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エンジェル様【夏のホラー2024】

作者: 江渡由太郎

 父が亡くなり、馴れ親しんだ実家から荷物を運び出し引っ越しの準備に追われていた。拳太郎はこの家にはもう二度と帰られないのだと噛み締めながら荷造りを始めた。帰る場所があるのとないのではこんなにも心が乱されるとは思ってもいなかったのである。


 クローゼットの奥に一つ段ボール箱があり、その中には幼稚園の思い出の品々や小学校の卒業アルバム等も入っている。拳太郎は何となくその箱を開けてみた。箱の中にはやはり幼稚園時代のクレヨンで描かれた当時飼っていたウサギの絵や小学校時代の文集や中学校時代の修学旅行のしおりや卒業式の記念品、卒業アルバムが所狭しと箱の中に閉じ込められていた。


 懐かしさに中学校の卒業アルバムを手に取り、自分のクラスのページを開いた。あの当時のままのクラスメイトたちがそこには居た。その瞬間、拳太郎は思い出が押し寄せる海の波の様に鮮明に色々な事が蘇る……

 その日、前田真希はずっと、誰かに呼ばれているような感覚を抱いていた。


 朝のチャイムが鳴る前の教室。ざわめき、笑い声、机を動かす音。けれど、そのざわめきの奥に、何かもっと柔らかく、しかし確かに存在する「声」のようなものがあった。


「ねえ、真希。昨日のノート、持ってきた?」


 そう話しかけてきたのは、クラスメイトの永井花音だった。髪をおさげにした細身の女の子。真希とは小学校からの友達で、オカルト好きという点でも波長が合っていた。


「うん。ちゃんと書いてきた。ほら」


 真希はカバンから一冊のノートを取り出した。中学に入ってからも学校指定のサブバッグを使っているのは、真希ともう数人くらいだったが、彼女は気にしていなかった。むしろ、その古風な雰囲気が「呪文を書くノート」には相応しいと感じていた。


 ノートの表紙には「エンジェル様」と油性ペンで大きく書かれている。中には、交霊術の手順、友達と試したときの記録、そして最近流行っているという「エンジェル様」の召喚方法がびっしりと書き込まれていた。


「これ、本当に動いたの?」


「うん。昨日の夜、ひとりでやってみたんだ。そしたら……すごく優しい声が聞こえたの。『寂しかったね』『大丈夫だよ』って」


 花音は少し眉をひそめた。「一人で交霊術なんて、危ないんじゃないの?」


「でも、エンジェル様って悪霊じゃないって書いてある。優しい霊だからって」


 真希の瞳は熱に浮かされたように潤んでいた。その目を見て、花音はそれ以上言葉を継げなかった。


 昼休み。教室にはまだ数人の生徒が残っていた。部活動が始まる前の、束の間の自由時間。真希と花音は、三人目の仲間――杉村圭太を呼んで、教室の隅の机を寄せ集めた。


「これ、マジでやるの?」


 圭太は少しビビりながらも、興味本位で参加するタイプだった。ゲームや都市伝説、心霊動画が好きで、LINEのグループにも毎日のように怖い話を投下してくる。


「ルールは簡単。十円玉の代わりに私は鉛筆を使うの。エンジェル様はこっくりさんより優しくて、願いも叶えてくれるって噂。信じてくれればね」


 真希はそう言って、ノートのページをめくった。そこには、ひらがな カタカナ、はいといいえ、そして「こんにちは」「さようなら」などの言葉が並んだ手作りの交霊術ボードがノートに描かれていた。


 その中心に、「羽の生えた小さな天使のマーク」が貼られていた。折り紙を切って作った、素朴でどこか不気味な天使の形。三人は人差し指を軽くその天使に乗せた。そして、前田真希と一緒に鉛筆を軽く指で摘んだ。


