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LIKE A BIRD ~死にたがりやの私達~

作者: 島津 光樹

     プロローグ


『ねぇ、誰か。

 私の声が聞こえますか?

 私の事を分かって欲しいよ…。』


 そんな事を呟いた日もあった。 

「バイバイ。」

 もう今日で、こんな世界とオサラバだもんね。オレンジの夕陽に影絵のようなシルエットを見せる町を見ながら、私はフェンスに手を掛ける。グッと右足をフェンスの金網にかけて、体を持ち上げた時、不意にガチャンと音がして、背後から声が掛かった。


「ああ~っ!いっけないんだぁ!」

 ビックリした。慌てて金網から体を離して、下に降りた。振り向くと、スーツを着た女の人がいた。フラフラしながら、こっちに歩いてくる。

「見~た~ぞ~。君ぃ、今、飛び降りようとしてたでしょぉ~?」

「な、な、なんの事ですか…?」

 ドギマギしながら答える。いつも誰も来ないこのマンションの屋上に人が来るなんて初めてで、動揺を隠しきれない。

「貴方、私より若いのに…」

 そう言って、女の人が私の肩をガシッと掴む。

「ダメでしょぉ!世の中には年功序列って物があって…。飛び降りるなら、年上の私の方が先!って決まってんのよぉ~っ!」

「は…?」

 一体、何を言っているんだ、この人は…。と思った時に強烈な匂いが鼻をついた。

「クサッ!」

 お酒の匂いがプンプンした…。思わず、鼻を押さえてそっぽを向く。

「ああ~ん?…草?へッ…!笑うなら、笑いなさいよぉ!どぉせ、私はダメな女ですよぉ!でもね~!」

 そこまで言うと、女の人は「ウッ…!」と右手で口を押さえた。嫌な予感がした。

「ヴォエエエ―――!」

 左手で肩を押さえられていた私は避ける術もなく、正面から思いっきり吐瀉物を制服にかけられた。

「な…っ!何すんのよぉ~!コォんの!酔っぱらいがぁ~!!!」

 自分でもビックリする位の大声が出た。夕焼け空に私の罵声が吸い込まれて行った。


 これが、私とトリちゃんの最悪な最初の出会い。


     Ⅰ 


「し…、し、信じられない…っ!」

 ブルブルと声を震わせる私を見て急激に酔いが冷めたのか、ひとしきり吐いてスッキリしたのか、自分のしでかした事に気付いた女の人は「ギャー!ご、ごめんなさいっ!」と言って土下座した。

「も、勿論、クリーニング代は払います!」

 あったりまえだ!つーの!でも、どうしよう…。こんなんで家に帰ったら何を言われるか…。俯いて黙り込んだ私を見て、思う事があったのか、女の人は言った。

「あ、あの…!流石にそれでは家に帰れないと思うので、私の部屋で一旦、ゲロを落としませんか?」

「………。」

 今の時代、同性とは言え、初めて会った人の家に行くってどうなの?と思ってジッと見る。私の視線に気付いた女の人はハッとしたのか、ポケットを探った。茶色い名刺入れから一枚の紙を差し出して言った。

「わ、私、一週間前にこのマンションに越して来た大鳥みどりと申します。決して、怪しい者ではございませんのでっ!こ、これ、免許証です!」

 それからまた差し出される水色の背景の前でかしこまった顔写真の免許証。まぁ、悪い人ではなさそうだ。

「…じゃあ、お言葉に甘えて…。」

 てか!もうこの際、この人が怪しいかどうかは、関係ない!一刻も早く、この匂いから解放されたかった。


「ち、散らかってますが、どうぞ…。」

 そう言って案内されたのは、701号室だった。このマンションは基本は家族向けの3LDKだが、端に単身向けの1LDKがある。そこの住民だった。まだ引っ越したばかりだからか、あちこちに開けてない段ボール箱が積み上げられていた。

「洗面所、こっちです。とりあえず、軽く洗ってからじゃないとクリーニングにも出せないと思うので、脱いだのはそこの脱衣籠に入れて下さい。私が洗います。き、着替えは取り合えず、私のを…。」

 そう言うとガサガサと段ボールを漁り、「あった!」とまだビニールに入ってる新品のブラトップと下着、ハンガーにかかった水色のワンピースを手渡して来た。私は洗面所の戸を閉めて、すえた匂いがする制服を脱ぐ。浴室に入って、シャワーの水栓を思い切りひねった。

 シャ――!!

「冷たっ!!」

 勢いよく出たシャワーの水温が思っていたよりもずっと冷たくて、思わず声が出た。

「す、す、すみません…!給湯ONにしてませんでした…!」

 戸の向こうから、慌てふためく声が聞こえてた。ふっっざけんな、ゲロ女!全くっ!イライラしながら、浴槽にあったかくなるまでシャワーの水を溜める。

 シャアアアアという音を立てて浴槽に当たり、少しずつ溜まっていく水は透明な筈なのに、なぜかうっすら水色に見える。ここで今、私が手首を切ったなら、ここは真っ赤に染まるのだろうか?その後の鑑定では、推理小説で良く見るルミノール反応も出たりするのかな…?

 そんな事を考えながらシャワーを浴び、他人の家の湯船に浸る。ちゃぽん…。あったかい。ちゃぷん…。私が動くと生まれる波。この場合は私が触質か、と先日の物理の授業を思い出す。あぁ、もう!やんなっちゃう…。もう、学校の事なんて思い浮かべる事も無いと思っていたのにな…。

「はぁ~ぁ。」

 大きな溜め息が出た。浴室内でそれはほわん、と響いた。

 なんたる非日常。さっき出会ったばかりの名前しか知らないゲロ女の家でお風呂に入ってる私。初めて使った銘柄のボディソープはとても良い香りがした。不思議だ。これまでの私の人生には起こる筈の無かったイレギュラーな出来事。


「…あの~!ゲロは落とせたと思うんで、ある程度乾かしたら、クリーニングに持って行きますね。」

 浴室の曇ったドアの向こうで声がする。改めて聞くとなんだか、落ち着く声だ。

「あ、ありがとうございます…」

 いや、お礼を言うのは変か?迷惑を掛けられたのは私なんだから。でも、本当は今日で役目を終える筈だった制服がクリーニングに出されるなんて、変なの。


 そんな事を思いながら、お風呂から上がって着替えた。自分じゃ絶対買わないひらひらのレースのついた水色のショーツに黒のブラトップは変な感じだ。でも、ゲロの匂いのついた自分の下着はさっきお風呂場で洗ってしまったので、借り物を大人しく着た。水色のワンピースは可愛かった。少しだけ、気分が上がった。バスタオルの上に置かれていたドライヤーで髪を乾かす。

 ドライヤーの音にかき消されていたが、戸の向こうで声がした。

「…か?」

 良く聞こえなかったから、戸を開けた。

「あ。ワンピ、丁度良かった。」

 ほっとしたように笑うゲロ女がいた。こうして見るとなかなかの美人さんだった。

「ありがとうございます。後日、洗ってお返ししますね。」

 そう言ったら、くしゃっと笑って言った。

「ううん。いらない。お詫びにあげる。サイズ丁度みたいだし、良かったら着て。」

「あ…。どうも…。」

 どうせ、クリーニングし終わった制服を返してもらったら、もうこの人と関わる事は無い。売ろうが捨てようが自由だ、と思って曖昧な返事をした。

「落ち着いたら、おうちの方に事情を説明すべく着いて行くから、よろしくね。引越挨拶用に買っておいたお菓子がまだあって良かった…」

「えっ!?うち来るの?」

「うん…?そうじゃないと、制服じゃない服着て帰るのおかしくない?」

「確かに…。いや、ちょっと待って!」

 そう、気付いた。この人、さっきの出来事をどううちの親に説明する気だ!?まさか…飛び降り自殺しようとしてた事を言おうというの?

