28. 王女の婚約
イサベリータ殿下と話をした通り、俺に結婚話など湧いてくるはずもない。騎士にはそれなりに縁談がやってくるらしいのだが、俺は二十歳になってもさっぱりだ。たとえ騎士の称号があるとはいえ、平民上がりだと、そういう話もないということだろう。
たまに城下に出たときに、「騎士さま、大きくなったら結婚してね!」と幼い女の子に声を掛けられたりするが、どう考えても縁談じゃない。あとそれを目撃した人たちには、疑わしい目で俺を見るのをやめてほしいと訴えたい。
ちなみに、ドロテアの元には以前からたくさん釣書が送られてきているらしいのだが、「弱い男は嫌いだ」と一刀両断しているそうだから、どうにもならない。
しかし、イサベリータ殿下の結婚の話だけは、着々と進んでいる。もう十八歳なのだ、当たり前といえば当たり前の話だろう。
お相手は、やはりというかなんというか、ミゲル・グリーブさまということだ。
フロレンシア殿下の婚約に続くこの吉報に浮かれているのか、騎士たちが使う食堂内はこのところ、その話で持ち切りだった。
「イサベリータ殿下は、一般庶民からの人気が高いだろう? だから国外に出せないんだ」
それはフロレンシア殿下も言っていたから間違いない。
地道にがんばってきた奉仕活動が、こういう結果をもたらすだなんて、殿下自身も気付いていなかっただろう。
「いや、他国に嫁がないにしても、なんでグリーブ家の跡取りなんだ?」
「グリーブ侯爵家は、教会の騎士団の最大の出資者だろう? 思うに、教会の騎士団と、こっちの騎士団の協力体制を整えたいというところじゃないか」
「うへえ」
「ハンネスタとの危機は去ったとはいえ、今度はエストーリナ王国に対して、それなりの武力を見せつけないと」
「分裂している場合じゃないってか」
「でもあいつら、こっちを目の敵にしてるしな。仲良くなんて無理だろ」
「だから、協力しろって話なんだろ」
「あと、あの跡取り息子はイサベリータ殿下にご執心だろ? 王家にもなんらかの援助をしたと見た」
「それじゃあ断れないか」
「一目惚れだってさ」
「そうだろうなあ。子どもの頃から見てるけど、最近はなんか、ただの美女って感じじゃなくて、凄まじいものがあるよ」
「実は、跡取り息子と恋をして、美貌に磨きがかかったとかかも」
「うっわ、羨ましいことだねえ」
口さがない噂話は、とどまることを知らない。
専属騎士の俺のところにも、いろんな騎士が内情を聞きたがってやってきたが、答えられることもなくて困り果てているので、最近は夕食をとったらすぐさま自分の部屋に籠るようになってしまった。
その日もそうしてベッドで寝転がっていたのだが、そういえば、と宿舎近くで話し掛けられたときのことを思い出す。
なるほどそれで、と合点がいった。
いつか妻になるかもしれない人に、余計な虫が付いているかどうかを危惧して、俺と話がしたかったのだ。
専属騎士のうち三名は女性だからともかくとして、残り二人が気になったのか。もう一人は貴族の出だから絶大な信頼を寄せられているのだろう。
ぽっと出の、どこの馬の骨とも知れない平民の若い男がお側にいるから、危険視したということか。
いったいなんの心配なんだろう、と小さく笑いが漏れた。
ありえない。
いかに殿下が平民出身の騎士と親しくしようとも、やっぱり騎士は騎士で、それ以上でも以下でもない。
イサベリータ殿下の母親が元愛妾で、王族の中でいくら軽んじられていようとも、やはり殿下は王女なのだ。
心配されるようなことはなにもない。
仮に俺が殿下に恋慕の情を抱いていようとも。
それは決して表には出てこないし、出てきてはいけないのだ。
◇
騎士たちが集められる朝礼にて、ヘルマン団長はこう告げた。
「イサベリータ殿下の婚約が、今日、発表される」
それを聞いた騎士たちが、目配せし合ったり、小声でなにかを話したりしたが、団長の咳払いでピタリと止まった。
「おそらく、城下は浮き立つぞ。特に殿下の警護に回る者は心しろ。夜勤の者にも伝えておけ」
「はっ」
その場にいた者たちが一斉に応じる。
話を聞いたら心が乱れるかと心配していたが、案外、胸の内は凪いだままだった。
よかった、と思う。俺はもうずっと前から、この日が来るのを覚悟できていたのだろう。
◇
イサベリータ殿下の部屋に行くと、彼女はなにやら書類に目を通していた。
前の騎士と交代でドロテアと二人で壁際に立つと、殿下は顔を上げてこちらに視線を向ける。
「聞いたかしら?」
また言葉は足りないが、何のことかはすぐにわかる。
「ご婚約、おめでとうございます」
二人して、腰を折って祝辞を述べた。
「ありがとう」
口元に弧を描き、そう返してくる。
「本当に、ありがたいことだわね。わたくしなどに結婚の申し込みだなんて」
平坦な声音からは、なんの感情も読み取れなかった。
「どう思う? エド」
なぜそれを俺に訊く。いったいなにを言って欲しいのか。
この人はいつも、俺に難問を突き付ける。
「一目惚れされたと聞いております。愛されていますね、喜ばしいことです」
「さあ、それはどうかしら」
イサベリータ殿下は、皮肉げに片側の口の端を上げた。
「といいますと?」
「わたくし、これでも一応、王女なの」
「……知っていますが」
「わたくしを妻にすると、それなりに王族に近付けるということなの」
「まあ……そういうこともあるのでしょうが」
どう会話していいのか、さっぱりわからない。
イサベリータ殿下は胸に手を当て、ふふ、と笑いながら続ける。
「それから、見栄えがいいのよ。ほら、わたくし、美しいから」
「そこは否定しませんが」
「あら、否定しなくていいの?」
「美しいことは、確かです」
「は、ってなによ。他はダメみたいじゃない。失礼ね」
そうお叱りの言葉を口にはするが、反して殿下はコロコロと笑った。
「そういうときは、『ああ、大輪の薔薇の如く、お美しいイサベリータ』とかなんとか、装飾を付けなさいな」
芝居がかった口調で、そんな戯れを口にする。おどけた様子の殿下の話についていけなくなってきた。
「はあ……」
「そういう言葉がすぐに出てくるようにならないと、良い縁談が来なくてよ」
「縁談なんて、いいです」
「あら」
俺の言葉に、殿下は笑うのをやめて、ぱちくりと目を瞬かせた。
「縁談は、いらないという意味?」
「はい。結婚なんて、しなくていいです」
「どうして?」
「どうしてもです」
「……そう」
イサベリータ殿下は、そうしてまた視線を書類に落とした。
「おかしなことを喋ってしまったわね。恥ずかしいことだわ。今の会話は忘れて」
「……はい」
「婚約発表したばかりですから、きっと神経を尖らせていらっしゃるのでしょう。我々でよければ、どうぞ愚痴を聞かせてください。漏らしたりはしませんから」
ドロテアが、なんともいえない空気を察したのか、そう慰めを口にする。
イサベリータ殿下は、弱々しく口元に笑みを浮かべると、「ありがとう」と小さく返した。
けれどそのまま、口を開くことはなかった。