34. 次期侯爵の後悔
たった半月近く寝込んでいただけで、足の力が入らない。ベッドから立ち上がろうとした瞬間、ガクッと膝から崩れ落ちてしまった自分に蒼白になる。
さすがにこれはまずいと、俺は歩く練習を開始した。
団長の言う通りにたくさん食べてはいるが、血がどれくらい復活したかはわからないし、筋肉は動くしかない。
宿舎に続く廊下を、窓枠を手すりにしながら黙々と歩く。
「いって……」
刺された脇腹の痛みは、当然続いていた。
「無理はするなよ」
ヘルマン団長がそう忠告してくるが、ここまで弱っていると、本当に元に戻るのか、という恐怖が胸の中に満ちてくる。
しかしやりすぎたのか、廊下の途中で動けなくなっていたところをドロテアに発見され、ゲンコツを落とされた。
「怪我人なのに、ひどい」
頭を撫でながら恨みがましく文句を口にすると、ドロテアは平然と返してきた。
「だから手加減した」
「そうですか……」
「やるなと言っているんじゃない。やりすぎだって言っているんだ」
その言葉に、うん? と首を捻る。なんか聞いたことのある言い回しだな、と思う。いや別に珍しい言葉じゃないけれど、口調とか、そういうのが。
「あ」
「なんだ」
「なんか、団長に似てきましたね……言い方とか」
ヘルマン団長が二人になるなんて、快適な騎士団生活がどんどん遠のいていきそうだ、とガックリきていたら。
「そ、そうか……?」
頼りなげな声を出されて、思わずそちらを見上げると、ドロテアがほんのりと頬を染めていた。
え、マジで?
◇
「ラモンがこれ持って行けって、わざわざ手紙くれたぞ」
そうしてベッドの上で先輩騎士に渡されたのは、叙任式で賜った剣だった。俺の部屋から持ってきたと思われる。
「……え? 何に……使うんですか……?」
「そりゃ、下半身が動かないときは、上半身を鍛えろってことだろ?」
なんでそんな、普通のことです、みたいな顔と声で剣を差し出してくるんだろう。
確かにラモンは『任務のときに使えるもんじゃない』とは言っていたが、任務以外のときは、上半身を鍛えるために使っていたのだろうか。
いや、努力家のあの人のことだ。本当に、筋力をつけるために使用していたのかもしれない。
そういうわけで、その剣で鞘を付けたまま素振りを開始したりもした。脇腹に響かないように気を付ける必要はあったが、なかなかいい感じでもあった。
なにより、これが手元にあると騎士叙任式を思い出して、身体が動かなくなる恐怖よりも、がんばらないとな、というやる気で、心が満ちてくるのがよかった。
◇
その日も黙々と廊下を歩いていると、ふいに話し掛けられた。
「どうだい? 良くなってきたかな?」
「あ、はい、おかげさまで」
声を掛けてきたのはミゲルさまだった。穏やかな笑みを口元に浮かべながら、こちらに歩み寄ってくる。
直立の姿勢を取ろうとしたが、傷口が突っ張って「いっ……」と呻きながら身体を曲げてしまった。
「ああ、大丈夫だ。楽にしてくれ」
焦ったようにそう声を掛けてくる。
「すみません……」
さすがにここは甘えよう。俺は窓枠に手を掛けて、楽な姿勢をとる。
ずいぶん状況は違うが以前話し掛けられたのも、そういえばこのあたりだったな、と思い出す。
ミゲルさまは同じように窓枠に手を掛けると、俺に向かって口を開く。
「知っているかな?」
「え? なにを、でしょうか」
「私とイサベリータ殿下の婚約が解消されたこと」
「ええっ?」
驚きの声を上げると同時に激痛が脇腹を走り、俺は傷を手で押さえ込む。それからゆっくりとミゲルさまに顔を向けた。
今、とんでもないことを聞いた気がする。
彼は、ふむ、と顎に手を当てた。
「その様子では、知らなかったみたいだね?」
「は、初耳です」
「数日前に、私から辞退申し上げたよ。王家の方々も安堵しておられた様子だった。私の申し出を待っておられたのではないかな」
ミゲルさまは淡々とそう説明するが、内容が全然、穏やかじゃない。
「な、なぜそんなことに……」
「民意、とでも言おうかな」
斜め上を見ながら、彼はそう軽い声で答える。
「君が刺されたあの事件」
「は、はい」
「なにせ、衆人環視の中だったからね」
ミゲルさまは、片方の口の端を上げた。
「君にすがりついて泣く殿下の姿を見て、身分違いの許されぬ恋だと思った民草は、それはそれは盛り上がってしまって」
「へぇっ?」
変な声が出て、慌てて口を押さえる。
ミゲルさまは楽しそうにくつくつと笑っていた。
いやこれはもしや揶揄われているのでは、とそろそろと口を押さえた手を離す。
すると彼は続けた。
「なんと、王女と騎士の身分違いの恋物語が、劇場で演じられているそうだよ」
「嘘だ」
思わず敬語が抜けた。やっぱりまだ口は押さえておくんだった。
「本当だよ。なかなか盛況らしい」
なぜかミゲルさまの声は明るい。いや、内容からして、無理に明るく振る舞っているのかもしれない。
その証拠に、次の瞬間に彼の声は沈んだ色に変わる。
「ここで、イサベリータ殿下と私が結婚すれば、私はあっという間に悪役だ」
なにも返すことができなくて、俺はただ、彼の憂いに満ちた表情を見守るだけだった。
「しかも今回の事件、これは教会の騎士団の失態と言ってもいい」
ため息交じりにそう続けると、彼はこちらに向かって目を細めた。
「だからね、諦めるしかないんだよ」
諦める。その言葉を選択した彼の、心の内がわかる気がした。
彼は本当に、イサベリータ殿下の居場所を作って差し上げたいと、それだけを考えていたのではないか。
殿下の幸せのためだけに。
「……でも」
俺の言葉を遮り、ミゲルさまは喋り続ける。
「私はね、あれから何度も考えたんだよ。もし君がいなかったら、私は殿下の前に出られたのだろうか、って。足がすくんで動けないまま、殿下が刺されるのを眺めていただけなんじゃないか、って」
「それは、そうなってみないとわからないと思います」
「まあ、そうだね。もしかしたら奇跡的に、勇ましく止められたのかもしれないけれど」
彼は軽く肩を竦め、そして窓枠から手を離すとこちらに身体ごと向いて、俺の目をじっと見て続けた。
「けれど君が私の立場なら、確実にどんな状況でも、殿下を庇っていたと思う」
俺は目を逸らさなかった。
彼の言うことは、正しい。
「じゃあ、あとは任せることにするよ」
ミゲルさまは手を振りながら、踵を返すと立ち去っていった。