 私の表情から考えを読んだようにゲロ女が言った。

「安心して。酔っぱらってフラフラ歩いてた私を介抱しようとして、私がゲロかけちゃった事にしよ?まぁ、場所は違うけど事実もあるし~。ボロが出ないように口裏合わせも兼ねて、ちょっとお茶でもしていかない?お菓子があるんよ。紅茶でいいかな?お砂糖入れる人?ストレートでもい~い?」

 そう言って、電気ケトル片手に水を入れる。

「あ、はい…。ストレートで…、ダイジョブです…。」

「それは良かった。あ、そこのフィナンシェ食べて、食べて~。今日会社で貰ったんだ~。」

 視線で促されたテーブルの先にはラッピングされたままのフィナンシェの詰め合わせがあった。パパが年末になると会社に来たというお歳暮をばらしてもらってくる中の一つにある見覚えのある包装だ。

「これ知ってる。美味しいよね。」

「なら、良かった。はい、お茶も入ったよ。」

 そう言って、目の前にドカッと置かれる某コンビニで良くキャンペーンをやっている熊のマグカップ。

「……。」

「ん?なぁに?」

「あ、いえ…。紅茶っていうから、てっきりティーカップに入ってくるのかと思ってたから。」

「あ~!ソーサー付きの?私もさ、探せばそこの段ボールのどっかにそれなりのカップ&ソーサーの持ってるよ!でもさ、実際一人暮らしたら使わないよ~。洗うのめんどいもん!飲めりゃ~いいのよ。味は変わらん!ほら、お食べ。」

 そう言って、フィナンシェをぐいぐい押し付けてくる。もくり、と齧る。バターの香りがして美味しい。ゲロ女は私が食べるのを見てから、自分もアグッと一口で半分程を口に入れた。

「は~。まだ生きてるや…。」

 しみじみ言った。そこで私も我に返る。まさか、これから何で死のうとしてたのか聞かれたりするのかな?ウザイ…。でも、ゲロ女は言った。

「あのさ~ぁ、迷惑掛けといてこんな事言うのアレかもしれないんだけどさ…。良かったら、私達友達にならない?あ…、でも、学生は部活が忙しいか…。」

「部活は…入ってないから。」

「マジで?」

「うん…。」

「じゃあさ、私と部活やらない?」

「は?社会人と高校生で一体、何の?共通点なんか一つも無いじゃん…」

「あるじゃん、共通点!さっき、飛び降り自殺しようとしてたよね?だから、自殺部はどうよ?」

「自殺部って…。」

「あ~、流石に人聞き悪いか…。じゃ、JST部でどうよ?」

「どこぞのゲーノージンみたいな略称だな…。」

「でも、響きはなんかカッコよくなぁい?」

「…確かに。」

 思わず、クスっと笑ってしまった。社会人なのに、おかしな人だ。

「じゃあ、決まり!私達は今日からJST部よ!部長はこの私、大鳥みどり!」

「大鳥みどり、って韻を踏んでる名前だね…。」

「ああ~っ!やっぱり、そこに気付くか~…。私、昔は石井みどりだったんよ。でも、親が離婚したせいでこんな名前に…。おかげで、お値段それなり大鳥みどりって散々からかわれた。チッ!そこはお値段以上にしとけよ。家具屋かよ、全く…。」

 ププッ!なんだか興味が湧いてきた。なんだろう…。話すと分かって来る。この人、相当面白い人だ。一緒に部活(?)をやるのも悪くないかもしれない。

「大鳥部長、よろしくお願いします。私は…橘髙ユキ…」

「きったか?初めて聞いた名字だ!へ~!橘髙、髪切ったか?」

「……。」

 寒いダジャレに名乗りを邪魔された。

「あ…。思いついたから、つい…」

「うん…。小学校時代から、ずっとそれ言われてきた…。」

「やっぱり…。」

 お互い、名前に対するベタ過ぎるツッコミを持っている身だった。共通点二つ目だ。

「家具屋呼びは禁止で。みどりちゃんって呼んでくれてもいいわよ?」

「じゃ、呼びやすくトリちゃんで。」

「了解、ユキ。」

 勝手にユキ呼びにされてた。まぁ、いいや。

「じゃ、介抱してくれたユキに私がゲロと迷惑かけたんで、我が家で着替えてもらい、ゲロのついた制服洗ってました。これから、クリーニング出しに行きます、って感じで挨拶すればいいかな?」

「うん。」

「特急料とか払えば、すぐやってくれるのかな?まだ、こっちでクリーニング出した事無いから、どこに出せばいいかも分かんないや…。」

 そういうトリちゃんに私は言った。

「ゆっくりでいいよ。明日から春休みで、学校無いから。」

「そうなの?いいなぁ~、学生!春休みうらやま~!!!」

 盛大にぼやいた後に「あっ!」と大きく言った。

「なら、ユキさ。明日からここにいなよ。ここ、JST部の部室ね!つ~ても、まだ全然片付いてないけど…。ここは後で本を出そうとしてたから、開けられて困る荷物なんも無いし。引っ越しの手伝いしてくれてもい~んだよ?なんなら、時給出すし!」

 そう言うと、鞄をガサガサしてから、私の手に鍵を乗せた。

「これ、うちの合鍵。部員のユキに預けとくね!」

「……!」

 ビックリした。そんな簡単に人を信じていいのだろうか?私がトリちゃんの留守中に盗難や悪事を働くとは思わないのか?そう思って見ると、トリちゃんは「ん?」とこっちを見て笑った。その笑顔があまりにまっすぐだったものだから、『あ、この人は信用出来る』って勝手に思っちゃったんだよね。


 おやつを食べた後、トリちゃんは私の家である305号室までついてきた。チャイムに反応してママが出てくる。今朝制服を来て学校に行った娘が、見た事無いワンピースを着て、知らない女の人といた事にビックリしてた。

「あ、あの…?うちの娘が何か?」

 心配そうに訊くママに、トリちゃんは出来るOLと言った感じで名刺を差し出し、事情を説明した。

「そんな訳で、これからこちらの制服をクリーニングに出してまいります。ご迷惑をお掛けして、本当に申し訳ございません…。あと、こちらは引っ越し挨拶用の品ですので、どうぞ。まだ越してきて間もないので、色々教えていただけると助かります。さっき少しユキさんとお話したんですけど、何だか妹みたいに思えて…。良かったら、これを機に仲良くさせていただけると嬉しいです。こっちにはまだ全然知り合いいないので心細くて…」

 そう言って小さく微笑んだトリちゃんを見て、ママは心を打たれたらしい。

「こちらこそ!こんな娘で良かったら仲良くしてあげて下さい!」

 そう言って、盛大に頭を下げた。

「では、私はこれで…」

 会釈をし、エレベーターへと向かうトリちゃんを私は追いかけた。

「待って!クリーニング屋に案内する!」

 ママにも聞こえるように言って、一緒にエレベーターに乗り込んだ。スマホ片手にトリちゃんは言った。

「ありがと~。これから検索しようとしてたから、助かるよ。」

「てか、トリちゃん。さっき、出来る女って感じだった。見直した。」

「何それ?私の第一印象なんだったん?」

「そりゃ、ゲロ女でしょ。」

「ひっど~!!」

 そんな風に交わす軽口の応酬が心地良かった。何だか、久し振りに人と会話した気がする。だから、いい気分でスーパーに併設しているクリーニング屋まで案内した。帰りにスーパーで買い物をしていく、というトリちゃんに早速、地元民ならではアドバイスをする。

