鏡
あの「提案」を断ってから、出張だの、母親の具合いが悪いだのと理由をつけて、夫はほとんど家に帰って来なくなっていた。それは私にとって、平穏な日々が訪れたということでもあった。この数か月間、私は夫の衣類を洗濯していない。クローゼットを開けると、いつの間に持ち出したのか、二十着以上はあったはずのスーツが三着だけになっていた。
そして、奇妙なことも起こっていた。毎晩11時を過ぎると、必ず電話が鳴るのだ。その呼出音は執拗に鳴り続け、決して止むことはない。仕方なく受話器を取ると、ボソボソと話す女の声が聞こえてくる。ひどい訛りがある。私が一言も発しないでいると、いつの間にか電話は切れる。こんなやり取りが毎日繰り返されるうちに、訛りにぼかされていた言葉の意味が少しづつ理解できるようになっていった。
「出て行って」
「秀夫さんはあなたを愛していない」
私は、姑がこの女の卵子を利用するつもりなのだと直感した。計画は密かに進行していて、私だけが蚊帳の外に置かれているのだ。あの電話の女の卵子と夫の精子を結合させた受精卵が私の子宮に着床する。その小さな細胞は私の体から当然のように養分を吸い取り、分裂を繰り返しながら成長していく。やがて生まれてきた赤ん坊を、私はなにくわぬ顔をして育てるのだ。
嫌悪感で吐きそうになったが、私はまだこの日常を捨てきれずにいたから、そ知らぬふりをするしかなかった。しかし或る日、なんの前触れもなく、周到に用意された凶事がもたらされた。
「今の俺にはこれしか払えない」
久しぶりに帰宅した夫は、三センチくらいの厚みの茶封筒と離婚届をテーブルの上に置くと
「裁判とか面倒なことはやめてくれ」
強い口調でそう言い放った。
ああ、そうなのか。あの電話の女は、きっともう夫の子供を身ごもっているのだ。ついさっきまで、あの女の卵子から生まれた子供を育てる悪夢を思い描き、すっかり悲劇の主人公気取りでいたが、それはとんでもない誤りで、私はこの家ではとっくに用済みの人間になっていたのだ。夫の後ろには、姑とあの電話の女が身を潜め、私を蔑みほくそ笑んでいるのだ。
私は厄介な女なのだとつくづく思う。思慮深くもなく、ただプライドという詐欺師にまんまと罠にはめられた拙く愚かな生き物なのである。
こうして私は離婚を受け入れ、あの鏡台とともに実家に戻った。




