東京タワーは、いつも静かに
第1部 静寂のリズム
第1章 街の灯り、ひとつの影
西日が丸の内の高層ビル群のガラスを黄金色に染め上げる頃、水野美月、32歳は、モニターから顔を上げた。キーボードを打つ音が規則正しく響くオフィスは、洗練されているがどこか無機質だ 。彼女の仕事は、営業部門のバックオフィス業務。売上データの入力、会議資料の作成、契約書の管理。慎重さと正確性が求められる仕事に、彼女は責任感を持ち、静かな満足を得ていた 。
17時半。定時のチャイムと共に、美月はパソコンをシャットダウンし、オフィスを出た。イルミネーションが灯り始めた丸の内仲通りは、昼間のビジネス街の顔とは違う、エレガントな華やぎを見せている 。高級ブランドのショーウィンドウを横目に歩きながら、美月はふと5年前のことを思い出す。彼と別れたのは、お互いの仕事が忙しくなり、心の距離が静かに開いていった結果だった。すれ違い、というありふれた言葉でしか表現できない、穏やかで、だからこそどうしようもない別れだった。
それから恋人はいない。20代後半には結婚や出産に焦りを感じた時期もあった。友人の結婚式の招待状が届くたびに、それが女性の幸せの唯一の形なのだと信じて疑わなかった 。しかし、32歳になった今、その焦りは達観にも似た諦めに変わっていた 。ただ、週末に一人でカフェ巡りをしたり、映画を観たりする時間は、それなりに楽しい反面、ふとした瞬間に孤独が胸を刺す 。仕事から帰宅し、明かりのついていない部屋のドアを開けるとき。結婚した友人たちの家族写真がSNSに流れてくるとき。自分だけが世界から取り残されているような感覚。パートナーが欲しい。結婚という形にこだわっているわけではない。ただ、この静寂を共に分かち合える誰かがいれば、と願うようになっていた。
第2章 新しい潮流
月曜日、部署に異動者が来ると朝礼で告げられた。佐々木健太、27歳。5歳年下の彼は、太陽のような笑顔で挨拶をした。
「佐々木健太です! 皆さんと一緒に仕事ができるのを楽しみにしています。よろしくお願いします!」
その明るさとエネルギーは、静かなオフィスに新しい風を吹き込んだようだった。彼は驚くほど早く部署に溶け込んだ。持ち前の高いコミュニケーション能力は、単なるおしゃべりとは違う。彼は相手の話を最後まで遮らずに聞き、的確な相槌を打ち、相手の目を見て真剣に耳を傾ける「傾聴」の姿勢が自然にできていた 。仕事も的確で、複雑な業務内容をすぐに理解し、自ら課題を見つけて改善案を提案するほどだった。
あっという間に、彼は部署の中心人物のようになった。特に若い女性社員たちが彼を放っておかなかった。ランチや飲み会に誘われる光景を、美月は少し離れた席から眺めていた。健太は何度かその誘いに応じているようだったが、誰に対しても平等に、そして爽やかに接していた。彼が自分とは違う、光の当たる場所にいる人間なのだと、美月は無意識に壁を作っていた。
第2部 はじめての接続
第3章 喧騒の中の声
部署の大きなプロジェクトが一段落し、打ち上げの飲み会が開催された。賑やかな居酒屋の喧騒の中、美月はいつものように隅の席で静かにハイボールのグラスを傾けていた。健太の周りには、やはり若い女性社員たちが集まり、楽しそうな笑い声が絶えなかった。
その時だった。ふと隣の椅子が引かれ、健太が座った。 「お疲れ様です、水野さん」 「…お疲れ様。佐々木くん」 ちゃんと話すのは、これが初めてかもしれない。彼の周りにはいつも人がいて、美月が入り込む隙はなかった。
「水野さん、今回のプロジェクトの資料、すごく分かりやすかったです。特に3年前の類似案件のデータを引用されていたところ、感動しました」 彼の表情は、普段の快活さとは違う、真面目で落ち着いたものだった。美月は驚いた。3年前の資料など、誰も覚えていないと思っていた。 「よく見てるのね…」 「水野さんの仕事はいつも丁寧で、勉強になります。ずっと一度、ゆっくりお話してみたいと思っていました」
