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焦燥の濃度

作者: 北川 圭

#イントロダクション



葬式の日は朝から快晴だった。


良にとって教会でやる葬式なんて経験がなかった。もっともこんなに近しい人を亡くすことなど、もちろん初めてのことだった。


良は自分の着てきた制服の端をそっと引っぱった。グレーのブレザーにスラックス、腕には親がどこからか調達してきた黒い腕章。顔を上げて親族席に視線を送る。同じ高校だと一目でわかる同系色のプリーツスカートが、わずかな風に揺れている。


美奈子は憔悴しきった顔でうつむいていた。もう涙も出ないのだろうか、となりですすり泣く彼女の母親とは対照的に、膝の上のハンカチが所在なげに置かれている。


良はもう一度、花で飾られた遺影へと目を移した。



白い花々があふれんばかりにその笑顔を取り囲んでいた。達也が自慢の銀のアルトサックスをかまえ、にこやかに微笑んでいる。まだ若すぎる死を誰もが悼んだ。


「せっかく大学までやったのにねえ、ご両親が可哀想。じきに卒業だったのに」

「それがね、ブレーキの跡がなかったらしいよ」

「どういうこと?妹さんも事故車に同乗していたんでしょう?」


達也の両親の知人か、訳ありげにささやき合うのがいやでも耳に入る。聞きたくはなかった。今日は、今日だけは静かに達也を送り出したかった。



礼拝堂は高い窓から春めいた日差しを多く呼び込み、柔らかい光を浴びて輝いていた。読経の代わりか、牧師が聖書の一節を読み上げる。手元に小さな紙が配られる。賛美歌の歌詞が細かく書かれている。これを歌うのか。


音楽が好きだった達也のことだから、音に送られるのもいいのかもしれない。



良は、同じ楽器を演奏する仲間としての達也を思い出していた。自分より四つも上だがセッションのときは年など関係ない。背伸びして通った大学のジャズ研の部室で、お互い習ったばかりのアドリブソロを競い合う。正直言ってめちゃくちゃうまいほどではなかったけれど、小器用に何でもこなす達也は、卒業したらプロになるつもりだと笑いながら良に打ちあけたことがあった。


「いくつかのバンドに誘われてるんだ。これ一本で食って行くのは難しいかもしれないけど、やってみようと思ってさ」


半分冗談めかして達也は言った。プロに、その言葉の潔さにあこがれた。



なのに、卒業を待たずして達也は海に落ちた。


防波堤のガードレールを突き破り、彼の運転する車は海の底へと沈んだ。助手席にいた美奈子はなんとか自力で脱出することができたが、兄を助けることはできなかった。



賛美歌はなかなか始まらない。手持ち無沙汰の参列者たちの口にする無責任な噂が、さざ波のように拡がってゆく。声にならない声が良にまで届く。彼は思わず両手で耳をふさいだ。


ふと、聞き覚えのある音がその手のすき間から入り込んできた。



なんて場違いな、美しい音色。



良はあわてて顔を上げた。

祭壇の前で、一人の男が静かにブルースを奏でていた。無伴奏のアルトサックス。

初老と言ってもいい年代の彼は、背中を丸め、ごついその指でゆっくりとキーを操っていた。いかつい顔に細かいウェーブの髪。楽器を持っていなければどこかの中間管理職か、パチンコ屋にでもいそうなオヤジだ。


しかし、もの悲しいマイナーのブルースコードに合わせ、アドリブで美しい旋律を紡ぎ出す姿は、まるで外国の有名ミュージシャンのようだった。


パンチパーマのチャーリーパーカー。

時折ちりばめられる半音下がったブルーノートが心を揺さぶる。


事故の知らせを聞いたときよりも、穏やかに眠る達也の顔を見せられたときよりも、もっともっと悲しみが広がってきて、良は思わず涙を流した。





#1


「美奈子って、結構強いんだね」


教室の自席にカバンを置こうとした良に、麻美が声をかけた。美奈子の一番の親友を自認しているはずなのに今日はなぜか距離を置いているようで、良はそれを不思議に思った。


「大好きなお兄さん死んじゃったばっかなのに、もう笑ってるよ」

「別にいつまでも泣いてないからって、悲しんでない訳じゃないだろ」

「そうだけど」


麻美はどこか不満げに、美奈子へと視線を送った。良も彼女の方へ目をやる。



美奈子はグレーのジャケットから真っ白いシフォンスカーフをひらめかせて、クラスの他の友達と何やら楽しげに笑い合っていた。葬式の日からまだ一週間、他人の良の方がとても笑える精神状態にはなかった。



