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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

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鉄の調教師

作者: ひろボ
掲載日:2026/02/09

 午後十一時十七分。


 湾岸沿い、潮の匂いと排気の甘い焦げが混ざる通りに、錆びたシャッターが一枚だけ生きている場所がある。  

 看板はない。あるのは、剥がれかけたステッカーと、擦れた「EDEN」の文字だけ。


 積載車のライトが、シャッターの隙間を白く裂いた。


 その夜、ガレージ『エデン』に運び込まれたのは一台の――亡霊だった。


 スロープを滑り落ちるようにして現れた深紅は、埃にむせせている。

 リトラクタブル・ライトのレンズは涙の膜を張り、艶を失った塗装は、かつての情熱を押し殺して眠っていた。


 名は、フェラーリ 288GTO。


 選ばれし者のためのホモロゲーション・モデル。伝説。富豪の玩具。勝利の象徴。

   ――そして、今は沈黙。


 積載車の運転席から降りた男は、帽子を目深に被ったまま、伝票を差し出した。

 名前の欄は空欄、受領印のところにだけ黒いインクが滲んでいる。


「期限は?」


 俺が訊くと、男は喉の奥で笑った気配を漏らすだけで、


「夜明けまでに……火が入るかどうか。見届けたい人がいる」


 そう言って、キーケースを俺の掌に落とした。


 革は上等だ。体温を拒む硬さがある。だが金具の縁は、何度も何度も指に撫でられて丸くなっていた。  男は振り返らない。積載車のエンジンが遠ざかると、通りは潮騒と、どこかの改造マフラーの低い唸りだけになった。


 『エデン』の中は、水銀灯の淡い青白さに満ちている。  工具の影が、静かに呼吸するみたいに壁に揺れる。  ここでは、言葉より音が信用できる。金属が温まる音、冷える音、締まる音、緩む音。  嘘をつかないのは、それだけだ。


