ってこない。

ただ、掲示板の白さだけがはっきり見える。

長崎大学医学部医学科。

その下に、僕の番号。

夢ではなかった。

いや、夢とは違った。

番号は、ある。

僕は一歩、後ろに下がる。

坂の下に、町が広がっている。

海が見える。

風が、少し強い。

長崎。

あなたは、僕を拒まなかった。

選ばれた、とは思わない。

ただ、届いた。

何年もかけて、やっと。

あなたはあの夜、父を受け入れてくれた。

嵐の中でも、断らなかった。

僕は廊下の端で、何もできなかった。

ただ、祈っていた。

今日、僕の番号はあなたの掲示板にある。

それだけのことだ。

でも、それだけで十分だ。

これから六年間、あなたの坂道を歩く。

路面電車の音を聞く。

白い廊下を歩く。

勉強して、怒られて、迷って、それでも残る。

簡単じゃないのは、わかっている。

医者になることは、思っているよりずっと重い。

それでも、ここに来た。

長崎。

あなたに救われた命の続きを、今度は僕が支える側に回りたい。

あのときの父のように、不安で震える誰かに、

「ここが最後の砦です」と言える人間になりたい。

まだ何もできない。

ただ番号があるだけだ。

でも、ここから始まる。

喜びよりも先に、責任が胸に落ちてくる。

掲示板をもう一度見る。

白い紙に、黒い数字。

風が紙を揺らす。

僕の番号は、揺れながらもそこにある。

長崎。

待っていてくれて、ありがとう。

僕は、あなたにふさわしい医者になる。

坂の上で、静かにそう約束した。

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