「……エンジェル様、いらっしゃいますか?」


 真希の声が教室に響いた。外からは部活動の音、グラウンドの歓声が微かに聞こえていたが、教室内には妙な静寂が広がっていた。


「……」


 何も起きない。ただ、風もないのに、どこからかカーテンがわずかに揺れた。


「なにも起きないじゃん。やっぱデマで――」


 そのときだった。


 プランシェットの代わりに使っている鉛筆が、すう……と動いた。


 アルファベットの「は」の上で止まる。


 続いて「い」……はい。


「うわっ……マジで動いた……」


 圭太が指を引っ込めそうになるが、真希が静かに制する。


「お願いが、あるの……」


 真希の声はささやくように低く、まるで別人のようだった。


「もう、寂しくなりたくないの……」


 その瞬間、鉛筆が激しく動いた。


 はい いいえ はい いいえ はい――


「真希っ……大丈夫?」


 花音が声をかけるが、真希の目は虚ろで、指は震えているのに離れようとしない。


 突然、教室の照明がチカチカと明滅を始めた。掲示板の画鋲がカタカタと揺れ、机の脚がギシ……ギシ……と鳴った。


「なんだよこれ、やばいって!」


 圭太が立ち上がった瞬間、ガタッ!と黒板のチョーク箱が落ちた。その音に、真希は激しく肩を震わせ――叫び声を上げた。


「――やめてっ!!!来ないでっ!!!」


 花音と圭太が見たのは、真希がノートの上で何かと必死に戦っているような姿だった。誰もいない空間に向かって手を振り回し、机を叩き、そして――自分の爪で腕を引っかいた。


「先生呼んでくる!」


 圭太が駆け出す。花音は震えながら真希の肩を掴んだ。


「真希! 大丈夫!? やめよう、もう終わりにしようよ!」


 だが、真希は何かを見ていた。彼女にしか見えないものを。


「見えるの……エンジェル様……すごく、綺麗……」


 花音が目をそらした一瞬の隙に、真希は指で「さようなら」に触れた。すると――全ての動きが止まった。


 照明は元に戻り、風も音も静まった。ただ、真希の顔からは表情が消えていた。


「……真希?」


 真希はゆっくりと顔を上げる。瞳は空っぽで、口元には小さな笑みが浮かんでいた。


「……エンジェル様は、わたしの中にいるの」


 




 それからというもの、前田真希はほぼ毎日のように、放課後の教室に残っては「エンジェル様」を行うようになった。


 最初の交霊術の騒動のあと、クラスでは奇妙な噂が立った。


「前田、なんかやばくね?」


「マジで憑かれてんじゃない?」


「教室で一人でブツブツ言ってた」


 担任の先生は、真希に軽く注意をしたものの、それ以上踏み込むことはなかった。なにより、真希の成績は悪くなく、規律違反をしたわけでもない。だが、真希の中では確実に何かが「変わって」いた。