「ならさ、買い物前にこのスーパーのカードを作った方がいいよ。ポイント貯まると現金と交換出来るから。」

「マジで!?現金と交換って初めて聞いた。作るっ!あ、あのサービスカウンターでいいのかな?」

「うん。」

「ちょっと作って来るから、待ってて!」

「うん…」

 目立たないように邪魔にならないように給水機の脇に立っていたのに声を掛けられた。

「あれ~ぇ?真面目ちゃんじゃん。そーんなおシャレなワンピなんか着ちゃって、何してるの~ぉ?」

 …最悪。他学科に属する女子二人組だった。こんな所で会うなんて思ってなかった。慌ててトリちゃんの所へ行こうとしたら、前を塞がれた。

「ひどーい!少し位、話したっていいじゃん!うちら、友達でしょ~。」

「ね~♪」

 周りに対する仲良しアピールなのか、これ見よがしに腕を組んで来る。がっちり左腕を押さえてから、小声で言われる。

「そ~んないいワンピ着てるなら、お金持ってるよね?少しでいいから、貸してよ。」

 …「嫌だ」って言いたいのに、声が出ない。私はいつもそう…。足が…すくんで…目の前が真っ暗になりそうな時に声がした。

「なんだよ~、ユキ!勝手にいなくなんないでよ!」

 トリちゃんだった。

「そっちの子達は友達~?名前なんて~の?」と大きな声を出しながら近付いてくる。トリちゃんの声につられて周りの買い物客の視線が集中する。二人はパッと私の腕を離した。

「じゃ、じゃーね!」

「私達急いでるから!」

 そう言うと、そそくさと走り去った。私は…ちょっと震えてた。上手く喋れない…。どうしよう…。そのまま過呼吸になって倒れそうになった時、ぎゅっとトリちゃんが私を抱きしめて言った。

「あ~、良かった!ユキとはぐれたら、私迷子になって、家に帰れなくなるとこだったよ。」

 周りの人達が失笑したのが分かった。なぁんだ、と急激に私達に興味を失くして離れていく。…優しい嘘だ。マンションからここまでは十分もかからない。GSがあるおっきな十字路を越えて線路を渡って右に折れただけの場所だもん。迷子になんかなる訳ない。でも、そう言ってくれて救われた。私はゆっくり息を吐く。

「もう、大丈夫。心配かけてごめん…。」

「そっか~。でも、はぐれたら困るから手ぇつなご!」

 そう言って、ぎゅっと握られる右手。トリちゃんの手はひんやりと冷たかった。

「よっしゃ!今日はおねぇさんが何かスイーツを奢っちゃうぞ!好きなの選びな!」

 そう言うと繋いだ手をぶんぶん振って、スーパーのカゴを右手に持った。

「ユキは何が好き?私はね~、チーズケーキ!」

「わ、私は…」

 言いかけて考える。私の好きなスイーツって何だ?特にこれと言った物が思い浮かばない。でも、何か言わないのも変だ、と思ったらすれ違った人のカゴに入ってるシュークリームが目に入った。

「シュ…、シュークリーム、かな?」

「あ~、わっかる~♪シュークリームって美味しいよね~。じゃ、それ、食べよ♪」

 そう言うと、冷蔵品の所に行って、二つ入れた。

「私のも。あと、明日の朝ご飯用にこのチーズケーキも買っていこう。」

 なんてデタラメな食生活だ…。さっきちょっと見直したのに、またちょっとトリちゃんの評価が下がった。その後、野菜ジュースやらハムやらを買って店を出ると同時に、トリちゃんがシュークリームを取り出した。

「ほい。折角だから食べて帰ろ。」

「いい歳して買い食いですか?」

「たまにはい~じゃん!これもJST部の活動の一つだよ!大人になるとさ…、なかなかこういうの出来なくなるんよ…。でも!今日はJKと一緒だもん!やらない手はない!あ~、なっつかしいな~。部活の帰り、こんな風に今川焼食べながら帰ったよ。」

「今川焼?」

「え?こっち無いの?まあるくてあんこが入ってる百円のやつ。」

「もしかして回転焼きの事?」

「え?何?」

「だから!丸くてアンコとかクリームが入ってるやつでしょ?」

 そんなどうでもいい話をしながらシュークリームを食べながら歩く。十分しかない帰り道がもっと長かったら良かったのにな、って思ってたら、踏切でひっかかった。カンカンと鳴る踏切の音にかき消されるようにトリちゃんが言った。

「さっきの…。ああいう奴等がいるから、ユキは死にたかったの?」

「…それもある。」

「じゃあさ、このまま一緒に飛び込んじゃう?」

 そんな冗談とも本気ともとれる言葉を投げて、トリちゃんは真っ直ぐに私を見た。

「え…?」

 踏ん切りがつかないままトリちゃんを見つめていたら、ガタンガタンと音がして電車が目の前を通り過ぎた。あっと言う間だ。踏切が開く。

「ほえ~。電車短っ!今、二両しかなかったよね?」

「うん。田舎だからね。多い時は四両あるよ。」

「へ~。」

 さっきの科白は無かったみたいに、普通の会話。

「ユキさ~。明日からやっぱり私の家に居なよ。リビングを部室として開放するから、ある物好きに使っていいし。」

「あ…、うん。」

「片づけを、手伝ってくれてもいいんだからね?」

 念を押すように笑って言う。

「さっきも聞きました!も~!ホントはそれが狙いでしょ!」

 ウシシ、といたずらっ子のように白い歯を見せてトリちゃんが笑った。子供みたいな笑顔だった。


     Ⅱ


 翌朝。私は鞄に参考書や筆記用具を入れて家を出た。

「行ってらっしゃい。今日も図書館?はい、これお昼代。あまり遅くならないようにね!」

 ママに渡された五百円を持って、私はそのままトリちゃんの701号室へと向かった。念の為、チャイムを押す。返事はなかったから、合鍵を使って入った。何もないたたきで靴を脱いで「お邪魔します」と一声掛けてから、リビングに向かった。

 昨日一緒に食べたフィナンシェの残りがテーブルの上にまだ置かれていた。その隣に『JST部部誌』とマジックで大きく書かれたノートが置いてあった。表紙に「部長・トリ 部員・ユキ」とある。昨日は冗談で言ってるとばかり思っていたが、どうやら本気だったようだ。

 ぺらりとめくる。昨日の日付が書かれた後に、几帳面な字が並んでいた。


『今日はJSTに失敗したけど、おかげでユキに会えたからラッキー♪これから、ヨロシクね。一緒にJSTについて、考えよ♪

 あれからネット見てたらさ、あの高さからだとワンチャン死にきれない可能性がある事が分かった。失敗した場合、サイアク植物人間になる可能性があるらしい…。ううっ、それは嫌だ!故に、ここでの飛び降りについては再考の余地有。ユキんちのご両親も住めなくなるだろうし…。

 次に飛び込みについて調べたら、電車を遅延させた分の迷惑料(?)が遺族に請求されるらしい。マジで!?昨日、飛び込まなくて良かった。私、百万しか持ってないよ。ユキんちは?請求額が億とかだったらどうしよう…?あと、飛び込まれた運転手さんが飛び散る肉塊を見てトラウマになるらしい…。人に迷惑を掛けるのは私のJSTの本意ではないので、こっちも再考の余地有だな。

 尚、首吊りは今の住宅には梁が無いので難しい。首を吊った場合、体液その他が全部出ちゃうみたいだから、三日位前から断食した方がいいかも?でも、それだとお腹が空いちゃうなぁ…。肝心な時に力が出なさそうだ…。うぅむ…。』


 なんだか真面目に自殺の方法について考えていた。でも、そうなんだ…。電車を遅らせたら迷惑料をとられるなんて、知らなかった。

 それはダメだな…。うちのパパの稼ぎじゃ、億なんてとてもじゃないけど、払いきれない。

「はぁ…」

 溜め息が出た。リビングのサッシを大きく開けた。生温い風と共に十字路にあるGSから「…サイドブレーキを、引いて下さい」という洗車機のアナウンスが飛び込んで来る。

 目の前にあったサンダルをはいてベランダに出る。この高さを遮る建物は殆ど無いので、風が強い。うちより高い階だから、うちからは見えない川も良く見えた。あの川を越えて行けば、違う県になる。本当は毎日、川を越えて隣の県にある高校に通う予定だった。私立の、制服が可愛い学校。第一志望校だった。偏差値的には問題は無かった。だけど、受験日前日に高熱が出た。体もキシキシ痛んで苦しくて、病院に行ったらインフルエンザだった。勿論、試験は受けられなかった。当然受かると思っていたので、他の私立に併願はしていなかった。だから、仕方なく県内の公立高校に通う事になった。若年層がどんどん県外流失しているこの県の高校は少ない。大半が隣の県の高校に進むからだ。だから、県内にあまりいい高校は無い、と言うのが私個人の感想。実際、今通っている高校は普通科と商学科に分かれているが、普通科はそこそこの偏差値なのに対し、商学科はほぼヤンキーのたまり場みたいになっている。本来ならば違う高校になる筈が、生徒数の関係で無理矢理いっしょくたにされてる感じだ。中庭を挟んで建つ校舎で学部は分かれているが、図書室やグラウンド、多目的教室は共用だ。委員会も共同。商学科とは関わらないように過ごしてたのに、二年になって委員会で一緒になって目をつけられた。たまにぶたれてお金を取られる。先生に言えばいい、って理屈では分かってる。だけど!言った事がバレたらもっとひどい目にあわされるんじゃ…と思うと言えない…。世の中のいじめのニュースを見る度に「私はここまでされないから、まだいい方…」と自分に言い聞かせる。奴らはずる賢い。教師や親の目に入る所には絶対に傷をつけないし、私と関係ない振りをする。委員会の仕事で一人残る放課後の図書室で、ボコられる。