「……随分と、冷たくされているようだな」


 愛用のグローブをはめ、俺はボンネットに指先を滑らせた。


 冷たい。


 ただの鉄の冷たさじゃない。放置された時間の冷えだ。触れられなくなった夜の冷え。誰にも見られず、誰にも呼ばれず、ただ湿気を吸って、眠りに沈んだ冷え。


 それでも、深紅は深紅だ。埃の下に、まだ色が生きている。皮膚の奥に、血が残っている。


 俺は彼女をリフトへ誘った。押すのではなく、導く。  体重移動を読んで、タイヤが転がる角度を確かめ、いちばん嫌がらないラインを選ぶ。

   車は嘘をつかない。抵抗するなら理由がある。


 リフトのアームがフロアを擦る低い音。

   四点を合わせ、ゴムパッドを当て、わずかに圧をかける。  彼女の腹が、静かに持ち上がっていく。


 最も無防備な下回りが、露わになる。


 そこには長年の結露が滴り、泥と塩分を噛んだ鉄が、鈍く光っていた。

   オイルパンの縁、サブフレーム、ブッシュの亀裂。  埃は外だけじゃない。眠りは内側から染みている。


「まずは、殻を脱がせる」


 俺は高圧洗浄機のノズルを握った。指の腹に、トリガーの形が馴染む。

 冷感ミスト――界面活性剤を含ませた、薄い膜を作る霧。


 最初は優しく。距離を取り、霧をまとわせるだけ。


 深紅のボディに白いヴェールが降りる。埃が湿り、色がじわりと浮かび上がる。  止まっていた時間が、呼吸を始める。


 次に、水圧を上げる。


 音が変わる。床に跳ねる水滴の粒が大きくなる。

   ノズルの先で生まれる細い刃が、汚れを切り裂き、固着した膜を剥ぐ。


 サスペンションのブッシュが、キシリと鳴った。


 ただのゴムの悲鳴だ。そう頭では分かっているのに、その一音が、喉の奥をくすぐる。


 蒸気が立つ。ガレージの熱気と冷たいミストが混ざり合い、白い霧が彼女の曲線を包み込む。

   霧の向こうで濡れた塗装が、ヌラリと妖艶な艶を取り戻す。


 俺はスポンジを桶に沈め、泡を育てる。


 きめ細かい泡。触れた瞬間に滑り、汚れを抱えて離す泡。

 指先の感覚を研ぎ澄ませ、曲線を辿る。


 フロントフェンダーの膨らみ。サイドシルのくびれ。肉感的なリアフェンダー。

   泡は白い指のように広がり、深紅に跡を残す。


 撫でるたび、彼女の肌が俺の手の熱を吸い込み、じわりと結露の汗を浮かべる。

 水滴が集まり、流れ、落ちる。その落ち方ひとつで、塗装の状態が分かる。弾くか、伸びるか、絡むか。


「……まだ、怯えてるな」


 俺は言葉を落として、圧を少しだけ弱めた。


 怖がるのは、痛みを覚えているからだ。磨きで焼けた記憶。雑な洗車でついた傷。

 放置で固着した汚れが、剥がれるときの小さな裂け目。


 丁寧に。丁寧に。


 給油口の縁を指先でなぞる。

 ここは、触れられる回数が多い場所だ。人の欲が一番集まる。

 だから擦れて、くすむ。だから弱い。


 その瞬間、彼女はガタンと小さく身震いした。


 ……ボディがリフトの上で揺れただけだ。そう自分に言い聞かせながら、俺は息を吐いた。

   グローブの中の指が汗ばむ。


 外側の清掃を終えると、次は粘土クリーナーで表面を撫でる。

 ざらつきが、滑りに変わっていく。  手のひらが「抵抗」を失うとき、車は一段、こちらに心を預ける。


 ポリッシャーは使わない。今夜は手でやる。

 時間をかけるほど、距離が詰まる。


 コンパウンドを薄く伸ばし、マイクロファイバーで磨き上げる。

 薄い傷が消えていくたび、深紅の奥の暗い闇が、少しずつ澄んでいく。


 艶が戻る。


 艶は、ただの光じゃない。触れた記憶が戻る光だ。


 俺は彼女の下へ戻った。ホイールを外す。

 ナットが解ける音が、やけに色っぽく響く。

 ブレーキキャリパーの埃を落とし、パッドを確認し、ローターの錆を指で撫でる。


 嫌な錆じゃない。眠りの錆だ。目覚めれば、すぐ剥がれる。


 だが――細いひび割れが一本、ホースに走っている。


 俺は口笛を飲み込む。ここが弱点か。

 美しいものほど、弱い場所が決まっている。


「見つけた」


 俺は新品のホースを用意し、交換する。

   締め付けトルクは規定値、でも最後の一瞬は手の感覚で合わせる。

 機械は数字だけじゃ動かない。相手の呼吸に合わせる必要がある。


 燃料ラインのチェック。電装の点検。コネクタの緩み、アースの腐食。

 見逃せば、目覚めの瞬間に裏切られる。


