渋谷駅のはさみ男
■渋谷駅の夕暮れ
地下鉄渋谷駅の夕暮れは、日が沈んでもその活気を一向に失わない。駅のプラットフォームは、毎分毎秒のように新しい人々で埋め尽くされている。多様な顔、多様な目的、多様な運命が交差するこの場所は、まさに東京の縮図だ。サラリーマン、学生、観光客、さらには地元の人々までが織り成す、目もくらむような活気が広がっている。
スマートフォンを片手に話しながら歩く人々、売店でお茶や雑誌を買う人々。時折漂う匂いは、ファーストフード、香水、そして東京特有の複雑な香りが交じり合う。この空間は独特のエネルギーに満ち、そこにいるとどこかハイになるような感覚すら覚える。
その一角で、大学から帰る途中の美咲も、エスカレーターに乗りながらこの独特の雰囲気に身を委ねていた。長い一日で体は重いが、この活気に少し元気をもらいながら、彼女は女子トイレへ向かった。トイレでは顔を洗い、鏡の前で自分の顔をじっと見つめる。目の下には少し暗いクマ、乾燥した唇が目立つ。しかし全体的には、まだ頑張れる、と自分にエールを送り、トイレを後にした。
だがその瞬間、何かがおかしいと感じた。いつもならこの時間、通路は人で溢れ、子供たちの笑い声やカップルの甘い会話、老夫婦の穏やかなやり取りなどが聞こえるはずなのに、今は何も聞こえない。ただ、エスカレーターや電光掲示板、券売機などの機械は通常通り動いているが、その周囲には人影がない。そこにいるはずの人々が、まるで消えてしまったかのようだった。
エスカレーターが「ガコガコ」と音を立てて動いているのに、その上に乗る人はいない。電光掲示板は次の電車の時刻を表示しているのに、その情報を必要とする人もいない。券売機はメロディーを鳴らしながら切符を吐き出しているが、取る手がない。すべてが正常に動作しているのに、その動きを観察する者がいないという、不気味な光景が広がっていた。
■不気味な静寂
機械の作動音だけが、静寂の中で妙に響き、その不気味さを一層際立たせている。エスカレーターの単調な運転音、券売機のメロディー、その他様々な機械が発する電子音。普段なら都市生活の一部として何気なく受け入れられるそれらの音が、今、この瞬間では異次元の恐ろしさを伴い、美咲の耳に不気味に響いていた。
空間は静まり返り、彼女は自分の心臓の音が聞こえるほどだった。「これは一体…?」と心の中で何度も問いかけるが、答えてくれる人はどこにもいない。孤独と不安が彼女の心を覆い、エスカレーターの金属音だけが冷たく耳に残る。
美咲は階段を駆け下り、プラットフォームに辿り着くと、そこにも人影はなく、異様な雰囲気が漂っていた。電光掲示板が電車の到着を告げているが、誰もその情報を確認する者がいない。この異常な状況に対する説明が見当たらず、それがさらに恐怖を煽っていた。
そのとき、プラットフォームの暗い片隅で、何かがゆっくりと動き出した。その動きは極端にゆっくりで、その異常なまでのゆっくりさが、逆に美咲の心拍を速めた。何かが現れた瞬間、それを認識するより早く、本能的に恐怖が走った。
現れたその存在、まるでゲームのキャラクター「シザーマン」のような姿の生物は、灰色の皮膚を持ち、顔はほとんど人間ではない。歪んだ笑みを浮かべた口元と、赤く輝く目が暗闇の中で浮かび上がっている。そしてその手には、大きな鋏が握られており、時折「ギィ…ギィ…」と開閉する音が響き渡る。その音は、すでに異様なこの場所をさらに不気味なものに変えていた。
シザーマンはひどくゆっくりと、しかし着実に美咲に近づいてきた。彼の足音はほとんど聞こえないが、その鋏の音だけがはっきりと響いていた。美咲はその音を聞きながら、最後の瞬間に何をすべきかを考えようとしたが、恐怖で体が凍りつき、思考も停止してしまった。
その瞬間、シザーマンの鋏が開き、閉じる音が鳴り響き、美咲の世界は暗闇に包まれていった。意識が遠のく最後の瞬間まで、機械類の音が耳に残り、その不気味さは最後まで彼女を追い詰めた。そして、美咲の意識は闇に飲み込まれていった。
どれくらい時間が経ったのか、美咲が目を開けると、見慣れた渋谷駅のプラットフォームが広がっていた。人々が行き交い、エスカレーターは上下に人を運んでいる。掲示板には次の電車の時刻が表示され、アナウンスが流れている。しかし、すべてが以前とは異なって見えた。まるで、自分が知らない場所に立っているかのような感覚に囚われた。
「こんなにも普通の場所が、こんなにも違って見えるなんて…」美咲は自分に言い聞かせるように呟いた。
■謎の写真
心臓はまだ高鳴り、深い恐怖と安堵が入り混じる中で、美咲はその場を後にしようとした。しかし、その瞬間、足元に何かが転がっているのに気づいた。
「何これ…?」美咲は小さく呟きながら、それを拾い上げる。
それは一枚の古い写真だった。そこには美咲自身が写っていたが、その背後には不気味な影が立っている。その影は、さっきまで彼女が見たシザーマンによく似ていた。撮った覚えのない写真を手に取り、美咲は再び身の毛がよだつ恐怖に襲われた。
「これは…いつの間に?」美咲の顔は青ざめていた。