「美奈子もね、警察にずいぶん訊かれたんだって。ほら、お兄さん、自殺したかもしれないって言われてるんでしょ?」

「もういいよ、その話は。聞きたくないね」


きっぱりと麻美の言葉をさえぎる。でもね、食い下がる麻美に手を振って止めさせようとした。


「何よ、それでも美奈子の彼氏なの?あの子のことが心配じゃないの?」



あれから、事故から一度も美奈子と二人だけで会うことはなかった。

知らせを聞いて駆けつけても、彼女は多くの人に囲まれ、守られていた。

血縁という守りの元では、おない年の彼氏など何の役にも立たなかった。


そもそも同じアルトサックスを吹くからと達也を紹介してもらったときは、美奈子とはただのクラスメートという認識しかなかった。


他校の生徒らとバンドを組んでジャズの真似事をしていた良は、それから達也の通う大学にちょくちょく顔を出すようになった。自然に彼女と一緒にいる時間も増えた。


美奈子はいつも、年かさの友人らに囲まれ、ちょっと大人びた表情で音楽を聴いていた。肩までの髪を後ろに流しかき上げる仕草とグレーの制服が妙にかみ合わなくて、良はそのたびにどきどきした。


暗がりのステージに達也が立つ。タバコと酒と、そんなものが似合うライブハウスの客席で、制服姿の美奈子と良は、まるで共犯者にでもなったかのように手をにぎり合った。

スポットライトを浴びた演奏者を見るふりをしてそっと美奈子の横顔を盗み見る。


彼女はいつだって、真剣な目で自分の兄の姿だけを追い続けていた。




教会での葬儀のあと、美奈子の家族と良は、事故現場の防波堤へと向かった。


すぐ近くに歩行者用の大きな連絡橋がある。そこから美奈子は、海面に向かって白いグラデーションで彩られた花束を投げ入れた。


唇を固く結び、こわばった顔で、彼女は何も言わずに水面にできた同心円を見つめていた。泣き叫ぶよりずっと深い悲しみが伝わってくるようで、余計それが辛かった。


悲しまないはずがない。あんなに仲の良かった兄妹なのだから。

でもそれを、他の人間にうまく説明できる自信は良にはなかった。だからきっと、麻美にはわかるまい。

黙ってしまった良に、麻美はため息をつきながらこう続けた。


「お兄さんね、彼女がいたんだって。でも美奈子が、あの子のせいで別れたって。お葬式にも来てなかったでしょ。美奈子が絶対に呼ばないでって言ったらしいよ」

「何だよ、それ。何でおまえがそんなこと知ってんだよ」


「だって美奈子が、そう言ってた」


麻美が口ごもる。言ってはいけない、でも言わずにはいられない。人は重たい打ちあけ話を自分の胸だけにはしまってはおけない。吐き出して楽になりたいのだ。


「自殺の原因、何だったんだろうね」

「知らないよ、そんなの。知りたくもないし、第一あれは事故だったんだ」


大声を出したつもりはなかった。でも、美奈子に聞かれてしまったのではとの思いから、良はあわてて彼女から顔を背けた。



予鈴が鳴る。



鉛を飲み込んだような、どんよりとした一日が始まろうとしていた。




#2


「ただでやってやるよ、香典代だ」


そう言って松清はひげだらけの口元をゆがめた。品定めするかのように楽器本体をなで回す。

わずか八畳足らずの楽器工房に、所狭しと工具がひしめいている。一応それらは種類別に分類されてはいたが、数が多すぎてとても棚には収まりきれていなかった。


良は達也の両親から譲り受けた銀のアルトサックスを、この松清の工房に持ち込んだ。


大事な形見だからとても受け取れないと頑なに拒否する良に、見るのも辛いから、と母親は涙ぐんだ。



生前達也が何よりも大事にしていたアメリカンセルマーのヴィンテージサックスは、一度車と共に海の底へと沈んだ。水圧でケースは壊れ、中の楽器にも損害を与えていた。