 俺は彼女の腹の中を歩くように、目と指を走らせた。


 そして、いよいよ核心。


 ボンネットのロックを外す。


 重厚な音を立てて跳ね上がる深紅の蓋。

 その下に鎮座しているのは、美しくも無骨な、V型8気筒ツインターボ。


 金属の塊でありながら、それは確かに、生々しい「内臓」の気配を持っている。

 配線の束が血管に見える。二基のタービンが、双子の心臓に見える。

 長い眠りで乾き切った金属の匂いが、鼻の奥に刺さる。


「……乾いてるなじきに、潤してやる」


 俺は、今回のために取り寄せた潤滑剤を取り出した。

 無色透明。驚くほど滑らか。触れれば指が、何かを許してしまいそうになる滑り。


 一本ずつ、プラグホールを開放していく。


 そこは燃焼室へ繋がる通路だ。熱と爆発が生まれる場所へ続く狭い穴。

 簡単に触れていい場所じゃない。だが、今夜は俺が入る。


 細いノズルを差し込み、ほんの少しだけ、滴らせる。


 一滴。もう一滴。


 乾き切っていた内部が、未知の液体を受け入れ、じわりと光を取り戻す。

 金属のざらつきが、膜に包まれていく。


 俺は息を吸った。

 オイルの匂いが胸の奥まで入ってくる。甘くて、苦くて、温度がある。


 次に、手動でクランクを回す準備をする。


 最初は固い。


 ギチ、と嫌な抵抗が来る。

 長い眠りが、まだ身体に絡みついている。

 俺の侵入を拒むみたいに、金属が悲鳴を上げる。


 俺は止めない。


 ゆっくりと、深く、確実に。


 クランクが回るたび、八つのピストンが上下する。

 潤滑剤が広がり、隅々まで行き渡る。抵抗が少しずつ減っていくのが、手のひらに伝わる。


 熱が生まれる。摩擦の熱。眠りを剥がす熱。


 ガレージの空気が、ほんの少しだけ甘くなる。金属が温まる匂いが立つ。

 機械が「生き物」になる瞬間の匂いだ。


「……そうだ。思い出せ。お前の本当の役割を」


 俺は彼女に話しかける。誰もいないガレージで、俺だけが聞く声。

 機械に言葉は届かない。  けれど、言葉を落とした瞬間、俺の手は迷いを失う。


 八気筒。八つの部屋。八つの鼓動。

 そして双子の過給機が、目覚めの時を待っている。


 一本ずつ、俺は確かめる。まるで、眠る誰かの脈を探るみたいに。


 燃料ポンプを点検し、フィルターを交換し、タンクの古い匂いを抜く。

 燃料は血だ。腐れば動かない。


 バッテリーを繋ぐ。電圧を確認する。

 セルの回転が足りなければ、目覚めは苦しい。

 苦しい目覚めは、嫌いだ。


 冷却水のラインを洗い、ホースを触って硬さを確かめる。

 ベルトの状態を見る。亀裂があれば、容赦なく替える。

 古いものを残したまま「復活」なんて言わない。


 復活は、優しさじゃない。残酷な現実だ。

 動いた瞬間に壊れるなら、それは殺すのと同じだ。


 俺は工具を拭いた。

 指先のオイルを布で一度だけ拭い、もう一度グローブを締め直す。

 革が鳴る。気合いじゃない。儀式だ。


 点火系を整える。配線を整える。プラグを戻す。

 ひとつひとつ、適正なトルクで座らせる。


 そして、最後。


 キーケースを開き、鍵を取り出す。

 銀色の刃が、淡い光を拾う。長い間、誰かの胸ポケットにあった匂いがした。

 革と汗と、香水と、少しの寂しさ。


「……さあ」


 俺は運転席に滑り込んだ。


 ドアが閉まる音が、妙に柔らかい。シートは硬いのに、包み込む。

 手のひらがステアリングに触れた瞬間、指先が微かに粟立つ。


 メーターは眠っている。針は落ちたまま。

 けれど、目を凝らすと、赤い文字がまだこちらを見ている気がする。


 俺は深く息を吸って、吐いた。


 ガレージの静寂が、耳の奥まで入ってくる。

 潮騒も、遠い道路の音も、今は薄い。

 ここにあるのは、俺と深紅だけ。


 キーを差し込む。


 ほんの少しの抵抗。長く回されなかった鍵穴が、ためらう。


「……怖がるな。俺を信じろ」


 俺は囁くように言って、力を込めた。


 カチッ。


 通電音。わずかな電子の目覚め。計器盤が薄く灯る。

 針がほんの少し揺れる。まばたきをするみたいに。


 俺は、少しだけ待った。

 燃料が回る時間。油圧が立ち上がる時間。機械が、自分の身体を思い出す時間。


 そして。


 点火。


 セルが唸る。


 キュル、キュルル、キュルルルル――!