 最初に離れたのは、永井花音だった。


 花音はあの一件以降、真希との距離を取るようになった。声をかけても返事は曖昧で、目を合わせようともしない。


「……エンジェル様、信じてくれなかった」


 真希は、いつものようにノートを開いて、羽のマークに指を乗せた。誰もいない教室。夕暮れの斜陽が黒板を赤く染めている。


「エンジェル様……花音ちゃんは、わたしから離れていきました。……どうすれば、いい?」


 鉛筆がゆっくりと動く。


 こ-ろ-し-て-し-ま-え


 「え……?」


 真希は、首をかしげた。エンジェル様がそんな指示をするなんて――。でも、なぜだか不思議な納得があった。「そうだよね。あの子がいなくなれば、また静かになる」


 翌日、花音は階段から落ちて腕を骨折した。誰も見ていなかったが、「誰かに押された」と訴えていた。


 そして、その日を境に花音は登校してこなくなった。






 次に誘ったのは、図書委員の岡部凛だった。真希は彼女にもエンジェル様を紹介した。


「……願いが叶うんだって。誰にも言えないこと、ここでなら話しても許されるから」


 凛は最初こそ戸惑っていたが、「少しだけなら」と指を乗せた。


「……わたし、親が離婚するかもしれないの。どっちについていくか決めろって言われて……エンジェル様、どうすればいいですか……?」


 鉛筆は激しく揺れた。


 あ-な-た-の-せ-い


 「あなたのせい」と文字が浮かぶように現れた。


 凛は蒼白になり、机から手を離して叫んだ。


「そんなはずない! なんで!? 違う! 違う!!」


 それきり、凛は真希の前に姿を見せなかった。図書室にも来なくなった。学校も、休みがちになった。






 三人目は、圭太だった。


 あの最初の交霊術以来、圭太は真希を避けるようにしていたが、放課後の下駄箱でばったり会ったとき、彼は逃げなかった。


「……また、やってんの?」


「うん。エンジェル様、毎日来てくれるんだよ」


「……やめたほうがいいって。あれ、お前を壊してる」


 真希は笑った。


「壊れてなんか、ないよ。エンジェル様は、わたしの味方だもん」


「……じゃあ、俺も連れてってくれよ。今度、やるとき」


 それが、最後だった。


 教室で再び三人でやったときと同じように、真希と圭太は指を乗せた。


「エンジェル様、圭太くんを連れて行ってもいいですか?」


 鉛筆は、はいに進んだ。


「えっ、なにそれ、やめ――」


 教室の電気がバチッと切れた。窓の外はもう夜。風もないのに、黒板がギィ……と鳴る。


 圭太の目が見開かれ、彼の口が声にならない悲鳴を上げる。


 次の瞬間、彼は叫びながら逃げ出した。


 「うわああああああっっっ!! なにか見えた!! あれ、あれは人間じゃねえ!!」


 廊下を駆け抜ける彼の背中を、真希はただ見送った。指先には、まだぬくもりが残っていた。




 


 それから、誰も真希に話しかけなくなった。




 昼休みも、誰も隣に座らない。授業中も、誰も目を合わせようとしない。




 ノートには、びっしりとエンジェル様との会話が綴られていった。




 わたしだけがあなたを見ているよ


 ともだちは要らない。わたしがいればいい


 さびしいときは、いつでも呼んで


 あなたは特別な存在。選ばれた子




 真希の髪はぼさぼさになり、制服のボタンは曲がっていた。頬はこけ、目には生気がなく、ただ、笑っていた。




 誰にも、彼女が話しかけられない。




 誰も、彼女の隣に座らない。




 誰も、彼女のノートを覗こうとしない。




 ノートの最後のページには、こう書かれていた。




 「この世界で、わたしを必要としてくれるのは――」




 「エンジェル様だけ」









 あっという間に中学二年生の夏休みが終わった。


 まだ通常の生活リズムに戻らないまま、拳太郎の体は倦怠感を引きずりつつ新学期の学校生活が始まった。


 教室では夏休みに海へ行ったとか山でキャンプをしたなどの話題の他に、夏休みの宿題は終わったかどうかなど友人たちと話で盛り上がっていた。


 夏休み明けで生徒たちの緊張感のない雰囲気を感じた担任の奥村先生は、大人の女性としてはやや低い声で一つの提案をしたのである。それは、心機一転ということで二学期に入って直ぐに教室内の席替えを行うというものであった。


 席替えの方法としては黒板に教室内の座席配置を描き、そこに順不同に数字を割り当てくじ引きで席を決めるというものであった。


 それから教卓の上に広げられた四つ折りの小さな紙をくじ引きで、窓側の席の人から順番で生徒たちは引くことになる。引き当てた数字が新しい座席になるというもので、公平的なやり方で進められたのだった。各々がくじを引き終わると喜ぶ者もいれば落胆する者もいた。


 そして、全員がくじを引き終わると、己の荷物を抱えて新しく決まった席へと席替えを開始しましたのだった。


 拳太郎は教室の後ろの位置に当たる新しい席に着くと、一番後ろの席には前田真希という名の暗い性格の女子が席に着いた。


 前田真希には教室に友達もいなかったため、いつも一人で学習ノートに何かを黙々と書いているといった印象しかなかった。それに、クラスメイトの誰一人として、前田真希のその行動についてそれ以上詮索もしなかったし興味も持たなかったのである。