達也と一緒に埋葬しようかという話も出たが、美奈子が反対したらしい。それは遺影の前に飾られ、達也の部屋に置かれ、めぐって良の元へとたどり着いた。



「ベルのへこみにタンポ交換、状態としてはそんなに悪くない。中古品の中にゃもっとひでえもんもいくらでもあるからな」

「海水に浸かったんだ。もう使えないかと思ってた」

「大事に使やあ、あと何十年も持つよ。達也の形見、か」


ネックのコルクも取り替えなきゃな、松清はつぶやいた。あとは無言で作業に取りかかってしまった。


職人気質の彼は、街中から外れた一軒家の片隅でリペアと弦楽器製作の仕事をしている。

客なんかいるのかと最初は心配したが、口コミでそれなりに忙しいらしい。 


彼を紹介してくれたのも達也だった。


いくつもの金槌を使い分けながら松清は、ゆがんでしまったベルをていねいに直してゆく。良はその手つきをぼんやりと眺めていた。



よく達也が自慢げに見せてくれた銀メッキのアメセルは、開いた花が描かれたベルの彫刻がとても美しかった。音色の違いなんてとても良には聴き分けられなかったが、その辺で売っている量産品とは訳が違うよ、と達也は力説していた。


アメセルとは、フランスの楽器メーカーセルマー社が一時期アメリカで製造していたサックスのことだ。じきに製造中止になってしまったために希少価値があることと、何よりその熟練した職人の技と製造技術から独特の音色を持つようになったと言われ、特にポピュラーの世界で高く評価されている。

赤みがかった金色がほとんどで、達也の持つシルバープレートなど、普通はどこを探しても手に入れることはできない。

国産の量産品を楽器屋の店頭で買った良にしてみれば、それは高嶺の花というよりも、とても理解できる範囲を超えていた。いくらしたのか、訊いても達也は笑うばかりで答えてはくれなかった。


「ぼくに吹けるのかな、アメセルなんて」


誰に言うともなく良はつぶやいた。ただでさえ狭い工房に二人、息がつまる。松清は金槌を持つ手を止めて顔を上げた。


「良はなかなかうまいんだってな。達也がよく言ってたよ」

「そんなことないよ。達也さんみたいにプロに、って声がかかるなんてあり得ないし」


自嘲気味に良は返事をかえした。自分のことをうまいだなんて思っちゃいない。良ぐらい吹けるヤツはいくらでもいるし、うまいならとっくにプロへの足がかりを掴んでいることだろう。


だが良の何の気なしのそんな言葉に、松清は表情を険しくした。


「達也がプロ?何の冗談だ、それ」

「えっ?だって達也さん、いくつかのバンドに誘われてるって。卒業したら……」


仕事としてサックスを吹いていくとはっきり言ったのは彼だ。でもそれ以上の言葉が続けられずに良は黙った。松清は大きくため息をついた。


「あいつがどう思ってたかわからんが、そりゃ無理だ」

「どうして?だって達也さんあんなに上手だったじゃない」


「良、金さえ出しゃあ、誰にだってアメセルは買える。だけどな、吹きこなすのはまた別の話だ。身も蓋もねえ言い方だけどな」


金槌の柄をもてあそびながら松清は視線を落とした。しばらく二人とも無言だった。気を取り直して松清が再びベルへと向かう。良の方を向こうともせず、彼は吐き捨てるようにつぶやいた。



「しょせん、学生のミュージシャンごっこだったんだよ。あいつだけじゃない、おれだってかつてはそうだったさ」


良は驚いて松清を見つめた。しかし、彼が口を開くことはもうなかった。



ベルを叩く音だけが、狭い工房に響き渡っていた。

 



#3


その店は、一見ただの喫茶店にしか思えなかった。明るい日差しが入り込む大きな窓は通りに面していて、行き交う人々を映しだしていた。コーヒーのカップを前に、彼は静かに話し出した。