彼の言葉にはお世辞の響きがなかった。彼は美月という人間そのものに興味を持っているようだった 。美月は戸惑いながらも、胸に温かいものが広がるのを感じた。 「若い子たちといる方が楽しいんじゃない?」 思わず、意地悪な質問が口をついて出た。健太は少し困ったように笑い、それをやんわりと否定した。 「そういうわけじゃないです。ただ…水野さんと話したかった、それだけです」 時間はあっという間に過ぎ、飲み会はお開きの時間になった。
第4章 二人だけの居酒屋
翌日、美月のスマートフォンの画面に健太からのメッセージが表示された。 『昨日はありがとうございました。もしよろしければ、今週末、二人でゆっくり飲みませんか?』 そのストレートな誘いに、美月の心臓が跳ねた。
週末、二人は新宿の喧騒から少し離れた、静かな個室の居酒屋にいた 。薄暗い照明が、緊張を和らげてくれる。健太はこれまでの仕事のこと、学生時代の恋愛のこと、そして今、美月と同じ部署で働けることがどれほど嬉しいかを、熱っぽく語った。彼は年下や同年代の女性にはない、美月の落ち着いた雰囲気や仕事への姿勢に惹かれているようだった 。
彼の真摯な言葉に促されるように、美月も自分のことを話し始めた。5年間恋人がいないこと、結婚への憧れと諦め、一人で過ごす休日の楽しさと寂しさ。健太はただ黙って、時折頷きながら聞いてくれた。誰にも話したことのなかった心の澱が、彼の深い眼差しの中に溶けていくようだった。その夜を境に、二人の距離は急速に縮まっていった。
第5章 ピクセルと深夜の言葉
毎日のメッセージのやり取りが始まった。「おはようございます」から始まり、仕事の合間の何気ないチャット、そして「お疲れ様でした」で終わる一日。やがてそれは、夜の電話へと変わっていった。
受話器の向こうから聞こえる彼の声は、美月の静かな部屋の空気を優しく震わせた。子供の頃の思い出、好きな映画、将来の夢。他愛もない会話が、何時間でも続いた。美月は日に日に、健太に惹かれていく自分を止められなかった。
しかし、想いが募るほどに、不安もまた大きく膨らんでいった。5歳という年齢差が、まるで深い谷のように感じられた。ある夜、電話で笑いながら話している最中、美月の頭の中で冷たい計算が始まった。
私が大学を卒業した22歳の時、彼はまだ17歳、高校生だった。 私が20代前半に夢中で聴いていた音楽は、彼にとっては「懐メロ」のカテゴリーに入るのだろう 。 私が初めて責任ある仕事を任された頃、彼はまだ大学に入ったばかり。 私の友人たちは二人目の子供の話題で持ちきりなのに、彼の友人たちはようやく結婚し始めたばかりか、まだ独身を楽しんでいる 。
この埋めようのない時間の差。私は彼にとって、今までいなかった珍しい年上の女性で、ただの好奇心や遊びの対象なのではないだろうか。その疑念が、黒い染みのように心を蝕んでいった。
第3部 疑念の影
第6章 言葉にできない恐怖
給湯室で、健太が若い女性社員たちと楽しそうに笑っているのを見てしまった。それはオフィスでは日常的な光景のはずなのに、その日の美月の目には、彼が自分の知らない世界で生きている証拠のように映った。私とは違う、若くて、きらきらした世界。私は、その世界に迷い込んだ異分子なのだ。
「年上の女に興味があっただけ。一時の気の迷いよ」 そう自分に言い聞かせた。
その日の夕方、会社を出ようとする美月を健太が追いかけてきた。 「水野さん、この後、軽く一杯どうですか?」 いつもの屈託のない笑顔。しかし、疑念に囚われた美月の心には、その笑顔が軽薄な誘いに見えた。 「ごめんなさい、今日は用事があるの」 冷たく言い放ち、彼の方を見ずに早足で駅へと向かった。背中に突き刺さる、彼の戸惑ったような視線に気づかないふりをして。
