祈り
吐き気がする。
高橋はそう思った。下卑た笑いを噛み締めている記者に対してではない。華やかな壇上で薄っぺらい笑みを張り付けている自分に対してだ。
高橋はそんな黒い感情を顔に出すことなく、あくまでにこやかに記者からの質問に答えていく。
「身内の傷痕を世間に公表する事に罪悪感や引け目は感じなかったんですか?」
またそれか、高橋は内心、溜め息をつく。
「家内は自分の肉体が持つ芸術性が評価されている事にとても満足しています。その美しさを写真といういわば瞬間的な方法で表現する事に僕は何の躊躇いも持った事はありません」
擦り切れて何の意味も持たなくなった戯言を高橋は口にする。納得のいかない記者は皮肉に満ちた質問を投げかける。
「しかし、世間にはそう思わない人もたくさんいるみたいですよ」
曖昧な苦笑を浮かべながら高橋は司会者に目配せする。
「では質問はここまでとさせて頂きたいと思います。えー、では高橋さんは前の方へ」
一部の記者が高橋の成功を快く思っていないのは明らかだった。それほど、高橋の成功は芸術写真家としては異常なものだった。
今作で三作目となる傷痕シリーズは芸能人や動物などをモデルとしたものを除く純粋な写真集としては異例の売り上げを記録していた。昔から、人間や動物の死骸を好む一部のマニアはいたが、高橋の写真集は広く一般に受け入れられていた。
なぜ『傷』という日常からかけ離れたものが社会現象を巻き起こすまでになっているのか、難解な言葉を並べたてるのが仕事である評論家たちも曖昧に言葉を濁すだけだった。
高橋自身、なぜ自分の写真がこれほどまでに評価を受けているか、全く見当がつかなかった。あるのは妻を見世物にしている引け目と、妻を道具でしか捉えられなくなった自分に対する罪悪感だけだった。
高橋は写真集を片手に微笑みを浮かべている。多くのフラッシュにより表紙に飾っている妻の背中が照らされていく。背中には傷が一面に刻まれていた。
高橋は妄想する。
記者達のカメラが銃に変わり、自分が撃ち殺される様を。そして写真に収められた妻の姿を消してくれる事を。
きっかけは高校生の時のアルバイトだった。プロカメラマンのアシスタントに必要なのはカメラに対する知識や情熱でもなく体力だった。機材の運搬、身の回りの世話、それはアシスタントというよりマネージャーの仕事に近い。カメラの専門学校に通う青白い顔をした青年たちは次々と辞めていき、残ったのは高橋だけだった。
大した夢も無かった高橋は高校を卒業した後も、プロカメラマンの専属アシスタントとして働く事にした。アシスタントの仕事はやりがいもあり、給料も良かったので高橋は満足していた。
流れる風景をカメラで切り取るのは確かに魅力的だったが、周りのプロ志望の人達のように一生を掛けて臨むような仕事には思えなかった。
そんな時だった、彼女に出会ったのは。
彼女はかけだしのモデルだった。地方から出てきて数年、やっと仕事も増えてきた頃だった。
撮影に目処がつき、休憩時間に入った時、高橋は彼女に声を掛けた。
「写真を撮らせてもらえませんか?」
なぜこう思ったのか、高橋自身にも分かっていなかった。ただ現場で彼女を一目見た瞬間からどうしようもなく魅かれ、その魅力を永遠に残したいと思った。高橋にとって初めての感覚だった。
「えっと、はい、良いですよ」
彼女は戸惑いながらも快く承諾してくれた。
高橋はカメラを構えファインダー越しに彼女を見つめた、が、そこで止まってしまった。今まで風景ばかりを撮ってきた高橋には人物の撮り方が分からなかったのだ。
「どうすれば良いですかね?」
そう彼女が尋ねる。高橋は彼女を困らせてはいけないと思い、咄嗟に
「背中を撮らしてください」
と口走っていた。何を言っているんだ俺は? と思い、高橋はすぐに
「嫌なら良いんです」
と付け加えた。彼女は一瞬、躊躇いを見せたが、すぐに可笑しそうに笑った。
「えっと、こうですか」
とポーズを取ってくれる。
ほんの少しこちらに向けられた笑顔に見とれそうになる自分を抑え、高橋はシャッターを何度も切った。彼女の体がほんの少し震えているような気がしたが、高橋は気に留めなかった。
撮った写真を送りたいから、と高橋は半ば強引に連絡先を交換し、その日の夜にはもう彼女に電話をかけていた。高橋は元々、恋愛には積極的ではない。でも彼女の事となると話が違った。
「付き合ってください」
まず、今日の非礼を詫びた高橋は彼女を撮りたかった理由を無茶苦茶な言葉で説明し、趣味は? 彼氏は? とプライベートな事をこれでもかと回りくどく聞き、最後の最後に吐いたのがこの言葉だった。
彼女は堪え切れないといった感じで笑いながら
「友達から、なら」
と恥ずかしげに呟いた。
そんな二人が恋人になるまでそう長い時間は掛からなかった。
ある日、高橋は初めて彼女を家に呼んだ。道中のスーパーで買った食材で彼女が料理を作ってくれた。普段はあまり飲まないアルコールを飲みながら二人は古ぼけた恋愛映画を見た。無音のスタッフロールが流れていく中、高橋は彼女を抱き締めた。
彼女は体を震わし
「ごめん」
と言った。
どういうこと? と問う高橋に彼女は服を脱ぎ、背中を見せた。
息が詰まる、という感覚を高橋はその時初めて感じた。
背中一面にまるでひび割れた大地のように傷痕が拡がっていた。彼女が背中を動かす度にぴきぴきと音を立て、背中が割れていった。血が音もなく流れ出す。それは血管がそのまま浮き出しているようにも見えた。ベッドが赤い染みを作っていく。
「痛くは無いの」
と彼女は言った。昔のケガが原因で、月に一度皮がぼろぼろと剥がれ落ち新しい傷が現れるらしい。
「気持ち悪いでしょ」
彼女は自嘲的に微笑んで見せたが、彼女の言葉も笑顔も高橋には届いていなかった。ただ無性に気分が高揚しているのを感じていた。
高橋は彼女を無理矢理抱きしめた。手が背中の傷に当たった時、あっ、と彼女は声を漏らした。
絶頂に達した後、彼女のまるで生きているように蠢いている背中の傷を見ていると、高橋はどうにも写真を撮りたい衝動に駆られた。それは彼女を初めて見た時よりはるかに強い感情だった。
ほとんど無理矢理に彼女にポーズを取らせ、高橋はシャッターを切った。もう、彼女を愛してはいなかった。
その時、撮った写真が傷跡シリーズ第一弾の表紙を飾る事になる。
会見を終え、家に帰ってきた高橋の目に飛び込んできたのは背中を露わにした彼女の姿だった。写真を取られる毎に、彼女は美しく、しかし人間味を失っていった。
「抱いて」
と呟いた彼女をベッドまで運び、おざなりに行為を済ませた。
まるで抱く事が写真を撮る条件のようになってしまっていた。まだ苦しそうに呼吸を繰り返している彼女に高橋は当然のようにカメラを向けた。
カメラを銃に変えなければならないのは俺の方か、擦り切れてしまった脳で高橋はそう思う。
彼女の傷が死ぬか、銃が暴発して俺の両腕が消えるか。どちらでも良いからさっさとこの茶番は終わらしてくれ。
高橋は祈りにも似た思いを抱きながら、写真を撮り続けた。
後味悪いかな、だったらすいません。