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紅白のボーダーラインを超えて

1.

奥村千代子は島根県の小さな町で生まれ育った。


若いころから音楽が好きで、地元の祭りや学校行事では歌を披露していた。


20歳のとき、夢を抱いて東京に上京し、歌手としての道を歩み始めた。


端正な顔立ちと透き通るような歌声を持ちながらも、芸能界の荒波は厳しく、なかなか日の目を見ることはなかった。


それでも、諦めずに活動を続け、苦節5年にしてようやく「初めてみた富士」がヒットした。


一時的とはいえオリコン9位にランクインし、彼女の存在は少しずつ世間に知られるようになった。


千代子はNNKの「あなたのメロディー」に度々出演していた。


この番組は、視聴者が応募したオリジナル曲の中からプロの作曲家が選んだ作品を、歌手が歌う録画番組である。


会場は「NNKホール」で、入場料は無料だが、観覧希望者はハガキで応募し、抽選で選ばれたおよそ1000人の観客が足を運んでいた。


歌う前には、事前に楽譜が渡され、十分に練習して臨む必要がある。


千代子が歌っていると、突然彼女が叫んだ。


「ごめんなさーい」


歌詞を間違えたのである。


そのたびに司会者は優しくフォローした。


録画番組の利点は、やり直しがきくことだ。


他の出演歌手が間違えることは稀で、千代子の失敗はこと更に目立った。


紅白歌合戦は、男女それぞれ23人が選ばれ、NNK側が独自に決定する方式だった。


千代子はそのボーダーライン、つまり23位と次点の境目に立っていた。


次点は、誰かが不祥事などで外れた場合に出演できることもあるが、その例は少ない。


NNKのディレクター、滝沢三郎は30歳の独身である。


東都大卒のエリートであり、端正な顔立ちのイケメンであった。


12月初旬の「あなたのメロディー」収録後、滝沢は千代子に声をかけ、近くの喫茶店に誘った。


「コーヒー2つ」


熱いコーヒーをすすりながら、軽い雑談を交わした後、滝沢は紅白の選考について話し始めた。


「君は紅白のボーダーラインにいるんだよ」


「やっぱり、そうですか」


一度のヒットでは大きな期待はしていなかったが、5年にわたる努力の末、ようやくチャンスが巡ってきたのである。


歌手を続けるなら、紅白はぜひ出ておきたい舞台だった。


「君はよく『あなたのメロディー』で撮り直しをしていたよね。あれがよくない印象を与えているんだよ。つまりやる気がないと上層部に思われているのさ」


「お願いします。どうかわたしを押してください」


千代子は必死である。


これが歌手として活動を続けられるかどうかの分かれ道である。


「そうだな、できないことはないな。君の担当した曲は何故か歌詞が難しかった」


「そうなんです。何故か歌詞が難しかったんです」


「よかろう。わたしがその点を強く主張すれば、何とかなるだろう」


「よろしくお願いします」


千代子は深々と滝沢に頭を下げた。


滝沢はその点を力強く推し、千代子は初めて紅白に出場することができた。


その後、2回の出場を経て、歌手としての道を歩み続けた。


やがて、千代子は滝沢と恋に落ち、恋愛結婚を果たす。


滝沢はNNKのディレクターとして活躍し続け、千代子も歌手としてのキャリアを積み重ねていった。


2.

滝沢は75歳、淡い秋の日差しが差し込む病室のベッドに横たわっていた。


窓の外では、赤や黄に染まった街路樹の葉が、ゆっくりと風に揺れる。


病室の壁は白く、点滴のスタンドが静かに傍らで光を反射している。


酸素マスクの隙間からかすれた呼吸が漏れ、彼の肩は小刻みに震えていた。


彼女の目は窓の外の落ち葉に吸い寄せられ、時の流れを感じさせた。


「”あなたのメロディー”も、俺がディレクターだっただろ?」


「それが?」


「おれはわざと難しい歌詞の曲を君に割り当てたんだ」


「何のために?」


「おれは君が売れる前から、ずっと好きだった。だから、君が紅白のボーダーラインになるように仕向けたんだ」


病室の静寂に、その告白は重く落ちる。


彼女は息を飲み、目を伏せながら小さく震える手を握りしめた。


「そんなこと、もうどうでもいいじゃない」


「ありがとう。これでもう思い残すことはない」


滝沢はゆっくりと目を閉じ、胸の動きが穏やかになっていく。


枕元のレコードジャケットが静かに光を反射し、カーテンの端が微かに揺れる。


外の木々の葉が最後の光を浴び、部屋は淡いオレンジ色に染まった。


彼の呼吸はやがてとまり、長い人生の幕が静かに下ろされた。





  


 

 

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