後日譚. 王太子の苦悩
騎士として生涯の誓いをイサベリータ殿下にしたところで、それがすぐさま公にされることはなかった。
どうやら貴族間とか王族間とかの調整がいろいろあるらしいし、あの事件があったばかりで次の展開を公表するのは、各所に混乱を招いてしまうだろう。そんなわけで、発表はずっと先になるらしい。
「わたくしたち、秘密の恋人みたいね」
うふふ、と笑って殿下はそう楽しげに言ったが、みたいも何もない。秘密なのは間違いない。とはいえ、恋人と言い切ってもいいものか、疑問が残る。
というか、数日が経っても、まるで実感が湧かない。だってなんにも変わっていない気がする。
イサベリータ殿下の話を聞く限り、つまり、俺の生家であった家で殿下と暮らすということなんだろうか。夫婦として。
……ありえるのか? そんなこと。
事ここに至っても、どうにもピンとこなくて首を捻るばかりの俺に、特大の実感がやってきた。
ある日、王太子であるアルトゥーロ殿下から呼び出しがあったのである。
◇
アルトゥーロ殿下付きの侍女からその呼び出しを受けたのは、騎士団の宿舎の食堂だった。
なんでこんな人の多いところで、と蒼白になったが、言い返せるわけもない。
「では、私室にて、王太子殿下がお待ちしておりますので」
ぺこりと一礼して侍女が食堂から去っていくと、食堂内にいた騎士たちが、いっせいに声を上げながら、わらわらと寄ってきた。
「お前、なにをやらかした?」
「あれだろ、可愛い妹を守ってくれたから、って褒賞がいただけるんじゃないか」
「なに貰えるんだろうなあ」
「領地とか!」
「爵位とか!」
なぜか良いほうの想像しかされず、そんな感じで盛り上がっている。
しかし俺は、血の気が引くばかりだった。
さらに血の気が引く発言が続く。
「我が妹を救ってくれた君しか任せられる者はいない、妹を生涯守ってくれたまえ、とか?」
「すっげえ!」
それだけは絶対にない、という確信を持った笑いが起こる。
これ、どうしたらいいんだろう、という戸惑いと、やっぱりそんなことありえないよなあ、という納得と、結局どうなるんだろう、という疑問とで、俺の頭は破裂しそうになっていた。
◇
「エドアルド・スマイス、参上いたしました」
ピシリと背筋を伸ばしてアルトゥーロ殿下の前でそう述べると、彼は眉根を寄せて、はあーっと大きなため息をついた。
心の臓をきゅっと握られたような気がする。
「……まあ、座ってもらえるかい?」
「いえ、私は」
「座ってもらえるかい?」
辞退しようとしたが、有無を言わさぬ声で続けられる。
これはいわゆる、命令というものだと思う。
「で、では失礼します」
指し示された来客用のテーブルセットのソファに、浅く腰掛ける。
それが合図だったかのように、侍女が俺の前に紅茶の入ったカップを置いた。
それを見て思う。
……消されたらどうしよう。
「毒など入っていないから、どうぞ口を付けてくれ」
俺の表情を読んだのか、そう声を掛けられて、ビクリと肩が跳ねた。
「いっ、いえ、そんな、滅相もない」
「そうできれば簡単なんだけどね」
ため息交じりでそう続けられる。
この人、物腰柔らかそうで、ものすごいこと発言する人だな。
王太子殿下はその綺麗な顔をこちらにチラリと向ける。
「君、ずっと以前に会ったことがあるね?」
「はい、イサベリータ殿下と勉強会をしていたときかと思います」
「そうだったね。そのときは、こんなことになるとは……」
そう零して、また大きなため息をついた。
いつの間にか控えていた侍女たちはいなくなってしまっていて、広い私室には王太子殿下と俺の二人だけになっていた。
もう、いたたまれない。逃げ出したくて仕方ない。しかし逃げた瞬間、俺の人生が終わることだけは確定している。
これから始まる王太子殿下の話とはなにか。当然、俺の処遇について、に決まっている。
「……まあ、イサベリータから聞いてはいると思うけれど、いずれイサベリータと君との婚姻を認めることになる。王家としての決定だ」
「はっ、はいっ」
あ、本当なんだ、とそこで少し驚いてしまった。どこか現実味のない話だったが、アルトゥーロ殿下の口から聞かされると、さすがに嘘とは思えなくなってくる。
なんだかとんでもないことになってきた、と急に心臓がバクバクと脈打ち始めた。
「言っておくけれど、苦渋の決断なんだよ?」
失望のため息をつきながら、アルトゥーロ殿下はそう話し始める。
「消去法だよ……。それしか残らなかった」
「消去法」
これ以上なく消極的な理由らしい。
王太子殿下はその理由を淡々と教えてくれた。
「毎日毎日、山のように嘆願書が届く。内容を読めばね、どうも現実とは違って、演劇の話を真に受けたようなものも多いんだが……まあ大筋は変わらないから、どう否定していいものかもわからないし」
ミゲルさまが教えてくれた、劇場で演じられているという恋物語は、とんでもなく好評を博しているようだ。
騎士団の面々は毎日鍛錬に忙しくて、それを観劇したことはなさそうだが、もし目にしたら揶揄われることだろう。
「こうなると、どんな大国の王子だろうともう、悪役になってしまう……。二人を認めない王家も、同然にだ」
え、そんなに?