 誰も前田真希に対して関心がなかったというか、同じ空間に存在しているのかさえ気にならないほど空気みたいな透明人間のような存在であったことは確かである。


 誰もが、前田が一人で毎日のように学習ノートに向かっている姿を視界の隅にとらえても、宿題をしているとか漫画の絵でも描いているのではと勝手に都合よく解釈して決して確かめることもしなかった。


 そんなある日の授業中、担任の奥村先生が生徒に国語の教材プリント用紙を配り始めた。前の席から後ろの席へと配布さられたプリントを拳太郎は前田に渡した時、彼女のそのノートが視界に入った。


 そのノートは見開きで使われており、そこには平仮名や片仮名が語音順に記載されていた。


「それ何?」


 拳太郎は好奇心からついそのノートについて訪ねてしまった。


「笹本君……これは……エンジェル様」


「何それ!?」


 前田の聞き取りずらいボソボソとした小さな声から聞こえた”エンジェル様”という初めて耳にする不可解な単語なるものが何なのか、更に好奇心が駆り立てられた。


 前田は恐縮したようにエンジェル様がお告げをしてくれるのだと話してくれた。


 自分を守護してくれる守護天使又は守護霊と呼ばれる霊的な存在がその場に降霊し、交霊術の手段として用いられる交応盤に守護霊なる目に見えない霊的な存在が、その言葉をプランシェットを使って示してくれるというものであった。


 拳太郎は半信半疑であったが、母親から以前、小学生の頃にコックリさんという交霊術の話を聞いたことがあったため、それと同様のものなのではないかと勝手に思ったのだ。


 だが、実際にコックリさんをやったこともなければその儀式を心霊番組や怪談の本でしか見たこともなかった。


 ましてや、コックリさんの儀式の正式なやり方すら知らないため、前田のエンジェル様が名前こそ違うがコックリさんなのだろうと勝手に結論づけた。


 そんな拳太郎と前田の会話を盗み聞きしていた周りの女子たちは、授業と次の授業の合間にある短い休憩時間になると前田の周り群がりはじめた。前田真希のエンジェル様という言葉に対し、興味本意で近づく者もいれば半信半疑で近づく者もいた。教室の中は、遠目でその光景を見て馬鹿にしている者や関心がない者と様々であった。


 前田は今まで誰からも相手にされず声もかけてもらえなかった存在だったが、今この瞬間は教室の中で一番注目されている存在となっていたのだ。


 女子たちはしきりに前田にお告げとも占いともとれるエンジェル様という霊的な何かを実践して欲しいとおねだりした。休憩時間が短いため一人だけならと引き受けた前田はノートに手書きの交応盤に向かって意識を集中させていた。


「エンジェル様。 エンジェル様。 今ここにいらっしゃいますか?」


 前田は文字盤を見つめながらそう呟いた。


 前田の手に握られているプランシェットの代用品として鉛筆が”はい”という単語に向かって移動して示した。それを見ていた周りの女子たちからは黄色い声が飛んだ。


 星川舞子は前田に一番最初に占って欲しい内容を告げていた。それは、星川が好意を抱いてる男子は何処にいますかという内容である。星川の女子友達はそれがこの教室に居ないことを知っていた。


 ペテン師のインチキ占いなら無難な答えとして”この教室にいます”と答えるだろうと、星川は意地悪な質問をしたのだ。


 前田の手に握られている鉛筆は平仮名を一文字ずつ示し始めた。


「と」


 前田はか細い小さな声で読み上げた。


 前田の手に握られている鉛筆はノートの上に記されている平仮名や片仮名の文字を次々と示していきやがてそれは止まった。その間、教室内の生徒たちは前田の姿に釘付けであり、一秒さえも永遠に感じる程の緊張感が満ち満ちていた。