第7章 電話線の向こうの亀裂
その夜、健太から電話があった。彼の声はいつもの自信に満ちたものではなく、どこか不安げだった。 「あの…俺、何かしましたか?」 彼の問いに、美月の心の堰が切れた。 「もうやめて。あなたが私を遊びでしか見ていないことくらい、分かってる。珍しい年上の女を試してるだけでしょ」 感情のままに、棘のある言葉をぶつけてしまった。
電話の向こうで、長い沈黙が流れた。息をのむほど重い静寂の後、健太が静かに口を開いた。 「…遊びなんかじゃ、ないです」 彼の声は震えていた。 「俺は、水野さんの落ち着いているところも、仕事に真剣なところも、全部に惹かれました。本気で…あなたのことが、好きです。だから、今日のあなたの態度は…すごく、悲しかった」 怒鳴るでもなく、ただ静かに、けれど心の底からの言葉だった。その真摯さが、美月の作り上げた防御壁を打ち砕いた。
第8章 一日の重み
翌日のオフィスは、まるで戦場のようだった。彼と顔を合わせると、昨夜の電話が蘇り、息が詰まる。交わす言葉は、「おはようございます」というぎこちない挨拶と、業務上必要な最低限の報告だけ。二人の間にあった温かい空気は、完全に消え失せていた 。
同じプロジェクトの打ち合わせで、隣に座らなければならない。彼の横顔を盗み見ると、その表情は硬く、いつもの輝きはなかった。職場恋愛のリスクを、美月は痛いほど感じていた 。
一日中、後悔が美月を苛んだ。彼の誠実な告白を、自分の勝手な不安で踏みにじってしまった。この気まずい関係を作ったのは、他の誰でもない、自分自身だ。このままではいけない。彼を傷つけたまま、終わらせるわけにはいかない。美月は、覚悟を決めた。
第4部 頂からの眺め
第9章 光への招待
終業後、美月は震える指でスマートフォンを操作した。 『話したいことがあります。今夜、東京タワーで会えませんか』 送信ボタンを押すと、すぐに既読がついた。数分の沈黙の後、『わかった』という短い返信。
なぜ東京タワーだったのか。それは、このこじれてしまった関係を、もっと高い場所から、広い視野で見つめ直したかったからかもしれない。街の喧騒から離れた、静かで、象徴的な場所で、もう一度彼と向き合いたかった 。
第10章 街が眠る場所で
夜の東京タワーのメインデッキは、静かな興奮に満ちていた。窓の外には、宝石を散りばめたような東京の夜景が無限に広がっている 。ガラスに映る自分たちの姿が、まるでドラマのワンシーンのようだった。
先に口を開いたのは美月だった。 「ごめんなさい」 彼女は、自分の不安と嫉妬を正直に打ち明けた。5歳という年齢差がどれほど怖かったか。彼が若い女性たちと仲良くしているのを見るのが、どれほど辛かったか。「私が恋愛対象になるはずがない」と、自分に言い聞かせていたことを。
健太は黙って聞いていた。そして、美月が話し終えるのを待って、静かに言った。 「部署の若い子たちとは、何もありません。ただ、場の雰囲気を壊さないように、愛想よくしていただけです。俺が本当に見ていたのは、最初から水野さん、あなただけでした」 彼は美月の目をまっすぐに見て続けた。 「年齢なんて、俺には関係ない。俺が好きなのは、他の誰でもない、水野美月さん、あなたです」
彼の言葉は、夜景の光よりも強く、美月の心に染み渡った。二人の間にあった誤解という名の氷が、静かな東京タワーの展望台で、ゆっくりと溶けていった。
エピローグ 明くる朝
次の週末。美月のアパートのキッチンに、二人の姿があった。一緒にコーヒーを淹れ、マグカップを片手にベランダに出る。かつては孤独の色をしていた部屋の静寂は、今は心地よい安らぎに満ちていた。
眼下に広がる東京の街並みを眺めながら、二人はどちらからともなく微笑み合った。劇的な言葉も、情熱的なキスもない。ただ、穏やかで、確かな温もりがそこにあった。二人の本当の物語は、今、始まったばかりだった




