鏡
群青色の空から祈りのように降り注ぐ気高いほど透明な雪が、やがて陽光に照らされ溶け切ってしまう。この世界に生れ絶え果てるのは、その数秒にも満たぬ瞬きである。それはまるで褪せた物語本の拙い筋立てのように、心に爪痕を残せぬどころか、真新しい頁を繰る細い指の感触さえ期待してはならぬ夢なのだ。
私はさっきからずっと、祖母の形見の鏡台の前に正座している。母の手を離れ、まるで厄介者がようやく最後の居場所に辿り着いたみたいに、それは私の部屋の片隅に据えられている。おままごとで使うような小さな引き出しがいくつか付いた、細長い一面鏡の時代がかった代物である。
鏡に映っている自分らしき人物に問いかけると、その口元はまったく同じ動きをする。しかし触れようと手を伸ばせば、冷たい銀色の板にあっさりと遮られる。そこに映っているのは、かたちある不如意なるものなのか、それとも、その皮膚を剥ぎ取り、肉と骨を突き破った奥に在る「念」とでも大仰に呼ぶべきものなのか、はっきりとはしない。だが、それはどこかちぐはぐでいびつだった。
しばらくして、私は右目にあてがっていた眼帯をそっと外した。ついこの間まで、紫タマネギのような色をしていた眼球のまわりの皮膚は、今はまだら模様の緑色に変化している。私の右目に映る世界には、ハーバリウムの美しい円柱のなかをキラキラと浮遊する金箔のようなものがいつも舞っていて、鬱陶しいには違いないが、それを美しいとうっとりする瞬間さえあるのは、私自身が歪んでいく予兆なのかもしれない。
突然、インターホンが鳴った。モニターを見ると夫が映っている。条件反射のように、鼓動が速まった。ドアを開けると、不機嫌そうな蒼白い顔が飛び込んできた。
「お帰りなさい」
「・・・・・・」
返事はない。几帳面に靴を揃えて脱ぎながら、私の右目の眼帯に冷ややかな一瞥を投げる。
「そんな恰好で行くつもりか」
「お母様が心配されるといけないから」
「ふん。転んだとでも言っておけばいいじゃないか」
夫が突然振り返ったから、私は咄嗟に顔の前で両手を重ねた。
今から5年前、友人の結婚式の二次会で、長身で神経質そうな男が隣に座ると
「乃木さん、そちら神村秀夫さん」
幹事の小野幸恵が生ビールのジョッキを手渡しながらそう紹介した。新郎の大学時代の友人だと言う。大手都市銀行に勤めるエリートで、酔いがまわったのか、為替がどうの、資産運用がどうのと饒舌に話し始めたが、私には縁のない世界のことだと、ほとんど上の空で聞いていた。だから交際を申し込まれた時も驚いたが、まさか結婚するとは思ってもみなかった。
「美人に年齢は関係ないのね」と、友人からは嫌味も言われたが、両親は大喜びだった。音大を卒業して就職のあてもなく、カルチャースクールでピアノ講師のアルバイトをしていた私には、学歴も職業も過ぎた相手だったからだ。
しかし結婚後しばらくすると、夫は私のことを「こんな女だとは思わなかった」と、口にするようになった。いったい私のことをどんな女だと思っていたのか。むしろ、私のほうこそ思うところがある。
何度会っても覚えられないような地味な顔立ちで、細い首と薄い胸板がかろうじて人間らしき肉体の細工を保ち、それらの容姿のどこにも、私のなかの「女」を刺激する構成物は備わってはいなかったけれど、おそらく唯一の長所であろう明敏な頭脳が下賤な感情を完璧に抑制していて、緻密で規則的で、優雅とさえ称すべき仕草や物言いに尊敬の念すら抱いていたのに。
いつの頃からか、夫は私の前で下賤な感情をあらわにするようになった。すべてが気に入らないといった風で、私は数ミリの塵になってしまい、わずかな振動に怯え、跳ね上げられ、ハタリと床に落ち、そのまま這いつくばるしかないのだった。
そして今日、突然、私達は夫の実家に呼ばれた。応接間に通され、姑がバタンと扉を閉めると、そこはまるで法廷のように張りつめた空間になった。
「あのね、香織さん」
「はい」
「私達もそりゃあ悩んだのよ。それは分かってちょうだいね」
「・・・・・・」
「今はね、不妊治療にもいろいろな『考え方』があるらしいの」
やはり、その話か。もう放っておいてほしい。
結婚して5年経つが、私達夫婦には子供ができなかったのだ。3年間の不妊治療も成果はなかった。
「秀夫の体には、なんの問題もありません」
それは医師に言われてわかっている。原因は私にあるのだ。
「あなたも、もう痛い思いはしたくないでしょ?」
姑の尖った眉が上下にヒクヒクと動いている。
「落ち着いて、聞いてちょうだいね」
「はい」
「他の女性から卵子をもらうというのはどうかしら?」
「えっ?」
「他の女性の卵子と秀夫の精子を結合させて、あなたの子宮で育てることができるらしいの」
なにを言っているのだ、この人は。
「でも、あなたの子宮は胎児を育てるには決して良い環境ではないらしいのよ」
姑の分厚い唇から吐き出される言葉の数々が、生き物ようにぞわぞわと床に広がり、私の体を這い上がってくる。
「待ってください。他の女性?」
それは隣でずっと押し黙っている夫に対する情愛などではない。押し戻せぬ激しい感情が体中を走り抜け、次の瞬間、絶対に口にしてはならない言葉が突いて出た。
「私はこの家の子孫をつくる道具ではありませんから」
姑の顔色が変わった。
「あなた、子供が欲しくないの?」
「正論」という名の暴力が、夜ごとの絶望的な痛みと屈辱を思い起こさせた。
「秀夫の子供が欲しくないのね?」
「それは・・・・・・」
「どんなことをしたって我が子をこの腕に抱きたくて、辛い努力をしている夫婦がたくさんいるのに。あなたはそんな他人事みたいな顔をして」
「母さん、香織だって他人事だなんて思っていないから」
夫が姑の肩を抱いて座らせようとしたが、姑はその手を振り払った。
「だいたい、私は最初から気に入らなかったのよ。この人が」
「やめなさい!」
舅が初めて口を開いた。
「いいえ、この際だからはっきり言わせてもらいますよ。私はこの人の死人みたいな無表情な顔が大嫌いなのよ!」
(死人・・・・・・)
姑の金切り声を浴びながら、なぜか私の心はもうこの部屋にはなく、あの鏡台の冷たい銀色の板に吸い込まれる寸前だった。夫は、興奮状態の母親のそばにもう少し付いているからと、私だけが追い出されるように外へ出ると、もう二度とこの家には来るまいという重い決心だけが、崩れ落ちそうになる体をかろうじて支えていた。