「となりのクラスにいる」


 そう前田が答えた時に星川を含めた女子たちは半信半疑という感情から驚愕の表情へと変貌し、彼女たちはあきらかに動揺していた。


 そして、授業が始まるチャイムの音で前田を取り囲んでいた女子たちは一斉にその場を立ち去った。その光景は猫の集会が終わって解散するように見えて滑稽であった。


 授業中でも前田はあのノートに夢中であった。まるで恋人であるかのように大切にノートを扱っていた。


 授業が終わり給食を食べ終え、昼休みになると再び前田の周りに女子たちが集まりだした。


 拳太郎も見物人の一人として前田が行う交霊術を見ていた。女子たちは我先にと言わんばかりに前田に未知なる占いをこぞってせがんだ。


 前田は次々とそれに対応しては、女子たちは喜びの声をあげている。前回のテストの点数を質問しては、前田が答えた数字が当たっていると喜び、明日の天気を聞いたりと本当に正解しているのかさえ疑わしいものばかりでだった。


 拳太郎はその光景を見ていて女子たちが前田をかついでいるようしか見えなかった。テストの点数は本人しか分からないことだし、片想いや両想いかなどはどちらでも関係ない質問である。好きな色や食べ物などは間違っていても前田の答えた答えに対して当たっていると言っているようにも受け取れた。


 そんなことが数日の間続くと、拳太郎がいる教室には知らない顔の生徒たちまで集まるようになっていた。


 隣のクラスの同級生から他階の上級生のクラスの生徒まで前田のエンジェル様がよく当たるという噂を聞き付けて、多くの野次馬が集まるようになっていた。教室に集まり過ぎて教室内には収容しきれず、廊下にまで列ができるほどであった。


 誰からも相手にもされなかった前田が、今では有名人さながらに学校内で最も知られる存在となっていた。


 あまりに毎日繰り返しエンジェル様という交霊術を行っているために、ただでさえ華奢な体格の前田は益々窶れていき顔にも疲労が表れていた。


「何か体調悪そうだよ。もうエンジェル様するのはやめたら?」


 ある日、拳太郎がそんな前田を心配してそう言った。


「やめられない……皆がして欲しいって言うから……」


「断ればいいよ」


 拳太郎はそう提案した。


「そんなことはできない……」


 そう言った前田の眼は虚ろで、何か悪しき存在に操られているとか憑依されているのではないかとさえ思えたのだった。


 前田はその後も益々エンジェル様にのめり込み続け、授業中もずっと交霊術を一人で続けていた。何をエンジェル様に訪ねているのかも分からないが、拳太郎を含めて周りの生徒たちもその前田の姿に次第に嫌悪感しか感じなかったのだ。


 エンジェル様による交応盤を用いた交霊術にも飽き始めた女子たちは前田に他のことは出来ないのかと持ち掛けた。


 同じ交霊術でも自分の体にエンジェル様の霊を直接降臨させたものがあると前田は言った。


 エンジェル様を自身の体に降霊させるのはとても危険なのだと最初は躊躇しがちに断っていたが、周りの女子たちに半ば強引に押し切られる形でエンジェル様の霊体の降霊を始めた。


