鉄の調教師
午後十一時十七分。
湾岸沿い、潮の匂いと排気の甘い焦げが混ざる通りに、錆びたシャッターが一枚だけ生きている場所がある。
看板はない。あるのは、剥がれかけたステッカーと、擦れた「EDEN」の文字だけ。
積載車のライトが、シャッターの隙間を白く裂いた。
その夜、ガレージ『エデン』に運び込まれたのは一台の――亡霊だった。
スロープを滑り落ちるようにして現れた深紅は、埃に噎せている。
リトラクタブル・ライトのレンズは涙の膜を張り、艶を失った塗装は、かつての情熱を押し殺して眠っていた。
名は、フェラーリ 288GTO。
選ばれし者のためのホモロゲーション・モデル。伝説。富豪の玩具。勝利の象徴。
――そして、今は沈黙。
積載車の運転席から降りた男は、帽子を目深に被ったまま、伝票を差し出した。
名前の欄は空欄、受領印のところにだけ黒いインクが滲んでいる。
「期限は?」
俺が訊くと、男は喉の奥で笑った気配を漏らすだけで、
「夜明けまでに……火が入るかどうか。見届けたい人がいる」
そう言って、キーケースを俺の掌に落とした。
革は上等だ。体温を拒む硬さがある。だが金具の縁は、何度も何度も指に撫でられて丸くなっていた。 男は振り返らない。積載車のエンジンが遠ざかると、通りは潮騒と、どこかの改造マフラーの低い唸りだけになった。
『エデン』の中は、水銀灯の淡い青白さに満ちている。 工具の影が、静かに呼吸するみたいに壁に揺れる。 ここでは、言葉より音が信用できる。金属が温まる音、冷える音、締まる音、緩む音。 嘘をつかないのは、それだけだ。
「……随分と、冷たくされているようだな」
愛用のグローブをはめ、俺はボンネットに指先を滑らせた。
冷たい。
ただの鉄の冷たさじゃない。放置された時間の冷えだ。触れられなくなった夜の冷え。誰にも見られず、誰にも呼ばれず、ただ湿気を吸って、眠りに沈んだ冷え。
それでも、深紅は深紅だ。埃の下に、まだ色が生きている。皮膚の奥に、血が残っている。
俺は彼女をリフトへ誘った。押すのではなく、導く。 体重移動を読んで、タイヤが転がる角度を確かめ、いちばん嫌がらないラインを選ぶ。
車は嘘をつかない。抵抗するなら理由がある。
リフトのアームがフロアを擦る低い音。
四点を合わせ、ゴムパッドを当て、わずかに圧をかける。 彼女の腹が、静かに持ち上がっていく。
最も無防備な下回りが、露わになる。
そこには長年の結露が滴り、泥と塩分を噛んだ鉄が、鈍く光っていた。
オイルパンの縁、サブフレーム、ブッシュの亀裂。 埃は外だけじゃない。眠りは内側から染みている。
「まずは、殻を脱がせる」
俺は高圧洗浄機のノズルを握った。指の腹に、トリガーの形が馴染む。
冷感ミスト――界面活性剤を含ませた、薄い膜を作る霧。
最初は優しく。距離を取り、霧をまとわせるだけ。
深紅のボディに白いヴェールが降りる。埃が湿り、色がじわりと浮かび上がる。 止まっていた時間が、呼吸を始める。
次に、水圧を上げる。
音が変わる。床に跳ねる水滴の粒が大きくなる。
ノズルの先で生まれる細い刃が、汚れを切り裂き、固着した膜を剥ぐ。
サスペンションのブッシュが、キシリと鳴った。
ただのゴムの悲鳴だ。そう頭では分かっているのに、その一音が、喉の奥をくすぐる。
蒸気が立つ。ガレージの熱気と冷たいミストが混ざり合い、白い霧が彼女の曲線を包み込む。
霧の向こうで濡れた塗装が、ヌラリと妖艶な艶を取り戻す。
俺はスポンジを桶に沈め、泡を育てる。
きめ細かい泡。触れた瞬間に滑り、汚れを抱えて離す泡。
指先の感覚を研ぎ澄ませ、曲線を辿る。
フロントフェンダーの膨らみ。サイドシルのくびれ。肉感的なリアフェンダー。
泡は白い指のように広がり、深紅に跡を残す。
撫でるたび、彼女の肌が俺の手の熱を吸い込み、じわりと結露の汗を浮かべる。
水滴が集まり、流れ、落ちる。その落ち方ひとつで、塗装の状態が分かる。弾くか、伸びるか、絡むか。
「……まだ、怯えてるな」
俺は言葉を落として、圧を少しだけ弱めた。
怖がるのは、痛みを覚えているからだ。磨きで焼けた記憶。雑な洗車でついた傷。
放置で固着した汚れが、剥がれるときの小さな裂け目。
丁寧に。丁寧に。
給油口の縁を指先でなぞる。
ここは、触れられる回数が多い場所だ。人の欲が一番集まる。
だから擦れて、くすむ。だから弱い。
その瞬間、彼女はガタンと小さく身震いした。
……ボディがリフトの上で揺れただけだ。そう自分に言い聞かせながら、俺は息を吐いた。
グローブの中の指が汗ばむ。
外側の清掃を終えると、次は粘土クリーナーで表面を撫でる。
ざらつきが、滑りに変わっていく。 手のひらが「抵抗」を失うとき、車は一段、こちらに心を預ける。
ポリッシャーは使わない。今夜は手でやる。
時間をかけるほど、距離が詰まる。
コンパウンドを薄く伸ばし、マイクロファイバーで磨き上げる。
薄い傷が消えていくたび、深紅の奥の暗い闇が、少しずつ澄んでいく。
