鏡
私にはこの鏡に纏わるトラウマのようなものがある。
――十八年前。突然訪ねて来た同い年の従姉妹の加奈子は、どうしても今夜泊めてほしいと言い、私の部屋で布団を並べながら
「ねぇ、香織って『男』いるの?」
そんなことを訊いてきた。
高校二年生だった私には、その大人びた問いかけも、暗闇のなかで聞こえてくるねっとりと湿った声もただ不快なだけで、布団を頭まで被り、返事をしなかった。
松井加奈子の母親は私の父の妹だが、加奈子が中学校三年生の時に交通事故で他界した。私達は小学校六年生くらいまでは、お互いの家を行き来して遊んだ記憶があるが、松井一家が茨城県水戸市へ引っ越してからは、ほとんど親交はなくなっていた。父が自分の妹の亭主を好ましく思っていなかったからである。
通夜が執り行われた式場は、桐箪笥のなかに重ねられた祖母の和服のような匂いがした。香炉から立ちのぼる煙のせいで、遺影も祭壇の花もぼんやりと霞んでいた。久しぶりに会った叔父の鼻の頭が、なぜあんなに赤らんでいるのか不思議でならなかったが、隣に座っているセーラー服姿の加奈子は昔とは別人のように変わっていた。髪の毛は校則で許されるはずのない金髪に染めていて、その髪色に不釣り合いな三つ編みに編んでいた。表情はピクリとも動かさず、ほとんど肌色に近い唇にはほのかな赤みさえもなく、まるでセルロイドの人形が置かれているようで、十五歳の体と魂を透明なガラスケースで巧妙に覆い隠しているのだった。
この葬儀から半年も経たないうちに、加奈子の父親は、行き付けのスナックのママと再婚した。
「まったく、恥知らずなやつだ」
父は母にこぼしていたが、私には、あの赤鼻の貧相な叔父と、田舎町のスナックのママはきっとお似合いであろうと想像した。しかし私の記憶のなかにある加奈子が、その二人と家族になることは考えづらいことだった。
その晩、加奈子の身の上話はだらだら
と続いた。入学して半年で高校を辞めてしまうと、コンビニで働き始めて、アルバイト仲間の十九歳の少年と一緒に暮らしていたという。
「こいつがまともに働かなくてさぁ、すぐに仕事を辞めるのよ」
「ふーん」
私は適当に相槌をうった。
その時親身に相談に乗ってくれた店長に告白され、今はその店長と同棲しているのだという。私は話を聞きながら、何故かあの叔父の赤鼻を思い出していた。
「でさぁ、すごく好きな人ができちゃって。家出して来ちゃったの」
「えっ?」
私は掛け布団から両目だけ出すと、暗闇のなかで加奈子の顔を探した。
「店長さんのところを?」
「うん」
呆れた・・・・・・。
レースのカーテン越しに洩れ入る月明かりが祖母の形見の鏡台に反射して、部屋のなかをよけいに青白く照らし出している。今夜はその一面鏡のなかに、加奈子の寝姿が映っている。暗闇のなかで次第に浮かびあがってきたパジャマ姿の乳房あたりを見つめながら、当然処女ではないであろう見知らぬ肉体を、鏡のなかから追い出したかった。
翌朝目が覚めると、加奈子はもう着替えを終えていて、朝食も摂らずにそっと出て行った。好きな人を追いかけて、どこまで行くつもりなのだろう。その後ろ姿を見つめながら、いっそ不幸になってしまえばよいと呪った。私は加奈子のすべてを拒絶した。心の細微な回路が遮断され、くすぶったような独特の臭いを発した。この臭いに私は時々深い夢の淵で出逢うのだった。