 拳太郎はそれを近くで見ていたが、前田に何かが憑依する瞬間も分からなかった。


 瞼を固く閉ざしたまま、前田はノートに鉛筆で円が連なった螺旋を描き始めた。初めて見る不思議な光景に皆が固唾を飲んで前田のその姿を見守っていた。


 円を描く筆圧が徐々にではあるが高くなり始めた。前田は体を前後左右に揺らしながら如何にも異常な光景である。


 ノートに円が描かれ続けていくたびに、何か教室内には異様な雰囲気が充満して、息苦しさえ感じるほどである。


 そして遂にノートに描かれた文字は蚯蚓が這ったようなものであった。


「やめろ」


 そこにはそう記されており、握られている鉛筆が前田の手の内で真ん中からへし折れた。


 そして、椅子の背もたれに寄りかかりながら白目を向いて天井を見つめた状態で口から泡を噴いている前田は意識を失っていた。


 女子の一人が震える手で、前田の肩を恐る恐る触れてから声をかけた。


「前田さん……」


 教室の後ろにあるフックにかけてあった生徒たちの上着や荷物が一斉に床の上に落下した。


 そして、網に入れて吊るされていたサッカーボールがゆっくりと転がりながら、開けられていた教室の後ろ扉から廊下へと出て行ったのだ。


 その光景に教室の誰もが凍りつき身動きすることさえできずに見入っていた。


 暫くすると担任の奥村先生がサッカーボールを抱えながらやって来た。


 女性教員は教室のただならぬ雰囲気を察した。


 いつもと違う険しい表情から、何が起きているのか必死に理解しようとしているようであった。


 教室の中では怖い体験をしたために泣いている女子生徒もいた。


 奥村先生はぐったりとして白目で天井を見つめ、口からブクブクと泡を噴いている前田の姿を確認すると、傍らまで近づき前田の名前を呼んだ。


 呼吸をしているが意識がないと判断し、奥村先生は拳太郎に隣のクラスへ行き男性教員を呼んでくるように言った。


 星川には保健室へ行って、保健室の先生に救急車呼んでくるように頼んだ。


 拳太郎も星川も急いで教室から駆け出した。


 拳太郎は全身から力が抜け出てしまったかのように脚の感覚がなかった。


 この後、前田は救急車で搬送されたのだった。


 次の日、前田の姿は教室にはなかった。


 三日後、前田は登校した。


 意識を失ったのは発作だと診断され暫く安静にしていたのだ。


 その日から前田の周りに集まる女子は激減していた。


 異質な存在を見る目が前田に向けられているのが、私にも感じられた。


 いまだに前田の元に集まる女子生徒は前田を本物の占い師か預言者又は守護天使の代理人のように接して信者のように振る舞っていた。ある女子生徒は前田のようになりたいとエンジェル様との交信の仕方を教わっていた。


 ある日の放課後、男子生徒がコックリさんとの交信のやり方を図書館の本で見つけてきた。


 男子生徒二人で十円硬貨に触れながら数字や平仮名や片仮名など語音が書かれた紙の上で儀式を始めようとしていた。


 それを見物人する拳太郎も含めてその場には三人であった。


 入谷と田口の二人はコックリさんとの交信も初めてであり何だかぎこちなかった。流石に見ている拳太郎にもこれは何も起こらないと思えた。


「コックリさん。 誰か死にますか?」


 入谷がふざけてそう質問した。


 すると、入谷と田口の指先にある硬貨がゆっくりと動き出した。


「ち」


 最初の文字を示した。


 入谷と田口はお互いにお前が動かしているんだろうと言い合っていると再び硬貨動き出した次々と文字を示している。


「ちだひろえしぬ」


 ”ちだひろえ”とは上級生でこの中学校の生徒会長と同じ名前だったのだ。そう文字が示されると二人は慌てて硬貨から指を離してしまった。各々が明らかに取り乱していた。悪い事をして罪悪感を感じているというよりは何か得体の知れぬ恐怖を目の当たりにしたための畏怖が感情として押し寄せたのだ。そのため、コックリさんを儀式に従って帰すことも忘れて皆慌てて家へと帰ったのだ。


 コックリさんの儀式から一週間ほど経過した。


 朝、奥村先生からこの学校生徒が亡くなったため、朝はこの場で校長から放送で伝えられるお話と黙祷をした後、体育館へ集合することとなった。


 千田広恵が亡くなった原因は上級生にお姉さんがいるクラスメイトの女子生徒の話で分かった。


 学校から帰宅後、千田広恵は母親と近くの大型ショッピングモールへ出掛けた。千田は母親と近所の女性が井戸端会議をしている間、疲れたと言って近くにあったベンチに腰掛けていたそうなのだ。母親が井戸端会議を終えて、ベンチで座りながら眠ってしまった娘に声をかけたら、亡くなっていたということであった。


