29. 人ごみの中で
婚約の発表がなされてから、初のイサベリータ殿下の城外活動の日。
ヘルマン団長の言う通り、城下は浮き立っているように見えた。
馬車から降りて来た殿下の姿を見ると、一般庶民たちはいっせいに大声を上げる。
「おめでとうございます、姫さまー!」
「おめでとうございます、イサベリータさまー!」
殿下がその声に応えるように小さく手を振ると、ますます歓声は沸き上がった。
そのせいで、こちらに注意を向けていなかった人まで、なんだなんだと集まって来る。まっすぐに進むこともできない人だかりが、あっという間に出来上がっていく。
これはまずい、と殿下の近くに寄ろうとしたが、教会の騎士団の一人に止められた。
「今日は、こんな状態ですから。我々がお二人の近くを守ります」
「えっ?」
「城下は我々のほうが慣れてますからね。貴族出身の方々では、このような人ごみでの動きは鈍いのでは?」
あっけにとられて、思わず呆然と見返してしまった。
それをどう受け取ったのか、彼は鼻で笑うと、立ち去っていく。
近くにいた騎士たちは、吐き棄てるように文句を口にした。
「なんだ、あれ」
「ずいぶん偉そうだな」
いつものことではあるが、また険悪な雰囲気だ。
「……まあ、すぐそばでなくとも警護はできますから。あちらは任せましょうか」
ヘルマン団長が言っていた。
『怪しいヤツはいるか、人が隠れる場所はあるか、どこか無防備になっていないか、常に目を配れ』
今日は、その教えを守ることとしよう。
もちろん他の騎士たちも、その団長の教えは叩き込まれている。すぐに俺の意見に同意した。
けれど不満がなくなるわけではない。
「仲良くやるどころか、グリーブ家の長男と殿下が婚約したから、自分たちのほうが力が強いとか思ってるんだろ」
「やっぱり、あいつらと仲良くするなんて無理じゃないか?」
「でもまあ、戦場で背中から刺されないように、ある程度は妥協したほうがいいかもしれません」
「むしろ俺たちのほうが刺しそうじゃないか?」
ハハハ、と笑いが起こる。冗談に聞こえなくて、もし俺も戦場に行くことがあったら背中に気を付けよう、なんてことを考えていると。
ふと、人ごみの中に見知った顔を見つける。
「あいつ……」
イサベリータ殿下への手紙が酷くて、何度か釘を刺しに行った男だった。
まったく、殿下に近寄るなとあれほど言ったのに。まるで効果がなかったらしい。
「殿下によく手紙を書いている男がいました。俺、ちょっと注意してきます」
「ああ」
他の騎士にそう伝えて、男に向かって歩き出す。
「ちょっ、ちょっとすみません」
人ごみの中を縫うように歩く。なかなかたどり着けない。人々は、イサベリータ殿下とその婚約者の姿を一目見ようと興奮気味で、俺のために道を開けようだなんて誰も考えていない。
それでもなんとか進み、あと少しでたどり着くかというとき。
「どうして……」
ぼそりと口にする、男の声が聞こえた。
「どうして待っていてくださらなかったんですか」
どういう意味だ? と疑問に思ったのと同時に、思い出す。
『いつかあなたを迎えに行くことをお許しください』
あの手紙。俺がまだ騎士になる前に、ドロテアと一緒に見た手紙。
まさか、あれはあいつだったのか。
『『あなたを殺して自分も死ぬ』なんてものがあったらどうする』
血の気が引く。身体中の体温が奪われるかのように、指先が冷たくなってきた。
「すみません、前を開けて」
慌てて人ごみを掻き分けるが、「なんだよ、押すなよ!」と罵声を浴びせられるだけで、なかなか前に進めない。
辺りの様子を窺うが、誰も男がフラフラと歩いていることを気に留めていないようだ。
しかしそのうち、そこにいた一人が、視線を下に移した瞬間に、ビクッと後ずさったのが見えた。
男が、なにか持っている。
それも、後ずさるようななにか。
まさか、刃物……? 本当に?
「えっ」
「うそ」
「なに?」
男に気付いた人たちは、短い声を上げて立ち竦むばかりだった。
『人間、なにか起きると一瞬、動けなくなるものなんだ』
ドロテアが言う通り、男を見た人々は動けなくなってしまっている。そのせいで、男の前に道ができつつあった。
これは本当にまずい状況なんじゃないか。背中に冷や汗が流れる。
これは男に向かうより、殿下のほうに行くほうが早いと判断して、方向転換を試みる。まだそちらのほうが人の流れに沿っているから、きっと間に合う。
同時に自分の胸ポケットを探った。首からネックレスと一緒に笛が掛かっていて、先が胸ポケットに入っているのだ。
『死ぬ気で吹け』
いつか、さんざん練習させられた。
笛先を口に含むと、思いきり息を吹き込む。ピーッと澄んだ音が喧騒の中に消えていくが、何人かの騎士は気付いたようで、こちらに視線を向け、慌てたように動き出した。
頼む、誰か、間に合ってくれ。
祈りながら、足を進める。
前方を見てみれば、イサベリータ殿下がいる場所の前は、教会の騎士たちが何人かで人々をせき止めているから、ぽっかりと空間ができている。けれど教会の騎士が隙間なくいるわけではない。抜けようと思えば抜けられる。
あそこに抜ける前に、止めなければ。
なんとか男より先に人ごみを抜けると、同時に彼のほうに駆け出す。
教会の騎士たちはなぜ俺がやってきたのかわからないようで、ポカンとこちらを眺めていた。
くそ。こんなことなら任せるんじゃなかった。
男もようやく人ごみを抜けたところだった。俺はなんとかその前に立ちはだかることができた。
「またお前か」
彼はそう呟く。
「いつも僕の邪魔をする」
俺の脇腹に、深々と彼の持つナイフが刺さっていた。