現実の世界と、さっきの異次元。どちらが本物なのか、美咲自身がもはや区別できなくなっていた。だが、一つだけはっきりしているのは、何かが彼女に警告を送っている、ということだった。
「警告…?一体、何が起きているの?」美咲は独り言のように呟いた。
美咲はその写真を急いでポケットにしまい、プラットフォームを後にした。しかし、その心には、あの出来事がただの幻ではなく、現実と繋がっているのではないかという不安が渦巻いていた。
「家に帰ったら、この写真を破り捨てる。でも、それで本当に終わるのかな…」彼女の心には疑念が残っていた。
その夜、美咲は眠れなかった。機械の音が聞こえるたびに目が覚め、何度も窓の外を見た。写真を見返し、現実と幻想の境界が曖昧になっていく自分自身を確認する。翌朝も、彼女は昨日の出来事を引きずったままだった。大学の講義に出席しながらも、シザーマンの影が背後に迫っているように感じ、気が休まることはなかった。
その後も、美咲は再び渋谷駅に足を運び、シザーマンを封じる方法を探し続けることになる…。
美咲は渋谷駅のプラットフォームに立ち、再び彼の姿を目にした日のことを思い出していた。彼女はシザーマンに怯えながらも、決してただ逃げるだけでは終わらせたくなかった。次に対峙した時には、この恐ろしい存在を封じ込めるための方法を探していたのだ。
インターネットの奥深く、美咲は古代の呪文に関する情報を見つけた。それは、シザーマンのような異形の存在を封じ込めるための儀式について書かれたもので、詳細には特定の言葉を唱え、呪符を使うことで異次元の存在を消し去ることができるとされていた。しかし、美咲にはその呪符を手に入れる方法が分からなかった。それでも彼女は、自分なりに用意した護符と共に再び渋谷駅に足を運ぶことを決意する。
■再び渋谷駅へ
その夜、美咲はお守り代わりに持ち歩いていた護符を強く握りしめ、渋谷駅に向かった。駅のプラットフォームはいつもの通り混雑していたが、美咲にはその光景が不自然に感じられた。まるで、周囲の人々がそこに存在しているようでいて、実際には誰も自分に気づいていないかのようだった。
「本当に、これで終わらせられるのか…」
彼女は不安と期待を胸に、心の中で何度も自分を鼓舞した。次第に、駅内の音が美咲の耳に響き始める。エスカレーターの音、電車の到着を知らせるメロディー、そして券売機から流れる機械音。それらの音が次第に不協和音のように混ざり合い、美咲の耳元でざわざわと響く。
そして、いつものプラットフォームの片隅、闇に紛れた一角で、再び彼が現れた。
■シザーマンとの再会
美咲の心臓は早鐘を打つように脈打ち、全身が凍りつくような寒気に包まれた。シザーマンの赤い目が暗闇から浮かび上がり、彼女をじっと見つめている。鋏を持ったその灰色の手が、ゆっくりと、まるで美咲を誘うように動き始めた。
「待っていたわ…」美咲は小さく呟き、護符を握りしめた手を胸元に持っていく。
彼女は心の中で見つけた呪文を唱え、護符に力を込めようとした。しかし、シザーマンは一瞬で動きを速め、美咲の方へ迫ってきた。美咲は驚いて後ずさりし、護符を掲げた。
「消えろ…!この呪符で…消えて…!」
護符は静かに輝きを放ったが、シザーマンの鋏がそれを容易く切り裂いた。その瞬間、護符は粉々になり、美咲の手元から消え去った。彼女は恐怖で叫び声を上げそうになったが、シザーマンはただ冷たく美咲を見下ろし、さらに鋏を開閉する音だけが響き渡った。
■逆効果の呪文
呪文が効果を発揮しないどころか、逆にシザーマンの存在をより一層強化してしまったようだった。彼の表情がさらに凶暴なものに変わり、鋏の動きも激しさを増していく。
「どうして…効かないの…?」
美咲は必死で後退しながら考えた。何が間違っていたのか。呪文は完璧に唱えたはずだった。だが、それは彼を弱めるどころか、むしろその存在を強くしてしまったのだ。
「これじゃダメだ…もっと何かが必要なんだ…」
シザーマンが鋏を振りかざし、美咲に襲いかかる。彼女は恐怖で体が動かず、ただ彼の動きを見つめることしかできなかった。その瞬間、彼女の胸に激しい痛みが走り、彼の鋏が彼女の体を突き刺した。
美咲の視界が暗転し、意識が遠のいていく中で、彼女は一つのことに気づいた。
■真の結末
彼女が見たシザーマンは、単なる現実の怪物ではなく、彼女の心の中に潜む恐怖そのものだった。彼女が感じていた孤独や不安、渋谷という大都市の中で圧倒されていた感情が、この異形の存在に形を与えていたのだ。
「これが、私の恐怖なのか…」
最後に、美咲はそれを理解しながら、意識を手放していった。
■エピローグ
翌朝、渋谷駅のプラットフォームには、いつも通りの人々が行き交っていた。誰も昨夜の出来事に気づく者はいない。エスカレーターの音が響き、券売機が淡々と切符を吐き出す。渋谷の喧騒は、いつもの日常に戻っていた。
しかし、その喧騒の中に、一人だけ姿を消した美咲の存在を知る者はいなかった。彼女が感じた恐怖は、永遠にこの場所に残り続け、再び誰かがそれに気づく日を待っているのかもしれない。
その夜も、渋谷駅の片隅で、不気味な鋏の音がわずかに響いていた。
怪奇アクションシリーズのプロローグとして考えたけど、短編でも良いかなと思ってしまいました。