「私が達也くんにあきらめるように言ったんです。それが結果的に彼を追い詰めてしまったのかもしれませんね」


向かい側の席で、良は視線を落として手を握りしめた。名も知らぬスタンダードジャズが流れている店内には、良とその男の二人しか客がいなかった。マスターらしき人がカウンターにいるのがうかがえるが、こちらを向こうともせず、せっせとグラスを磨いている。



外回りの合間だと、彼は笑った。コンピュータ関係の営業をしていると言われ、それがちっとも違和感なく受け取れたのは、彼の風貌によるものが大きかったのかもしれない。あまりそう高くない背を丸め、チャコールグレーの背広にくたびれた革靴、いかつい顔に細かいパーマ。


達也の葬式で出会った彼は、杉崎と名乗った。


楽器を持っていなければただのオヤジ、良にとって一番縁遠いはずの人種。だがこの人は人の心を打つ演奏をする。それが葬儀の場であったからだけではない。良はあの日の彼のフレーズを思い出していた。



「達也さんはぼくに、プロになるって確かに言いました。教えてください。どうして達也さんじゃダメだったんですか」


学校を抜け出してこの店に来た。達也さんがよく通ったというジャズ喫茶は、昼間の光の下ではとても健全に見えた。

夜になればここも、タバコと酒と音楽にまみれるのだろうか。にわかには信じがたいことだった。


良の声に必死さを感じたのか、杉崎は優しく微笑みゆっくりうなずいた。すぐには答えない。良は顔を上げて杉崎をまっすぐ見つめた。


「君はそれを聞いてどうするんですか」

「ぼくは、ただ」


なぜステージの上の彼らはよくて達也がダメなのか知りたかった。達也と彼らと何が違うのか訊きたかった。同じ楽器を持ち、同じフレーズを吹く。達也がどうしてあのスポットライトを浴びることを許されないのか知りたかったのだ。



「君もプロとして演奏したい、そういう気持ちがあるということかな」


杉崎はあくまで穏やかに言った。その落ち着きが逆に良をいらだたせた。


「ぼくは自殺だなんて信じてません。あれは事故だったんです。銀のアメセルはぼくがもらいました。ぼくが、吹きます」


達也の意志を継いで自分が吹く。たとえそれが学生のただの遊びにすぎなくとも、がなり立てる自己満足のカラオケと同じレベルでも。



「達也くんに初めて会ったのはアラモードというライブハウスです。私はそこに月一で出演しているんですよ。

確かに彼は器用でした。学生にしたらうまい方だったと思います。これが私の若い頃のように、どこの店にも生バンドがいて人を探している状況なら、広い意味でのプロにはなれたでしょうね。

でも今はそんな時代じゃない。その場に居さえすれば音楽で食べていけるなんて、夢でしかない」


杉崎はそう言うとコーヒーを一口すすった。達也にもこうやって話したのだろうか。まるで死刑宣告を告げる裁判官のように。


「杉崎さんは、プロなんでしょう?」


あの日の音が耳にこびりついて離れない。借り物ではないフレイズ、即興で奏でられた美しい旋律。礼拝堂の白い空気に響き渡る、音。


「まさか。私はただの音楽愛好家です。若いときにはアルバイトでステージを手伝ったこともありましたが、それくらいなもんです」


良から視線を外して杉崎は言葉を続ける。目に浮かんだ自嘲気味の光が、良の心をちくりと刺した。



飢えている。自分も達也も、松清や、ここにいる杉崎でさえも。




良は固く目をつぶった。

 



#4


ソファベッドの上に並んで座る。美奈子の肩に手を回したとき、彼女は少しだけ身体を震わせた。

 

あれから毎日、教室で明るく振る舞う美奈子を見ていた。友人らと屈託なく笑い合い、昨日見たドラマの話で盛り上がる。そこに悲しみがないかのように。


美奈子は良と視線を合わせようともしなかった。声もかけない。電話にも出ない。まるで達也につながる一切を拒否しているみたいに、彼女は普通の日常を演じきろうとしていた。