艶が戻る。
艶は、ただの光じゃない。触れた記憶が戻る光だ。
俺は彼女の下へ戻った。ホイールを外す。
ナットが解ける音が、やけに色っぽく響く。
ブレーキキャリパーの埃を落とし、パッドを確認し、ローターの錆を指で撫でる。
嫌な錆じゃない。眠りの錆だ。目覚めれば、すぐ剥がれる。
だが――細いひび割れが一本、ホースに走っている。
俺は口笛を飲み込む。ここが弱点か。
美しいものほど、弱い場所が決まっている。
「見つけた」
俺は新品のホースを用意し、交換する。
締め付けトルクは規定値、でも最後の一瞬は手の感覚で合わせる。
機械は数字だけじゃ動かない。相手の呼吸に合わせる必要がある。
燃料ラインのチェック。電装の点検。コネクタの緩み、アースの腐食。
見逃せば、目覚めの瞬間に裏切られる。
俺は彼女の腹の中を歩くように、目と指を走らせた。
そして、いよいよ核心。
ボンネットのロックを外す。
重厚な音を立てて跳ね上がる深紅の蓋。
その下に鎮座しているのは、美しくも無骨な、V型8気筒ツインターボ。
金属の塊でありながら、それは確かに、生々しい「内臓」の気配を持っている。
配線の束が血管に見える。二基のタービンが、双子の心臓に見える。
長い眠りで乾き切った金属の匂いが、鼻の奥に刺さる。
「……乾いてるな直に、潤してやる」
俺は、今回のために取り寄せた潤滑剤を取り出した。
無色透明。驚くほど滑らか。触れれば指が、何かを許してしまいそうになる滑り。
一本ずつ、プラグホールを開放していく。
そこは燃焼室へ繋がる通路だ。熱と爆発が生まれる場所へ続く狭い穴。
簡単に触れていい場所じゃない。だが、今夜は俺が入る。
細いノズルを差し込み、ほんの少しだけ、滴らせる。
一滴。もう一滴。
乾き切っていた内部が、未知の液体を受け入れ、じわりと光を取り戻す。
金属のざらつきが、膜に包まれていく。
俺は息を吸った。
オイルの匂いが胸の奥まで入ってくる。甘くて、苦くて、温度がある。
次に、手動でクランクを回す準備をする。
最初は固い。
ギチ、と嫌な抵抗が来る。
長い眠りが、まだ身体に絡みついている。
俺の侵入を拒むみたいに、金属が悲鳴を上げる。
俺は止めない。
ゆっくりと、深く、確実に。
クランクが回るたび、八つのピストンが上下する。
潤滑剤が広がり、隅々まで行き渡る。抵抗が少しずつ減っていくのが、手のひらに伝わる。
熱が生まれる。摩擦の熱。眠りを剥がす熱。
ガレージの空気が、ほんの少しだけ甘くなる。金属が温まる匂いが立つ。
機械が「生き物」になる瞬間の匂いだ。
「……そうだ。思い出せ。お前の本当の役割を」
俺は彼女に話しかける。誰もいないガレージで、俺だけが聞く声。
機械に言葉は届かない。 けれど、言葉を落とした瞬間、俺の手は迷いを失う。
八気筒。八つの部屋。八つの鼓動。
そして双子の過給機が、目覚めの時を待っている。
一本ずつ、俺は確かめる。まるで、眠る誰かの脈を探るみたいに。
燃料ポンプを点検し、フィルターを交換し、タンクの古い匂いを抜く。
燃料は血だ。腐れば動かない。
バッテリーを繋ぐ。電圧を確認する。
セルの回転が足りなければ、目覚めは苦しい。
苦しい目覚めは、嫌いだ。
冷却水のラインを洗い、ホースを触って硬さを確かめる。
ベルトの状態を見る。亀裂があれば、容赦なく替える。
古いものを残したまま「復活」なんて言わない。
復活は、優しさじゃない。残酷な現実だ。
動いた瞬間に壊れるなら、それは殺すのと同じだ。
俺は工具を拭いた。
指先のオイルを布で一度だけ拭い、もう一度グローブを締め直す。
革が鳴る。気合いじゃない。儀式だ。
点火系を整える。配線を整える。プラグを戻す。
ひとつひとつ、適正なトルクで座らせる。
そして、最後。
キーケースを開き、鍵を取り出す。
銀色の刃が、淡い光を拾う。長い間、誰かの胸ポケットにあった匂いがした。
革と汗と、香水と、少しの寂しさ。
「……さあ」
俺は運転席に滑り込んだ。
ドアが閉まる音が、妙に柔らかい。シートは硬いのに、包み込む。
手のひらがステアリングに触れた瞬間、指先が微かに粟立つ。
メーターは眠っている。針は落ちたまま。
けれど、目を凝らすと、赤い文字がまだこちらを見ている気がする。
俺は深く息を吸って、吐いた。
ガレージの静寂が、耳の奥まで入ってくる。
潮騒も、遠い道路の音も、今は薄い。
ここにあるのは、俺と深紅だけ。
キーを差し込む。
ほんの少しの抵抗。長く回されなかった鍵穴が、ためらう。
「……怖がるな。俺を信じろ」
俺は囁くように言って、力を込めた。
カチッ。
通電音。わずかな電子の目覚め。計器盤が薄く灯る。
針がほんの少し揺れる。まばたきをするみたいに。
俺は、少しだけ待った。
燃料が回る時間。油圧が立ち上がる時間。機械が、自分の身体を思い出す時間。
そして。
点火。
セルが唸る。
キュル、キュルル、キュルルルル――!
