ただのEランク冒険者
謎の男が膝をついて立ち上がれないテネアを見下ろす位置までやってきた。
そして、彼は持っていた剣をナイフのサイズまで小さくし、自らの手の平に浅い傷を作った。
赤い血が滲み出て、テネアの肩の傷口に滴り落ちる。
テネアは一体彼が何をしているのかわからなかった。
肩の痛みが引き、その傷口無くなるのを見るまでは。
テネアは聞いたことがあった。
吸血鬼や人魚、ドラゴンなどの一部魔物の血には癒しの力があると。
この人は吸血鬼なのだろうか?
彼は何も言わずにテネアに背を向けて去ろうとしている。
テネアは手を伸ばした。
「待って――あなたは一体」
「全ては夜霧の中の幻だ」
彼の言葉に呼応するかのように霧が出てきた。
その霧はだんだんと濃くなっていき、男の姿を隠す。
一陣の風が吹き、その霧が晴れたとき男の姿も狼たちの死体も全てが消えていて、残ったのはテネアとダモンの二人だけだった。
本当に夜霧の中で幻を見ていたような気がする。
しかし、シルバーウルフのいた場所に落ちている鎧などの装備品の欠片――恐らく食べられたレギーの遺品だろう――と辺りに残っている血の跡が、今起こったことは現実なのだとテネアたちに思い知らせている。
「ダモンさん……英雄の亡霊ってなんですか?」
「……紅の英雄を知っているな?」
とダモンが重い口を開いて尋ねると、テネアは黙って頷いた。
かつて、この国を襲った災厄、《闇紅竜》。
その《闇紅竜》と戦い、倒したと言われるのが英雄ガウディルとその部下たちと言われている。
そして、ガウディルが《闇紅竜》と戦った地がこのトレシアの街だ。
いまから十年前の話だ。
「そのドラゴンが街に接近してきたとき、俺はまだ十にも満たないガキだった。その時、俺はドラゴン退治に向かう英雄一行を見送った。当然、英雄の――ガウディルの姿もこの目で見ている」
「はぁ……」
テネアには話が見えてこなかった。
彼は一体何を言おうとしているのだろうか? と思っていると、
「あの男は十年前に俺が見た英雄そのままの姿だ」
「待ってください! 彼は――ガウディルは十年前の戦いで」
「《闇紅竜》との戦いで死んだはずでは――」
「ああ。それは彼の部下が確認している。英雄は死んだ。でも、英雄の死後、彼はたびたび街の周辺に現れてはその姿を目撃されている。だから、彼はこう呼ばれている」
英雄の亡霊と。
本来ならばただの噂話だ、英雄のいた街だからこそ、英雄はまだ生きていると願う人々が見出した幻想だとテネアは一笑に付しただろう。
だが、先ほど現れた男の強さは、まさに英雄と呼ぶに相応しい、いや、それ以上の強さであるとテネアは思った。
テネアたちが無事にトレシアの街に戻ったときには、西門はシルバーウルフを迎え撃つためか物々しい雰囲気だった。
しかし、テネアとダモンが森の中で起こった出来事を説明すると、部隊は一部を残して解散。元通りとまではいかないが、警備がかなり緩くなった。
テネアにとっては未だに夢と現実の狭間の出来事のように思える一連の事件は、この街では現実として受け止められているようだ。
テネアとダモンは冒険者ギルドに戻り、ギルドマスターのレミリィから個別に事情聴取を受けた。
「事情はわかった。今日はもう帰っていい」
そう言われ、テネアは帰ろうとしたが、振り返って尋ねる。
「ギルドマスター。あなたは英雄ガウディルの仲間だったと聞いています。教えてください、英雄ガウディルは本当は生きて――」
「彼は死んだ」
彼女の言葉を最後まで聞かずにレミリィは否定した。
「帰っていい」
そう言われ、テネアは頭を下げ部屋を出た。
冒険者ギルドを出る前に、ダモンとグレアムと会い、彼らから改めて礼を言われた。
彼らはもう冒険者を引退するようだ。
元々レギーに誘われて冒険者になったそうで、彼が死んだ今、冒険者を続ける理由もないから暫くこの街でお金を稼いでから田舎に帰るらしい。
テネアは「そうですか……」と小さく相槌を打ち、会釈して冒険者ギルドを出た。
そして一人、宿に向かう途中、広場に向かった。
そこには英雄ガウディルを奉る銅像が建てられている。
教会と王家によって作られたという銅像。しかし、その評判は彼をよく知る人程良くない。
曰く、全然似ていないというのだ。
「全然似ていない」
テネアが出会った彼はもう少し背は低かったし、子どもっぽい顔をしていた。
それでも、テネアはに問いかけるようにその銅像を見詰める。
(あなたは本当に死んだの?)
答えはない。
代わりに――
「テネアさん」
振り返ると、そこにラークがいた。
随分と走ったのだろう。
狼から逃げていた時のテネアほどではないが、息が切れている。
「ラークさん」
「よかった、無事だったんだ。森に行ったって聞いて心配してたんだ」
ラークは息を整えながら、テネアに笑いかけた。
テネアは恥ずかしくなる。
散々偉そうなことを言っておきながら、結局何もできなかったことに。
「あの、ラークさん、偉そうなこと言ってすみませんでした」
「……? なんのこと?」
ラークはとぼけているのではなく、本当に何のことかわからないように首を傾げ、そしてポケットからそれを取り出す。
「これ、テネアさんに」
「え? お金……ですか?」
ラークが渡してきたのは一枚の100ミル大銅貨だった。
「うん。冒険者ギルドで新人冒険者と一緒に研修依頼を受けた冒険者は、後輩に報酬の一部を渡すしきたりみたいなのがあるんだよ。お守り代わりと持っておく人もいるし、初めての仕事終わりで直ぐに使っちゃう人もいる。どっちでも好きな方に使ってよ」
「ありがとう……ございます」
テネアはその大銅貨を胸に当てる。
いま生きている奇跡と、そしてこのお金の重さを噛みしめるかのように。
「ラークさん。私、冒険者を続けます」
「そうなんだ。頑張ってね」
「はい! そしていつかあの人みたいに」
テネアはそう言って銅像を見上げて、「やっぱり似てない」と微笑んだ。
※ ※ ※
そして、テネアが去ったあと、ラークは英雄の銅像を見上げて、
「どうしたの?」
背後にいたレミリィに声をかけた。
意趣返しとばかりに隠形で気配を消す彼女に。
彼女は気付かれても驚くことなく、ここに来た理由を説明する。
「ガウディル様からも事情を聴きたいのですけど」
「テネアから聞いたでしょ? その通りだよ」
「シルバーウルフの死体はどうなさったのです? 無くなっていたそうですが」
「キアナに売るよ。前から頼まれていたから」
「また彼女にですか……」
「彼女にはいろいろと迷惑をかけたからね」
ラークとレミリィが小声で言う。
近くにいる人ですから、彼らの会話はわからない。
それどころか、会話していることすらわからないだろう。
そもそも、二人とも気配が希薄になりすぎて、存在を認識しているかどうかも疑わしい状態だ。
「じゃ、行くよ」
「はい。お疲れ様でした、ガウディル様」
「何度も言ってるけど、今の僕はもう英雄ガウディルじゃないよ。ただのEランク冒険者のラークだからね」
ラークはそう言うと、最後まで振り向くことなく夜の街へと消えていった。
そんな彼に、レミリィは深く頭を下げるのだった。