だから良は、彼にしたらかなり強引に美奈子の腕を取って、この部屋に連れてくるしかなかった。



秘密の隠れ家のような達也の練習室。



敷地の一角に建てられたその部屋は防音になっていて、夜中でも楽器を吹くことができた。一つやるよ、ある日達也は笑いながら良に合い鍵を渡した。おまえはおれの、弟みたいなもんだから、と。



圧迫感のある部屋の壁には、古ぼけたポスターがはがれかかっている。ずっと前に死んだジャズの偉人たち。達也は彼らを見つめながら、どんな思いでサックスを吹いていたのだろう。



美奈子の制服のシフォンスカーフをゆっくりとはずす。ブラウスのボタンを上から一つずつあけてゆく。その白い肌がわずかに見えたとき、良はそこへそっと唇を押し当てた。



何度もくり返した秘密の儀式。



大人びた美奈子に自分の動揺を悟られまいと、わざと乱暴に抱きしめた初めての夜。


美奈子はいつだって逆らうこともせず、その頬に笑みを浮かべながら良を受け入れた。

なのに今日は頑なに身体をこわばらせ、美奈子は両手で良を押しやった。

何で?良が目で問う。泣きそうな顔をしていたのかもしれない。彼女の顔も辛そうにゆがんだ。


「ごめん、もう会わない。ここには来ないで。鍵も、返して」


良は何も言わずに美奈子を見た。取り壊すの、ここ。彼女はそう続けた。


「ぼくがいると達也さんを思い出すから?何だってそうやって忘れようとするんだ。大切なお兄さんだろ?」


銀のアルトも練習室もすべてなかったことにして、達也が音楽をやっていた事実すらも消してしまおうというのだろうか。そして、良自身も。

美奈子は良の目を見ることなくつぶやいた。音楽なんて大嫌い、と。




彼女を抱きしめるはずの良の腕は、行き場をなくしてとまどう。



背中を向けてボタンをはめる彼女を、良は言葉もなく見つめていた。

 