 だから…。昔は大好きだった図書室が大嫌いになった。シリーズの文庫を片っ端から読んでいくのが快感だったのに、もうあの回転棚にも長い事触れてない。最後に読んだのはゼラズニィだったかな…。もう覚えてないや。学校にいるカウンセラーなんてあてにならない。大人だけど、ヤンキーの集団が怖いから生徒間の争いに全く口を出さない保守主義者だもん。

 そう、大人なんてあてにならない。彼らは口だけ出して、やった気になる。うちのママもそう。「勉強しなさい」って言っておけば、親の務めは果たしたと思ってる。パパは普段は仕事仕事で私の事はママに丸投げのくせに、第一志望校に行けなかった私に「たるんでるせいで大事な時にインフルエンザになんかなるんだ。あんな県内の馬鹿高に通うなら、常に首席でいろ。そうすれば、今度は推薦位はもらえるだろ」と言い放った。

 …たるんでたから病気になったんじゃない!そう言いたかったけど、言えなかった。怒鳴られるのが、怖かった。私は…昔からそう。目の前の人が自分より発言力が強い人だと何も言えなくなる。だから、大抵損な役回りを押し付けられる。でも、それでもいい、と思ってた。それで世の中をやり過ごしていけるのなら、我慢できた。

 でも、高校に入って奴らに目を付けられてから、私の生活は一変した。普通科の教室にいて授業を受けている時は平和だ。でも、放課後、委員会の仕事がある時は憂鬱。毎日ママからお昼代に渡される五百円を貯めてるお財布からお金を取られる。「しけてんなぁ…。これだけしかないのかよ!」って言われるけど三千円は大金だ。それなら最低限しか持ち歩かなきゃいい、って言うんでしょ?分かってないっ!とれるお金が少ないと、暴力が酷いんだから!だから、三千円は私の身を守る最低限のお金なの。私の命は三千円の価値しかないのかな?


 …苦しいよ…。


 だからね、某SNSにアカウントを作ったの。で、冒頭の言葉を呟いてみたら、瞬く間にリプがついた。「大丈夫?支援出来ます。頼っていいよ。DMちょーだい」「どこ住み?良かったら、うちの一室貸します」「写メくれたら10Kを手始めに」そんなのばっかだった。世の中、クズばっかりだ。絶望した。私の言葉に耳を傾けて分かってくれる人なんか、この世に一人もいやしない…!

 どんどん増えてくリプの通知音が煩くて、アカウントはSNSのアプリごと削除した。


 それで気付いたんだよね。アプリを消すみたいに、自分を消しちゃえばいいんだ、って。だから、マンションの屋上に行ってみた。本当は立ち入り禁止で鍵がかかってた筈だけど、いつからか壊れて鍵が締まらなくなってたから。八階建てのマンションの屋上から、下を通り過ぎる人や車を眺めてた。この高さからは表情なんか良く見えない。歩きスマホをしてる人に交じって、歩きタブレットをしてる人を見た。なんて危なっかしい人なんだ、と思って見てたら、案の定、蓋の外れた側溝に落ちた。笑った。近くで見てて笑ったら刺されてたかもしれないけど、ここからなら平気だ。私は世界の傍観者になった気分で屋上での時間を過ごした。そうして心を落ち着かせてから、そっとフェンスに手を掛ける。手が震えるけど金網に足を掛けて上体を起こし、下を覗きこむ。その度に足がすくむ。怖い…。体が震える。だから、まだ…。飛び降りるのは、また今度…。そう自分に言い聞かせて、フェンスから降りる。そう、本当に我慢の限界を迎えた時に、私はここから飛び降りたらいいんだ。そう言い聞かせて、呼吸を落ち着かせる為にフェンスに寄りかかり、空を見上げた。名前を知らない鳥が翼を広げて、気持ちよさそうに飛んでいた。


 いいな…。私にも翼があったら、こんな所から飛び立てるのに…。


     **********


 ぼーっとしてた。

「は~ぁ…。」

 ゆっくりと吐息が洩れた。こんなにゆっくりのんびりした時間を過ごせたのは久しぶりだ。家に自分の部屋はあるけれど、壁は薄いし鍵も無いから、パパとママの争う声がする度にビクビクして落ち着かない。そう、両親は現在、一触即発状態だ。何かあると「お前とは離婚だ!」「あの子はどうするのっ!?」って始まる。そういうのはさぁ…、子供のいない所でやってくれたらいいのに…。全部こっちに丸聞こえだっつーの!

 そんでもって、言い争った翌朝。家族三人は一緒の食卓にいるのに「ユキ、母さんにスーツをクリーニングに出しとくよう言っといてくれ」と父が私に言い、「パパに自分で会社に行く時出すように言っといて頂戴」ってママは私に言う。私は二人の板挟みだ。心がギュッと苦しくなる。学校で疲れて帰宅して、家で更に疲弊する。私に安息の場所は無い。

 私の事なんかどうでもいいから、離婚するならサッサとしてくれたらいいのに…。ママにそう言ったら「貴方の為を思うと離婚出来ないのよ」って言われた。そんなの嘘だ。ママは現在パートで午前中だけ働いてる。そこそこ稼いだ分を自分のお小遣いにあてて、パパと私がいない日中に家で韓国ドラマを見る気楽な生活を手放したくないだけだ。大人はいつも人を言い訳にする。


 近くの小学校からお昼を知らせるチャイムが聞こえて、我に返る。そういや、少しお腹が減った。道一本挟んで目の前にあるコンビニにお昼を買いに行くべきか?でも…、この部屋を一歩出たらこの緩やかな時間の魔法が解けてしまう気がした。私はテーブルの上に残ってたフィナンシェを手に取った。「いただきます」と言って、それを食べた。昨日よりも濃くバターの味を感じた。

「は~。まだ生きてるや…。」

 昨日、トリちゃんが言った科白を言ってみた。それから、昨日トリちゃんがしたみたいにお湯を沸かして紅茶を淹れて飲んだ。トリちゃんみたいに大人になったら人生は楽しいのかな?まだ社会に出て働いた事が無いから分からない…。私は生まれた時から、このマンションに住んでいる。たまに入れ替わりがあるけど、ほぼ変わらない人間関係の中で生きて来た。ママやパパの年代はベビーブームで同年代が沢山いて大変だった、って言うけど良く分からない。私達の世代だって、それなりに厳しい競争もあるし、大変だと思う。