初速は重い。だが回る。 回って、吸って、押して、また回る。
圧縮が立つ。空気が詰まる。火花が待っている。
次の瞬間、世界が変わった。
ドン、と腹の底を叩くような衝撃。
マフラーから白い煙が吹き出し、ガレージの空気が一気に濃くなる。
燃え残ったオイルの匂い。眠りの埃が焼ける匂い。甘くて、危うい匂い。
彼女が、咆哮した。
八つの鼓動が揃う。
低い音が床を震わせ、壁を押し、胸を殴る。
針が跳ね上がる。回転が上がり、落ち着き、また上がる。
深紅のボディが、リフトの上で震える。
それは嫌な震えじゃない。恐怖の震えじゃない。解放の震えだ。
閉じ込められていた熱が、やっと出口を見つけた震えだ。
白い吐息が、エンジンルームから立ち昇る。
熱されたオイルが蒸発し、空気に甘い膜を作る。
ガレージの水銀灯の下で、その白が踊る。
俺はスロットルをほんの少し煽った。
返ってくる反応を確かめる。
応答は鋭い。八気筒は、まだ爪を隠しているのに、もう咬みつく準備をしている。
タービンの微かな金属音が、歓喜の喘ぎのように耳を打つ。
「……いい子だ」
俺の声は、震えていた。
機械に言う言葉じゃない。けれど、今だけは許してほしい。
俺は孤高の整備士で、こういう瞬間のために夜を生きている。
富豪の金のためじゃない。名声のためでもない。
眠るものを起こすこと。
冷えたものに熱を戻すこと。
それが、俺の仕事だ。俺の罪だ。俺の快楽だ。
しばらく、咆哮を聞いた。耳が痺れる。胸が震える。
振動が背骨を撫でる。 まるで、深紅が俺の身体の内側から鳴っているみたいに。
俺は、ゆっくりと回転を落とした。
アイドリングが安定する。均等な鼓動。八つが揃った呼吸。
排気が整う。メーターの針が、落ち着いた位置で小さく揺れる。
それを見届けてから、俺はキーを戻した。
カチッ。
エンジンが止まり、ガレージに静寂が戻る。
しかし、完全な静寂じゃない。
カチッ、カチッ、と金属が冷えていく心地よい音が、余韻のように残る。
熱を帯びた鉄が、ゆっくりと現実に戻っていく音だ。
深紅の肌には、しっとりと濡れたような艶が残っている。
さっきまでの荒々しい咆哮が嘘みたいに、彼女は静かだ。
「……こんな姿、オーナーには見せられないな」
俺は笑ってしまいそうになるのを、喉の奥で噛み殺した。
見せられない。見せたくない。
今夜のこれは、俺と彼女だけのものだ。
誰かの所有物としての彼女じゃない。走るための彼女でもない。
眠りから醒めたばかりの、熱の残る彼女だ。
俺は工具を一つずつ拭き、定位置に戻していく。
手際は落ちない。指先はまだオイルの膜を覚えている。
布で拭っても、匂いは残る。残って、離れない。
リフトを降ろす。タイヤが床に触れる音が、柔らかい。
彼女が自分の重さを取り戻す音だ。
最後に、ルーフを掌で一度だけ叩いた。
コン、という音が返る。乾いた音じゃない。中身のある音。
「……次は、走らせる番だ」
俺はシャッターのスイッチに手を伸ばし、照明を落とした。
闇がガレージを満たす。深紅は闇の中で、まだ熱を帯びている。
触れなくても分かる。
さっきまで胸を打っていた震えが、まだ空気に漂っている。
外では潮騒が続き、遠くの道路が眠らない音を刻む。
その中で、深紅の女神は―― 次の『ドライブ』を待ちわびるみたいに、静かに、確かに、息をしていた。
俺はシャッターの内側に背を預け、鍵を掌の中で転がした。
冷たい金属が、少しだけ温かくなっている。
それが、妙に嬉しかった。