#5


リペアが済んだと連絡があったのは二週間後のことだった。良は一人、松清の工房を訪れた。

あれから美奈子とは何も話していない。彼女は相変わらず屈託のない笑顔を振りまいていたし、良は良で、言い様のしれない悲しみから抜け出すことができずにいた。



「これ」


松清が無造作に差し出したものは二つの封筒だった。とまどう良に彼は、開けてみろと目で促す。

水が染みたのかしわが寄っていて開けづらい。中からそっと薄っぺらい書類のようなものを取り出す。


「アメセルのケースのさ、奥に突っ込んであったよ。普通そんなとこまで見やしないよな」


松清が吐き捨てるようにつぶやく。




中に入っていたのは、内定通知書だった。達也の通っていた大学からすればかなり小規模な中堅企業。



『大学を卒業することを条件に貴殿を当社社員として採用することを正式に決定……』



達也には似合わない。いや、あまりに似合いすぎてやりきれない。


もう一通の封筒も開けてみる。こちらは横長のエアメール。アメリカにあるポピュラー音楽専門の音大の、英文で書かれた入学案内書だった。



良と松清は目を見合わせた。そして、どちらともなく視線をそらした。達也の飢えが渇きが直に伝わってくるような気がして、良はこらえきれずに目をつぶった。


二人とも無言だった。


狭い工房の四方の壁が迫ってくるような圧迫感を感じて、良は息苦しくなった。なのに何の言葉も浮かんでは来なかった。



ふいに携帯の着信音が鳴り響く。



相手指定の聞き覚えのある着メロは、美奈子のものだ。

あわてて飛びつくように携帯を開ける。だが、電話の向こうから聞こえてくるその声は彼女のものではなかった。


美奈子がいない。何も持たずに家を出たあと行方がわからない。


そう告げる彼女の家族の言葉に、良は楽器を持ったまま工房を飛び出した。





どこにいるか、あてはなかった。真っ先にここを思いついたのは、あの日の花束の眩しさが目に焼き付いていたから。


美奈子は防波堤近くの連絡橋に、身体を半分乗り出した格好で腰掛けていた。その下は深い海。おそらく自力では、もうはい上がれないだろう海。


良は彼女を刺激しないようにと、できるだけ静かに声をかけた。

美奈子がうつろな目で振り向く。そこにいつもの笑顔はなかった。


「降りといでよ、危ないよ。君が傷つけば達也さんが悲しむ。君の大好きな達也さんに心配かけたくないだろ?」


きっと見守っていてくれる、どこにいても。そんなありきたりな言葉しかかけられない自分が歯がゆくてイヤだった。


美奈子の上体がかしいだ。制服のリボンが風に揺れて、向こう側へと彼女を引っぱってしまうのではないかとはらはらした。思わず息を止めて彼女を見る。



「そうよ、大好きなお兄ちゃんよ。誰にも取られたくなかった。あたしだけを見ていて欲しかった」


美奈子は淡々と言葉を続ける。  


「あたしが、お兄ちゃんを殺した。あたしがあんなこと言ったから、お兄ちゃんは思い切りアクセル踏み込んで海へ。

怖かった、冷たかった。息ができなくて苦しくて、あたしは自分だけ浮かぼうとした。振り返ろうともしなかった。

きっとお兄ちゃんはあたしに一緒に行って欲しかったはずなのに、あたしは一人で助かろうとしたのよ」


「君が、助かってよかった」

「抱いてって言ったの、愛してって言ったの。妹なんかじゃなく!」



だから自分を受け入れたのか、達也の代わりにアルトサックスを持つ自分を。同じ音を奏でスポットライトを浴び、達也のように微笑む良を。



「音楽なんて大嫌い。そんなもののせいでお兄ちゃんは死んだのよ。

お兄ちゃんは音楽にとりつかれた。恐ろしい底なし沼に足を取られて、もがいてももがいても抜け出せなくて。

良も同じ。アルトサックスがあなたを連れて行ってしまう」


「ぼくは違う!」


「じゃあ捨てて!今すぐ楽器を手放して、もう二度と吹かないと約束して!」

「ぼくは……」


「できないでしょう?無理なんでしょ、できるわけない」

良はへこんだケースのふたをこじ開けた。水圧でひしゃげた金具が指にまとわりつく。中から楽器を取り出す。


美奈子はそれを黙って見つめている。


良はネックを手にした。そして金属部分をわずかにきしませながら本体に取り付けていった。右手の親指をフックに引っかけて持ち上げる。

首にしていたストラップに楽器を固定する。美奈子は何も言わない。良も無言だった。


マウスピースを口にくわえる。息をそっと楽器に注ぐ。



音が出ない。



どんなに力を入れて息を吹き込もうとも、何の反応もなかった。リペアは完璧に仕上がっているはずだ。松清渾身の完成品。良は唇を楽器からはずして、先端に目をやった。



リードが裂けていた。



マウスピースにしっかりと取り付けられていた植物の節は、端のところに縦に大きく裂け目が入っていた。音なんて出るわけがない。


良は笑い出した。おかしくて、それでも真剣に吹こうとしていた自分がとても間抜けで、笑いが止まらなかった。


そして、涙が出た。



良は楽器をストラップから乱暴にはずすと、右手でそれをつかんだ。腕を大きく振って、勢いをつけた。美奈子が息を飲む。




それにもかまわず、良は銀色に輝くアルトサックスを海に放り投げた。




よく磨かれたベルが光をはじき返して、まぶしい。きれいな放物線を描いて、楽器は水面へと吸い込まれていった。




もう一度戻れ、海の底へ。




おまえは、ここにいてはいけない。




沈んでゆく楽器を見送ってから、良は彼女へと手を差し伸べた。

ふるえるその手で美奈子の身体をしっかりと抱く。



ぼくたちは生きる。たとえどんなに飢えようとも。


日常がどれほど退屈で息苦しくても、そこに音楽がなかろうとも。


美奈子の頬に涙が流れる。良は彼女の顔を両手で包み込むと、唇を重ね合わせた。

 




焦燥の濃度、それはまるで海水のように喉を灼き。







          FIN <ご愛読ありがとうございました>


      北川圭 Copyright© 2009  keikitagawa All Rights Reserved



葬式のブルースは実話です。

この、切ないまでの焦燥感を感じ取っていただけたらと思います。

よろしくお願いいたします。

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