8. 王女と勉強会
そして本当に、イサベリータ殿下との勉強会は始まってしまった。
翌日になったら冷静になって、「やっぱりやめるわ」と言い出すこともありえるんじゃないかと思っていたのだが、そんなことはなかったようだ。
「よ、よろしくお願いします」
「さあ、始めましょう」
殿下はなぜかやる気満々で、机上には本やらペンやらがたくさん並べられていた。
もちろんイサベリータ殿下の授業の邪魔だけはしてはならないので、いつも殿下が読書をしている時間が俺との勉強会に充てられた。
「わたくしが今まで使っていた教材を用意したの。エドアルドがどれくらいできるのか、わからないから」
「あ、ありがとうございます」
「ドロテアに、全然できないって聞いてはいるから、安心なさい」
なんて屈辱だ。身から出た錆とはいえ、情けなさ過ぎる。
ドロテアは扉のところに立って表情を変えず、こちらを見守っているだけだ。
「サウーリャ時代のことを聞いたこともないということは、きっと歴史が苦手なのよね?」
そんなことを言いながら一冊の本を手に取った。先日、殿下が読んでいた本よりもかなり薄めのもので、俺はホッと息を吐く。
歴史が苦手というよりは、勉強全般苦手なのだが、そこは黙っておくことにする。
「さあ、座って」
「し、失礼します」
一礼すると、来客用のソファの端っこに浅く腰を落とす。柔らかくて一瞬、後ろに転げそうになってしまったが、なんとか踏ん張った。
高級なものなのだろうが、落ち着かなさが尋常じゃない。
イサベリータ殿下は俺の斜め前の、一人掛け用のソファに座ると、机上の本をパラパラとめくり始めた。
事ここに至っても、自分が殿下の目の前にいることが現実じゃないみたいで、頭の中がフワフワする。
殿下は、本に視線を落としたあと、ふふ、といたずらっぽく笑ってから、顔を上げた。
「では、このクルーメル王国の成り立ちから説明しましょうか」
「あ、はい。お願いします」
そう答えると、殿下は何度かその大きな目を瞬かせた。
「……クルーメルの成り立ちよ?」
「え? はい」
なにかおかしいのだろうか。素直に言うことを聞こうとしているのだが。
言葉を失ってしまった殿下をしばらく見つめ返していると、彼女は戸惑った様子で、語り始めた。
「ええとね、この地は最初はなにもなくて」
「はい」
「……天界におられた神様が、ここをご自分の花壇にしようと、ひとつの種を落とされたの」
「へえ」
「種は、天から落ちると地面に穴を作ってから跳ねたわ。するとその穴から水が湧いて、まず湖ができたの。それがクラナ湖」
「あ、聞いたことあります」
俺がそう口を挟むと、殿下は胸を撫で下ろした。
「そう」
「すっごい大きな湖なんですよね。行ったことはありませんが」
成り立ち、といってもお伽噺みたいだな、と思う。
俺の言葉を聞いて固まってしまったイサベリータ殿下は、なぜかドロテアのほうに振り返った。
「今のは……湖の名を知っている、という意味?」
するとドロテアがそれに答える。
「かと思います」
「そう……」
「全然できない、と申し上げました」
「そうだったわね……」
「私どもでもいろいろ教えました。しかし実務に関係するところだけ叩き込んだ、と思っていただければ」
これはもしや、クルーメル王国の成り立ちなんてものは、誰でも知っているということなのか。
「すみません……」
身を縮こませて、謝意を述べる。ここまでバカだとは思っていなかったのだろう。だから最初に、揶揄うつもりで「成り立ちから説明しましょうか」と言ったのだ。
恥ずかしさで死ねる。正直、この場から逃げ出したい。
「あの、ご迷惑でしたら……」
「いいえ、いいの。教えてあげてよ」
気を取り直したように胸を張ってから、殿下が上半身を寄せてくる。いい匂いがして、ハッとして思わず身体を反らして離れてしまった。
するとイサベリータ殿下は思いっきり眉を顰めて、非難の声を上げる。
「なによ、失礼な男ね! そんなに嫌そうにしなくても」
「い、いや、嫌なんじゃなくて」
「じゃあ、なにかしら」
「いや……女の子と……こんなに近くにいたことないから……」
小声でなんとかそう答えると、殿下は見てわかるほどにボッと頬を染めた。
「そ、そう」
それだけ返してきて、そして腰の位置を少し向こうにずらした。
そうして、俺たちの勉強会は始まったのだ。
学ぶのは俺だけ、という体たらくではあったが。