アルトゥーロ殿下は俺のほうに視線を向けて、問い掛けてくる。
「君。君をモデルにした役を、誰が演じているか知っているかい?」
「いえ……」
「ヘレミアス・ウルバノというんだが」
まるで聞き覚えがない。
俺が知っていて当然の人なんだろうか。いや、演じているというからには役者だろう。だとしたら門外漢だ。
「申し訳ありません、そういうことに疎いもので……」
だろうね、という感情を滲ませて、王太子殿下は続けた。
「当代きっての色男と評判の役者だよ」
「そ、そうなんですか」
「彼が出演する舞台はそれでなくとも行列が絶えず、彼と目が合っただけで、何人ものご婦人たちが失神してしまうとか」
「ひっ」
なんか変な音が口から漏れ出た。
王太子殿下の御前でなければ、間違いなく頭を抱えていただろう。
どうやら劇場の舞台の上では、美男美女の二人が熱烈な愛の物語を繰り広げているらしい。
イサベリータ殿下以上の美女はなかなかいないだろうからそちらは心配ないとしても、男優のほうは……本物、つまり俺を見た人は失望するんじゃないだろうか。
いや、失望するくらいならまだいい。騙された、と怒りだす可能性もある。なんて理不尽な。
唖然とする俺を横目に、王太子殿下は口を動かし続ける。胸に溜まっていたものを、ひとつ残らず吐き出そうとしているかのようだった。
「しかも劇団は、国内巡演の旅に出てしまった」
「ああ……」
「さらに言えば、その劇団だけじゃない。最初の劇団が盛況だったものだから、我も我もと似たような演劇がいくらでも湧いて出る」
そして王太子殿下は俺のほうに顔を向け、なにやら含んだ笑みを浮かべた。
「ちなみに、君が死亡したという結末のものもあるよ?」
この人絶対、そうだったらよかったのにな、と思ってる。そんな顔してる。
「不敬だ、と止めることもできなくはないが、おそらくそれをしたら、もっと酷いことになる。遅すぎたんだ……」
そこまで語ると、王太子殿下はガックリと肩を落としてうなだれた。
なんだか申し訳ない気持ちになってくる。
「他にもいろいろ要因はあるんだが……。なにより、イサベリータが強く望んでいるからね。元々、父上はイサベリータに弱いんだ」
となると、国王陛下からの非難が俺まで届いていないのは、もしかしたらイサベリータ殿下が裏で動いているのかもしれない。
そういえば、『お父さまの了承もいただいたの』と仰っていた。つまりは、説得したのだろう。
しかし目の前のこの人は、どうにも納得できていないらしい。
それは当たり前だろう。俺自身未だに、本当にいいのか、という気持ちが拭えていない。
「可愛い妹の幸せを祈るだけだが……本当にいいのか……」
「可愛いんですね」
少し意外に感じて、思わずそのまま返す。
すると彼は、パッと俺の顔を見返してきた。
まずい、ずっと聞き役をしていたから、つい相槌を打ってしまった。
「……見えないか?」
「えっと……不躾ながら……」
「そうか」
弁解もなにも口にすることなく、王太子殿下は、ふっと小さく笑う。
これはどうやら、本当に可愛いと思っているらしい。
機会があったらイサベリータ殿下に教えてあげよう、と思う。きっと喜ぶだろう。
王太子殿下は、俺の顔をじっと見て、口を開く。
「君、案外、はっきりものを言うほうだね?」
「え、そんなことは……」
しかし俺の言い訳は聞こうともせず、彼はビシッと俺を指さして声を上げた。
「とにかく! 結婚するまでは、絶対に手を出さないこと!」
「もちろんです!」
「発表されるまで、どんなに親しかろうと明らかにしないこと!」
「はい!」
「それまで、君の行動は逐一報告させるから、心するように!」
「了解しました!」
反射的に返事をしたが、どれもこれも、至って普通のことだった。念押しされるまでもない。
けれど信じられないのか、王太子殿下は胡乱げな表情だ。
だから付け加える。
「大丈夫です。イサベリータ殿下のためにならないことは、ひとつたりともいたしません」
すると彼は、皮肉げに片方の口の端を上げた。
「では、イサベリータのために彼女を諦めろと命じたら?」
「それが、イサベリータ殿下のご意志ならば」
そう答えると、アルトゥーロ殿下は額に手を当てて、俯いた。
「なるほどね……。そういう優先順位か……」
それからしばらくの沈黙が訪れる。
もう本当に怖い。いつまでこの時間が続くのだろう。
「よくわかった。退室していいよ」
「はっ」
どうやら解放されるらしい。俺は慌てて立ち上がり、腰を深く折る。
頭を上げたとき、面白そうに目を細める王太子殿下がそこにいた。
「最後のは冗談だけれど、先ほど言った注意事項は忘れないようにね」
「肝に銘じます」
そう応えて、踵を返して歩き出す。
最後に、「失礼しました」と一礼して、扉を開けて外に出て、もう一度室内に向けて頭を下げる。
アルトゥーロ殿下は、まだソファに腰掛けたままで、なにやら考え込んでいるようだった。
もう声を掛けないほうがいいだろう、と静かに扉を引く。
「義弟に……なるのか……」
扉が閉まる直前、失望感たっぷりの声が発された。
了