 一息ついてから、私は部誌のノートを手に取った。今日の日付を書いてから続けた。

『お昼にフィナンシェと紅茶を勝手に食べたので、五百円置いときます。

 お風呂場で練炭自殺はどうですか?あ…でも、マンションだと他の部屋に被害が出るでしょうか?レンタカー借りるのは、レンタカー会社の人に迷惑になるから駄目ですかね?』


 そこまで書いてシャーペンを置いた。なんだか今日は勉強する気がしない。目の前にある段ボールを見た。「片づけを、手伝ってくれてもいいんだからね?」と言ったトリちゃんを思い出して、一念発起した。べりッと勢いよくガムテープを剥がした。中には文庫本が沢山入っていた。中原中也、立原道造、萩原朔太郎、室生犀星、高村光太郎、三好達治、宮沢賢治…。どれもこれも日本文学史の教科書で名前を見た事のある人達だ。でも、詩集を読んだ事は無い。私は物語が好きなので、ただ文章を羅列した詩と言う物に興味が無かったのだ。ただ、小学校の時に暗唱させられた宮沢賢治の『雨ニモ負ケズ』だけは今だに覚えてる。「サウイウモノニワタシハナリタイ」という結びの一文を「なりたくない」と強く思いながら読んだ。だって、なんだか聖人みたいで、凡人の私には分からない。理解出来ないよ…。

 そんな事を思いながら、空っぽの本棚にどんどん並べていった。同じ出版社から出ている文庫だったので、背表紙が揃っていて気持ちがいい。気分よく並べていった。詩人が終わったら今度は『思考の整理学』『論文の書き方』といったハウツー物っぽいのが出て来た。それが過ぎたら今度は推理小説が出て来た。並べながら、トリちゃんの頭の中を垣間見ているような気がした。他人の本棚を見るのは面白い。気付けば六箱分開けていた。

「ふぃ~。」

 段ボールを潰しながら、綺麗に並んだ本棚を見て満足した。流石、図書委員、と自画自賛した。気付けばもう、夕方だった。

『勝手にですが、本棚の整理をしておきました。個人的には綺麗に出来たと思いますが、並べ方が気に入らなかったらごめんなさい。』

 そう書いてトリちゃんの部屋を後にした。


     Ⅲ


 翌日は朝、コンビニでお握りを買ってからトリちゃんの家に行った。カチリと鍵を開けて入る。小声で「お邪魔します」と不在の家主に挨拶する。

 リビングに行く時に通り過ぎた洗面所に、裏返しのシャツとストッキングが脱ぎ捨てられているのが見えた。

「大人なのに、だらしないの…。」

 そう呟いてリビングに入る。昨日と違い、テーブルの上にカップ麺などの食料が山積みになっていた。部誌のノートを見る。

『Dear・ユキ♡

 本棚の整理してくれてありがと~!!!めちゃんこ助かる!お菓子は勝手に食べていいから、五百円は持って帰りな~。片付けのバイト代として五千円おいとくね!あと、いちいちご飯買いに行かなくていいように食料色々買っといたから好きに食べていいよん♪冷蔵庫にはシュークリームとかのおやつからハムやウインナーまで揃ってるぜ!冷凍庫にはアイスや冷食各種も入ってるよ♪この洋食シリーズのパスタ美味しいから、チンして食べてみて♪リビングにあるのは自由に使って&食べていいからね!


 マンションでやらかすと事故物件になって某大手サイトに載ってしまうから駄目だ~!あと大事な事書いとく。マンションって一室一室独立してるように見えて、排水管とか全部繋がってるんだよ。知ってた?昔、私、いらない食器洗剤の捨て方が分からなくて、一気にトイレに流したら一階の人のトイレが泡まみれでえらいことになったらしく大騒ぎになって、犯人探しされてバチクソ怒られた!気を付けろ!!』

 そこまで読んで笑った。トリちゃん、何やらかしてるんだ…。シュンと頭を垂れたトリちゃんが容易に想像できた。大人なのに、しょーもな…。五千円には手を付けなかった。そりゃ、お金は欲しいけど…。お金目的でやった、ってトリちゃんに思われたくなかったんだ。


 今日も積まれた段ボールを開けてみる。今度は食器類が入ってた。新しく敷こうと思っていたのか一番上に新品のシートが入っていたので、ペンポーチから鋏を取り出して、食器棚の幅に合わせて切った。それから、おもむろに保護紙に包まれていた食器を一つ一つ出す。大皿は下、小鉢は上、という風に並べていった。可愛い苺のカップ&ソーサーも出て来た。出会った初日に言ってたそれなりの物はこれか、と思った。空っぽの棚に一つずつ食器を並べていくのは楽しい。自分が引っ越しした事がないから、それに対する憧れだろうか?途中で気付いた。ペアの食器が多い事に。もしかして、トリちゃんには恋人がいるのだろうか?恋人との品を勝手にいじられるのは嫌かも…。それに気づいて、出過ぎた真似をした事を反省した。はがした保護紙をまとめて段ボールに入れて、片付けは一旦終了にした。

 それから、今日は持って来た問題集を真面目に解いた。四月になったら、私は受験生だ。今度こそ、志望の大学に行けるようにちゃんと勉強しておかないと…。行けなかった高校の受験日を思い出すとお腹がしくりと痛くなる。

「痛っ…」

 何だか本当にお腹が痛くなって、トイレに駆け込む。真っ赤な血が流れた。マンスリーディだ。どうして?まだ前回からそんなに経ってないのに…、と慌てる。戸棚に置いてあったポーチが目に入った。「ごめん、トリちゃん」そう言って、ナプキンを勝手に拝借した。助かった。

「はぁ…。」

 予期しなかったものが来てしまうと憂鬱だ。勉強する気が無くなった。

 リビングに戻った私は床に転がった。背中が痛い。思い付いて昨日潰した段ボールを広げて、その上に横になる。床に直に寝転がるより幾分マシだ。あと…気のせいか、じんわりとあったかい。ホームレスが段ボールハウスに住む理由が分かった気がした。サッシから差し込む春の陽も暖かい。私はそのまま目を閉じた。あぁ、春って…、なんだか眠い、ねむぅい…。


 眩しくて目が覚めた。部屋に西日が差していた。いつの間にやら寝ていたようだ。私は慌てて飛び起きる。時計は四時半を差していた。どうやら、お昼も食べずに寝こけていたらしい。床に段ボールで寝たからか、体が痛かった。だけど、頭はものすごくスッキリしていた。

「よいしょ…」

 上体を起こし、立ち上がる。その瞬間、どろりと経血が一気に落ちるあの感覚。慌ててトイレに駆け込む。洩れずに済んで良かった、と思いながら手を洗う。お腹が空いた。朝買ったお握りがあるけれど、トリちゃんが美味しいと書いていた冷凍パスタが食べたくなって、冷凍庫を開ける。人の家の冷凍庫を開けるなんて初めての体験だ。「いい?よそんちで勝手に冷蔵庫やクローゼットの扉を開けちゃダメよ!家に上がる時はちゃんと「お邪魔します」って言うのよ」って幼稚園の頃からママに言われて育ったから。

 ズラッと冷凍食品が並んでた。トリちゃんはこんな物ばかり食べてるのだろうか?気になったが、カニのトマトクリームが美味しそうだったので、それにした。包装に書かれている通りに電子レンジにかけてから、シンクに出しっぱなしになってた食器を洗って、そこに出す。フォークは見つからなかったから、テーブルの上にあったコンビニの割りばしで食べた、普段、自分の家の食卓に出ないメニューだったからか、すごく美味しく感じた。トリちゃんがオススメするだけあった。


『カニのトマトクリーム、確かに美味しかった。御馳走様です。急に生理が来たのでナプキン勝手にもらいました。すみません&ありがとうございます。

 食器、途中まで出したけど、ペアのとかあって、思い出の品かもしれないのに勝手に触ってごめんなさい。あと、ここで過ごさせてもらえるだけでありがたいから、お金はいりません。

 