 病院で死因を調べたり死亡解剖したが、何処にも異常がなかった。


 死因は原因不明の突然死とされた。


 拳太郎はあのコックリさんが原因なのではないかと一瞬脳裏を過ったが、あれは子供の遊びで現実に人が死ぬわけがないと恐怖心を抑えながら自分を納得させた。


 後日、入谷と田口にコックリさんのことを聞いたら儀式をしたことさえも覚えていないというのだ。


 あの時、周りにいた拳太郎以外はコックリさんをしたことさえ何故か忘れてしまっていた。最初は皆で自分の事をからかっているのかと思ったが、皆真顔で困惑していた。拳太郎だけが何故かおの記憶が残っている謎を知ることが恐ろしくて、自分自身でもいつの間にか記憶を心の奥底へと封印していた。


 前田は相変わらず降霊術の自動筆記を授業中に行っていた。この行為が自分自身の存在意義でもあるかのように、そこが自分の居場所なのだと前田はエンジェル様に執着していた。激しくノートに何かを書き綴る様子があまりにも異様であり、近寄りがたかった。


 奥村先生もそんな前田の行動に釘付けになっていた。


 次々とノートを捲っては何を書いているのか分からないが、前田自身が自分の行動を制御不能に陥っているようであった。


 教室中のクラスメイトの視線全てが前田真希に向けられている。


「止まってー!!」


 前田はそう叫びながらノートが裂ける程の筆圧で螺旋を繰り返し描き続けた。


 前田のノートがぼろ布のように変わり果て床に落ちると、今度は机の盤面に螺旋を描き続けた。


 ノートが落ちる音で奥村先生は我に返り前田の傍へ近づいて行くと、前田は白眼を向いて口から泡を泡を噴きながら椅子に座ったまま後ろ向きに倒れて動かなくなった。


 教室にいた女子生徒たち全員が一斉に悲鳴をあげたり泣き出した。


 隣のクラスで授業をしていた先生が慌てて拳太郎の教室に入ってきた。


 奥村先生も動揺して何をしていいのか分からなくなっていた。


 隣のクラスの男性教員は前田を抱き抱えて保健室へ行くと言って出て行った。


 皆に自習と告げて、奥村先生も後を追うように出ていくと暫くして副担任の年配の女性教員がやってきた。


 何も心配いらないと生徒たちを安心させたり、泣いている生徒や嘔吐してしまった生徒の対応をしていた。


 前田は救急車で搬送され一週間後に登校した。


 この事件は前田が発作を起こしたことと教室での出来事は集団ヒステリーで処理された。


 実際にあの場にいた者たちでなければ、あの異常な状況の本当の恐怖は理解できない。


 前田はこの事がきっかけで、彼女の周りには再び誰も近寄らなくなった。


 前田も親と先生からエンジェル様を今後決して行ってはいけないときつく注意されたそうである。


 そして、月日は流れ三年生になり受験勉強に追われる毎日を過ごした。あっという間に三月となりそれぞれの進路が決まった。拳太郎は中学校卒業式の後に校舎の廊下で前田真希とすれ違った。


「卒業だね。高校は何処へ?」


 拳太郎の問に前田真希は俯いたまま何も答えなかった。 


「エンジェル様は……もうしてないんだよね?」


 息をしていないのではないかと思うほど蝋人形の如くその場に微動打もせず立ち尽くしていた。


 だが、前田真希のその口唇が妖艶に微笑んでいる様にも見えた。それが彼女の姿を最後に見た記憶である。

 あれからかなりの年月が経過しているが、今でも時々ではあるが、前田真希と千田広恵の出来事を思い出すのである。それはとても遠く懐しいと呼べるほどの記憶でありながらも確かにそれは拳太郎の人生の一部となっている。それは余りにも切なく奇妙な記憶として深く刻まれているのである。


 中学生の頃に体験したこの出来事は本当にエンジェル様という何か得体の知れぬ存在がかかわっていたのだったのか、そしてもう一つの出来事はコックリさんが千田広恵の命を奪ったのではないのだろうかと二つの疑問を拭い去れない。


 それは未だにトラウマのようにいつまでも拳太郎に深い傷跡としてつきまとっているのだ。


 あの時、前田真希がノートに書いていた”やめろ”という文字は、エンジェル様からの警告などではなく、前田本人の”心の叫び”であったのではないかとさえ思えてならない。

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