 初速は重い。だが回る。  回って、吸って、押して、また回る。

 圧縮が立つ。空気が詰まる。火花が待っている。


 次の瞬間、世界が変わった。


 ドン、と腹の底を叩くような衝撃。


 マフラーから白い煙が吹き出し、ガレージの空気が一気に濃くなる。

 燃え残ったオイルの匂い。眠りの埃が焼ける匂い。甘くて、危うい匂い。


 彼女が、咆哮した。


 八つの鼓動が揃う。

 低い音が床を震わせ、壁を押し、胸を殴る。

 針が跳ね上がる。回転が上がり、落ち着き、また上がる。


 深紅のボディが、リフトの上で震える。


 それは嫌な震えじゃない。恐怖の震えじゃない。解放の震えだ。

 閉じ込められていた熱が、やっと出口を見つけた震えだ。


 白い吐息が、エンジンルームから立ち昇る。

 熱されたオイルが蒸発し、空気に甘い膜を作る。

 ガレージの水銀灯の下で、その白が踊る。


 俺はスロットルをほんの少し煽った。

 返ってくる反応を確かめる。

 応答は鋭い。八気筒は、まだ爪を隠しているのに、もう咬みつく準備をしている。

 タービンの微かな金属音が、歓喜の喘ぎのように耳を打つ。


「……いい子だ」


 俺の声は、震えていた。


 機械に言う言葉じゃない。けれど、今だけは許してほしい。

 俺は孤高の整備士で、こういう瞬間のために夜を生きている。


 富豪の金のためじゃない。名声のためでもない。


 眠るものを起こすこと。


 冷えたものに熱を戻すこと。


 それが、俺の仕事だ。俺の罪だ。俺の快楽だ。


 しばらく、咆哮を聞いた。耳が痺れる。胸が震える。

 振動が背骨を撫でる。  まるで、深紅が俺の身体の内側から鳴っているみたいに。


 俺は、ゆっくりと回転を落とした。


 アイドリングが安定する。均等な鼓動。八つが揃った呼吸。

 排気が整う。メーターの針が、落ち着いた位置で小さく揺れる。


 それを見届けてから、俺はキーを戻した。


 カチッ。


 エンジンが止まり、ガレージに静寂が戻る。


 しかし、完全な静寂じゃない。


 カチッ、カチッ、と金属が冷えていく心地よい音が、余韻のように残る。

 熱を帯びた鉄が、ゆっくりと現実に戻っていく音だ。


 深紅の肌には、しっとりと濡れたような艶が残っている。

 さっきまでの荒々しい咆哮が嘘みたいに、彼女は静かだ。


「……こんな姿、オーナーには見せられないな」


 俺は笑ってしまいそうになるのを、喉の奥で噛み殺した。


 見せられない。見せたくない。


 今夜のこれは、俺と彼女だけのものだ。

 誰かの所有物としての彼女じゃない。走るための彼女でもない。

 眠りから醒めたばかりの、熱の残る彼女だ。


 俺は工具を一つずつ拭き、定位置に戻していく。

 手際は落ちない。指先はまだオイルの膜を覚えている。

 布で拭っても、匂いは残る。残って、離れない。


 リフトを降ろす。タイヤが床に触れる音が、柔らかい。

 彼女が自分の重さを取り戻す音だ。


 最後に、ルーフを掌で一度だけ叩いた。


 コン、という音が返る。乾いた音じゃない。中身のある音。


「……次は、走らせる番だ」


 俺はシャッターのスイッチに手を伸ばし、照明を落とした。


 闇がガレージを満たす。深紅は闇の中で、まだ熱を帯びている。

 触れなくても分かる。

 さっきまで胸を打っていた震えが、まだ空気に漂っている。


 外では潮騒が続き、遠くの道路が眠らない音を刻む。


 その中で、深紅の女神は――  次の『ドライブ』を待ちわびるみたいに、静かに、確かに、息をしていた。


 俺はシャッターの内側に背を預け、鍵を掌の中で転がした。


 冷たい金属が、少しだけ温かくなっている。


 それが、妙に嬉しかった。

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