 えぇと。カッターで手首を切るのはただのリスカだから、死ぬには程遠い?切るなら頸動脈?でも、昔の人が切腹に使った刀みたいに切れ味のいい包丁ってあるのかな?』

 そこまで急いで書いて、トリちゃんちを後にした。


 夕飯後にチャイムが鳴った。トリちゃんがクリーニングに出した制服を届けに来たんだ。

「こんばんは。これ、クリーニング終わったので届けに来ました。」

「まぁまぁ。ご丁寧にありがとうございます。」

 にこやかにママが挨拶する。トリちゃんはママのいる所で私に声を掛けた。

「あの…。もし明日、ご家族でのご予定が無ければ、ユキさんと二人でドライブに出かけてもいいですか?」

「構いませんよ~。春休みだってのにこの子ったら、友達と遊ぶ訳でもなく図書館に行ってばかりなんで、外の空気を吸わせてやって下さい。」

 ひどい言い草だ。

「では、遠慮なく。なら、今からパジャマパーティしていいですか?」

「え?今からですか?」

 ビックリしたママが何か言う前に私は答えた。

「さんせーい!今、パジャマ持ってくる!」

 そう言って、大急ぎでリュックに下着とパジャマ、明日切る服に財布とスマホを突っ込んだ。

「行って来ま~す!」

「では、失礼いたします。」

 ぺこりと頭を下げるトリちゃんと手を振る私を、ママはぽかんと見ていた。


「ユキ。食器片づけてくれてありがとね。ペアのとか、気にしないから全然平気!私、今独り身だから!」

 エレベーター内でトリちゃんがそう言った。

「なら、良かった…。あ、あのね!私、お泊り会なんて、小学校以来だよ!」

 私は少しはしゃいで言った。もうすぐパパが帰って来る。今日はあの二人の言い争う声をBGMに眠りにつかなくていいんだ、と思ったら、楽しい気持ちになったんだ。


 トリちゃんちに、本日二度目の「お邪魔します」を言った。

「そんな堅苦しい挨拶しなくていいから、入った、入った。」

 そう言って、カチリとしっかり鍵とチェーンを掛ける。

「戸締り、大事!ユキも日中いる時はちゃんとチェーンをかけときなよ。さ~て、私、夕飯まだだから食べていい?」

「どうぞ、どうぞ。」

「ユキはお風呂に入ってる?」

「あ、じゃあ沸かしてくる。」

 軽くお風呂場の掃除をしてから、うちと一緒のタッチパネルの自動の湯はりボタンを押した。

 リビングに戻ると、トリちゃんが冷凍パスタを食べながら、部誌のノートを見ていた。

「ユキ。お主、ダジャレの才能があるな。」

「え?何、急に?」

「カニのトマトクリーム、たし“かに”美味しかった。」

 そう言って、トリちゃんは笑った。自分では気づいてなかったが、確かにダジャレになっていた。あはは、と面白そうにトリちゃんは笑う。笑いの沸点が低いのかもしれない。

「ナプキンとかは気にしないで自由に使って。あのね、ユキ。私、持ってる百万使い切ってから死のうって決めたから、これを部費にして色々活動しようぜ!」

「え?」

 ビックリした。

「だから、手始めに明日は死に場所を探すドライブに行こうぜ!」

 陽気に言った。


 夜。リビングではなく、トリちゃんの部屋で一緒に寝た。トリちゃんはベッドではなく布団派だった。客用布団もちゃんとあったから私は段ボールで寝ないで済んだ。並べてひいた布団に入って話す。

「明日、どこ行くの?」

「風の吹くまま、気の向くまま…な~んて、うっそ~!ホントは今日、営業先で面白い場所を聞いたから、ユキと行きたくなっただけだよ。ヤッホーポイントって知ってる?」

「…知らない。」

 首を振る。思えば、うちの家族で旅行なんてもう長い事行ってない。パパは休日も仕事だったり、ゴルフだったり。ママはいつもは家にいるくせに、パパのいる休日はやたらと遠くのスーパーまで買い物に出掛けて、なかなか帰って来ない。夫婦関係はもうとっくに破綻しているのかもしれない。

「なんかね。ダムの所にあって、綺麗なやまびこが返ってくるんだって。そこで叫んでスッキリしようぜ!」 

「ヤッホー!って?」

「アッホー!でもいんじゃね?」

 トリちゃんはウシシとまた白い歯を見せて笑った。なんだろう?トリちゃんと話してると、たまに小学一年生に戻ったみたいな感覚になる事がある。あの頃はまだ、誰かを標的にいじめたりいじめられたり、って無かった気がする。ただただ毎日が楽しかった記憶。いつから、人は誰かをターゲットにして鬱憤を晴らすようになるんだろうか?もう覚えてないや…。

「ユキ…?」

 トリちゃんの声がした。

「ん?」

「大丈夫?」

「うん…。へーき。」

 そう言ったのに、トリちゃんはむくっと起き上がると押し入れから毛布を取り出してきて、私にかけた。

「そんなにかけなくても寒く無いよ?」

「あ、あのね…!淋しかったり、心細かったりした時、人は誰かに抱きしめてもらうと安心出来るんだって!でも、いつも抱きしめてくれる人がいる訳じゃないでしょ?そういう時はね、毛布にくるまるといい、って聞いた!」

 そう言って、かけた毛布の上からギュッと私を抱きしめてくれた。

「ユキは…大丈夫だよ。私がいるもん…。」

「うん…。」

 なんでかな?トリちゃんと私は赤の他人なのに、本当のお姉ちゃんのような気がしたよ。トリちゃんの家の空気はあったかくて優しくて、私はそのままストンと眠りについた。夢も見ないで、ぐっすり眠れた。


     Ⅳ


「おっきろ~!」

 朝から、トリちゃんはハイテンションだった。

「とりあえず、朝ご飯はコンビニでパンでも買おうぜ!顔を洗って着替えたら、れっつらご~!」

「ん…。」

 朝が弱い私はもそもそ顔を洗って着替えた。

「おふぁよぉ…ございます…」

 欠伸をしながら言ったら、「おっはよ~!」と元気な声が返って来た。

「今日はJST部初の遠征だからね!気合入れていくぜ~!」

 両肩をぐるぐる回して、元気いっぱいだった。

「必要な物は持ったか?橘髙?先ずは、すぐそこのコンビニでご飯とおやつを調達するのが第一ミッションだ!金は気にするな!私の百万がある!ど~んと!まかせんしゃい!」

 ダジャレを挟みながらそう言うと、元気に右手で胸を叩くポーズをした。

「じゃ、お言葉に甘えて…」

 私達は一緒にコンビニに入った。オレンジのカゴにハムサンドとウーロン茶のペットボトルを入れる。トリちゃんは鮭お握りとメロンパンと緑茶のペットボトルを入れてから、お菓子コーナーに行った。グミとチョコとおつまみ昆布を入れる。

「ユキは?」

「じゃあ、これ。」

 レモンピールを入れた。

「りょ。唐揚げも食べる?」

「朝から揚げ物は無理…。」

「じゃ、また途中でお腹減ったら買お!」

 そう言って、元気にレジに並んでお金を払う。こんなに生命力に溢れている人が飛び降り自殺しようとしていた事実が、不思議だった。


 それから、駐車場にあった黒い軽自動車に案内された。

「じゃ~ん!こちらが私の愛車のワゴン君です。」

「あ、はい…。よろしくお願いします。」

 トリちゃんのノリにつられて、軽自動車に向かって挨拶してしまった。そんな私を見てトリちゃんは目を細める。

「はい、乗った、乗った~!」

 ちょっと固いシートに乗り込む。パパの車と比べると少し車高が高い。

「では、出発シンコー!」

 元気な宣言と共に、軽自動車が動き出す。いつもの見慣れた道路が、車高のせいでか、少し違って見える。街路樹の葉っぱにいつもより距離が近い。運転席にいるトリちゃんはデタラメな歌を歌い始めた。

「よぉぉっく晴れた~、ど~よぉびだね~♪ウォウウォウ~♪ヤッホーポイント、さ~けんじゃうぞ~♪イェイイェイ♪」

「なぁに、その歌?」

「ヤッホーポイント待ってろよ、の歌。作詞作曲私、って感じ~?」

 そのまま歌いながら走って有料道路にのってから、朝食用に買ったご飯をお互い食べた。食後、しばらくしてからトリちゃんが言った。

「ユキ。折角の休日に、付き合わせてごめんね。」

 前を見たまま、トリちゃんは言う。すぐ隣にいるけれど、目の合わないこの距離感が私には心地良かった。これなら、緊張して言葉に詰まる事もない。私はゆっくり口を開く。

「ううん…。私、毎日ずっと同じ場所にいて退屈だったから、こうしてお出掛け出来るの嬉しいよ。」

「そぅお?なら、良かった。」

 嬉しそうにトリちゃんは言う。

「それなら、これからもユキを誘うね。少なくとも、私が百万を使い切るまではJST部の活動は継続だからね!分かった?」

「うん…。」

 返事をした後に、やっぱり気になったから聞いてみた。

「あ、あの…。その百万って、大丈夫なお金なの?」

「だいじょうぶ、とは?」

 言ってる意味が分からない、という感じでトリちゃんが聞き返してきた。

「そ、その…。まさかとは思うけど、ぎ、銀行強盗したりとか…」

 そこまで言ったら、トリちゃんがブハッと吹き出した。

「ウケる~!!何?ユキは私が強盗か何かして手にしたヤバいお金だと思ってんの?そ~んなワケないじゃん!強盗するなら、もっと大金狙うよ~!百万で人生棒にふれないよ!」

 そう言って、しばらくケタケタ笑ってた。

「は~、は~…。おっなかいた~い…。やっぱ、ユキは面白いわ…。」

 笑い疲れて、涙目になってた。それから言った。

「私さ~、ユキみたいな妹が欲しかったんだ~。」

「そうなの?」

「うん。親が離婚したからか、私、家族にすっごい憧れがあるんだよね~。お父さんがいて、お母さんがいて、お兄ちゃんかお姉ちゃんがいてもいいし、妹か弟がいてもいい。そういう…絵に描いたみたいな家族に憧れてた。」

「ふぅん…。うちは三人家族だけど、確かにお姉ちゃんとかがいたら良かったな~、って思うな。末っ子って甘やかしてもらえそうじゃん?」

「確かに~!大学の時も、甘え上手な子は末っ子率が高かったわ!」

 うんうん、と頷きながらトリちゃんは言う。その整った横顔を見て私は思う。

「トリちゃんは美人だから、モテそう。だ、だからさ!結婚して、素敵な家族を作れるよ、きっと!」

「ありがと~!でもさ…。私、男見る目が無かったんだよね~。」

 前を見たまま、自虐的に言った。

「私ね、結婚しようと思って付き合ってた人がいたの。取引先の人でさ、二個上の。向こうから付き合おう、って言って来たから、私は「結婚前提ならいいよ」って言って…。向こうも了解してくれて付き合う事になって、私は浮かれてペアの食器を買い揃えたりしてたワケよ。でも彼は「仕事が忙しい」って言って、うちには全然来てくれなかった。一年経っても一向に結婚の話を出さないから、私が「親に紹介したい」って言ったら急に焦り出してさ…。それからしばらくして、うちに知らない女の人が訪ねて来たんだよね…。ドアを開けたらいきなり「この泥棒猫!」って言われてビンタされてビックリした…。彼、結婚してたの。私は知らない間に不倫相手にされてたワケよ…。青天の霹靂って、ああいう事を言うんだろうねぇ…。向こうの奥さんが「慰謝料を請求する」とか言い出した時は焦ったけど、良く考えたら騙されてたのは私だったから、逆に彼を訴えてやったわ。メッセのやり取りは全部保存してたから、それが証拠になった。既婚なのを隠して結婚の約束をしてた時点で向こうが有責になった。それで、慰謝料に百万円をもらったの。腹が立ったわ。私の人生設計を狂わしておいて、これかよ!って。しかも、相手が取引先の人間だったから、向こうが有責なのに、私が社内で鼻つまみ者になった。社内の風紀を乱したとか何とか言われて、丁度欠員が出るからって、こ~んな辺鄙な営業所に飛ばされたの。しっかも!私が仕事を引き継ぐ人は寿退職でね…。嫌味たっぷりに「大鳥さんにも、幸せの御裾分けです。あ、うちの家庭は壊さないで下さいね」って、あのフィナンシェを渡して来たのよ。マジムカツク、あの女~!!」

 怒髪天だった。丁度そこで、有料区間を抜けた。

「私はさっ!人の家庭を壊したりするつもりなんか全っ然無かったよっ!自分が結婚して幸せな家庭を作りたかっただけなのにっ!あのクソ男のせいでっ!!ムカツクッ!嘘つきっ!あんな奴、死ねばいいんだ!ムカツクッ!ムカツク!私の時間を返せ~!!!うう~…」

 ヤバい…。絶叫したトリちゃんが泣き出した…。トリちゃん自身もヤバい、と思ったのか、沿道にあったコンビニに一旦入った。

「ムカツク、ムカツク…ッ!あのクソ男も、嫌味なあの女も会社の奴等もみんな嫌い!あんな奴に騙されたバカな自分も大っ嫌い~!!みんなみ~んな、消えて無くなっちゃえばいいんだ~!!うあああ~ん!」

 ハンドルに顔を埋めて泣き出した。

 こ、こんな時、私はどぉすれば…。かける言葉が見つからない…。トリちゃんに伸ばしかけた手を途中で止めて、私は足元のリュックに入れてたフリースを取り出した。寒かったら着ようと思って入れてきた物だ。それを泣いてるトリちゃんに被せた。車外の人から見えないように。それから、昨晩トリちゃんがしてくれたみたいにフリースの上からそっと抱き締めた。

「トリちゃん…。泣かないで…。トリちゃんは、何にも悪い事してないじゃん。大丈夫だよ。」

 小さい子に言い聞かせるようにそう言って、そっと背中をさすった。グスグスとトリちゃんは小一時間泣いていた。私はトリちゃんの背中をさすり続けた。


 漸く気持ちが落ち着いたのか、フリースの下からトリちゃんが顔を出した。泣き腫らした目が兎みたいに赤かった。

「…ユギ…。ゴベンね…。」

 鼻水を啜りながら言った。

「折角、楽しいドライブにしようと思ってたのに…。ううっ…!い、嫌な気持ちにさせてごめんなさい…。」

「全然大丈夫だよ!嫌な事は叫んで忘れよ?その為に今日行くんだよね?ヤッホーポイント。大声で叫んで、ストレス発散しよ?」

「…うん…。」

 トリちゃんは頷くと、チーンと鼻水をかんだ。それからバックミラーで自分の顔を見て「うわっ!」と言った。

「やだ!化粧剥げてる…!ちょっとトイレでメイク直してくる!ユキもトイレ休憩!待ってる間にアイスでも食べてて!」

 そう言うと、私を車から降ろしてお財布を渡して自身はトイレに消えた。私も後でトイレに入ろう、と思いながらスイーツの棚を見る。ロールケーキにチーズケーキ、贅沢パルフェにマカロンと色とりどりだ。ぼんやり見ながら、トリちゃんのさっきの話を思い出してた。大人にも色々あるんだなぁ…。そして、トリちゃんを騙したクソ男に激しくムカついた。


 化粧を直したトリちゃんと入れ替わりに私はトイレに入った。真っ赤な経血が泣き腫らしたトリちゃんの目みたいだった。トリちゃんの怒りと悲しみを流すように、私はトイレの水を流す。緩やかに渦を巻きながら赤い色は消えていった。人の感情も、こんな風に綺麗に流せたらいいのにな…。


 トイレから戻るとトリちゃんは、唐揚げを手にしていた。

「ユキは?何買うの?」

「あ、じゃあ、これ…。」

 私はマカロンを差し出した。ピンクと黄緑。春めいた二色のスイーツ。

「りょ。」

 トリちゃんがレジでお金を払ってから渡してきた。

「たくさん泣いたら、お腹がすいちゃった!」

 いつもみたいに子供のような笑顔でそう言い、車止めのポールに座るとあっと言う間にたいらげた。それから勢いよく立ち上がって、店内のゴミ箱に今食べたばかりの空容器を捨てた。

「よっしゃ!気を取り直して。行くぞ、ユキ!」

 どうやら、気持ちが浮上したらしい。いつもトリちゃんに戻った。良かった…。トリちゃんは泣いてるより、そうやって元気でいる方がずっと似合ってる。


 どんどん自然豊かになっていく山道をトリちゃんの軽自動車・ワゴン君は走る。やがて、赤い鉄柱にヤッホーポイントと書かれているのを発見した。

「ここか…。」

「どうやら着いたようだな…。」

 トリちゃんが車を止めて窓を開けると、微かに「…ヤッホー」という声が聞こえた。私達は奥を見て絶句した。

「これは…。」

「なかなか…。」

 向こうの島(?)へと続く長い吊り橋が見えた。ごくり、と私は唾を飲む。

「あ。お姉さん達、向こうに駐車場がありますよ。」

 通りかかったグループにそう言われ、私達は駐車場を目指した。車を止め、十分程歩いて先程の場所へ戻る。

「う~わ~…。これは…恋が芽生えちゃうスポットだねぇ…。」

 向こうを見渡してトリちゃんが言う。

「い、行くの?」

「もっちろん!その為に来たんだ。それに、ユキ。考えようによっては、ここはJST部の活動に相応しい場所だと思わんか?やがて来る飛び降りの日の為に、恐怖心を捨て去る訓練だ!行くぞ!」

 そう言って一歩を踏み出した。私も恐る恐る踏み出した。かなりの高さ。下は一面の水だ。怖い…。吊り橋は周りに何も無いからか、マンションの屋上より心細い。だって、マンションは地上に立ってるけど、これは橋なのだ!床板の下には何も無いのだ!

 ちょっとずつ手摺に捕まりながら私達が漸く橋の三分の一まで進んだ時、背後から「すげー!」と声がした。振り返ると、小学生と思しき兄弟がこちらに向かって走ってくる。その走りが伝わって、そんなに幅の無い橋が振動する。

「ひえっ!」

 私とトリちゃんは端に避けた。(シャレではない。)橋の床板の中央は塞がっているが、両端はメッシュ加工になっているので、下が見える。恐怖心が増した。そんな私達を見て「ダッセェ!大人なのに、ビビってやんの~!」と言いながら、兄弟が走り抜けた。暫くしてから「うちの子達がすみません…」とへっぴり腰の両親もやって来た。

「ここ、思ったより怖いですよね…」

「ええ…」

 そんな会話をして橋の振動が収まるのを待ってから、私達は再び進み始めた。恐怖心を紛らわせる為に口を開いた。

「子供ってすごいね…。怖くないのかな?」

「ん~。怖くない、というか…。まだ怖さを知らないんだろうねぇ…。」

「怖れを知らない、ってヤツ?無敵か~。」

 感心したように私が言うと、トリちゃんは言った。

「それはちょっと違うんじゃないかな…。あれは無敵と言うより無謀に近い。ちょっと話は違うかもしれないけど、最近はタワマンで育つ子もいるワケじゃん。小さい頃からそういう所で育った子は、高さに対する恐怖心が欠如してるらしいよ。」

「そうなの?すごいね…。」

 この高さですらビビりちらしている私が言うと、トリちゃんは振り返って私を見て言った。

「本当にそう思う?私はとても怖い事だと思うよ。人は自身の生命を脅かす物に対しての恐怖心を持っていたから、警戒して生きてこられたんだ。高所恐怖症は人として正常な感覚だと思う。むしろ、高所平気症が異常なんだよ。だから、たまにタワマンから子供が転落する事故が起きる。高所は危険、っていう認識が欠けているんだ。」

 言われてみれば、確かにその通りだと思った。


 漸く対岸に辿り着く。一仕事終えた気分だ。やまびこのコツが書かれた看板に従い、私達は声を張り上げた。

「ヤッホー!」

 返事がない。あれ?っと思っていたら、しばらくしてからやまびこが聞こえた。

「……ヤッホー…」

 面白い。思ったより、タイムラグがあるんだな。

「ヤッホー!」「……ヤッホー…」「アッホー!」「……アッホー…」「ヤッホー!」「……ヤッホー…」

 馬鹿みたいに叫び続けた。叫び続けて喉が痛くなった。二人揃って腰を下ろした。

「お~もしろ~いね~♪」

 私の顔を見て、歌うようにトリちゃんが言う。

「うん!来て良かったね!連れて来てくれてありがとう。」

「うん。どういたしまして…。そうだ!最後に…。」

 そう言うとトリちゃんはすっくと立ち上がり、また大声で叫んだ。

「バッカヤロー!!!」「…バッカヤロー…」

 声が木霊した。

「はぁ~っ!スッキリした!もういいや。あんなクソ男の事なんか綺麗サッパリ忘れてやる。」

 そう言って、大きく伸びをした。

「ユキ。帰ろう。」

「うん…。」

 またあの揺れる吊り橋を渡るのか…。でも、この高さでビビッていてはもっと高いビルの屋上から飛び降りるなんて、夢のまた夢だ。だから、頑張った。帰りにかかった時間は行きよりずっと短かった、と思う。

 帰りは、トリちゃんの奢りで花の名前の焼き肉屋に入った。グルメ番組で良く耳にする「脂が甘い」を初めて体感した。美味しかった。


 自宅に戻ったら、珍しくパパとママがリビングで一緒にテレビを見てた。

「おかえり。遅かったな。どこまで行ってたんだ?」

「ヤッホーポイント。」

「何それどこ?」

「あのね…」

 そんな感じで、物凄く久し振りに家族団らんの時間を過ごした。穏やかな時間だった。トリちゃんのおかげだ。夜、自分のベッドに入ってから、トリちゃんはああいう時間が欲しいんだな、って思った。


     Ⅴ


 今日もトリちゃんちに行こうと思っていたのに、珍しくパパが「ボウリングに行こう」と言い出した。ママも「いいわね。負けないわよ」なんて言い出して、急遽出掛ける事になった。想定外だ。家族でレジャーなんて小学校の時以来で、なんだか恥ずかしい…。でも、行ったら行ったでなかなか面白かった。パパがボウリングが上手い事を知った。発見だった。

「四月になったら、ユキは受験生だからな。もう、こうして遊びに来ることもなかなか出来ないな」って言われた。お昼はちょっといい中華屋さんに入った。クルクルと回るテーブルが面白かった。小籠包とくるみのお汁粉が美味しかった。

 パパとママが「昨日のドライブのお礼に」ってトリちゃんに月餅の詰め合わせを買ったので、帰宅後、トリちゃんちに一人で行った。チャイムを鳴らす。暫くして「はい…」と返事があった。「橘髙です」「開けて入って~」そう言われたので、合鍵で開けた。パジャマ姿のトリちゃんがいた。

「おそよ~…。昨日、張り切り過ぎて、今日はさっきまで寝てた…」

 ふわぁ…と欠伸をしながら言う。

「昨日、運転頑張ってくれたもんね。お疲れ様でした。これ、昨日のお礼に、ってうちの両親から…」

 そう言って、月餅の詰め合わせを渡す。

「蟻が十匹ありがとう。別にいいのに…。でも、有難く貰う。ご両親によろしく。」

「うん。あ、お茶入れるよ!」

 そう言って、私は勝手知ったる台所でお湯を沸かし、お茶を淹れた。

「はい、どうぞ。」

「はい、どうも。」

 カップを受け取り、ずそーっとすする。

「はぁ…。今日も世界は平和だねぇ…。お茶が美味い。」

 年寄りみたいな言葉を言った。月餅を一つ取って齧ると、こっちを向いて聞いてきた。

「ねぇ、ユキ。この県に来たらここに行っとけ、みたいな場所ってある?」

「あるよ~。そうだなぁ…、やっぱ、一番はパンダでしょ!」

「パンダか…。上野で見たなぁ…」

 懐かしむような目で言ったから、私は県民ならではの優越感で胸を張る。

「あ~んなガラス越しに並んで見るパンダとこっちのパンダを一緒にしないでもらいたい!こっちのパンダは、至近距離で見られるんだから!しかも複数!こっちのパンダ見たら、上野のパンダなんてかすんで見えるんだからね!」

「へぇ~。言ったな?」

「言ったよ!」

「よしっ!来週はパンダに会いに行こうぜ!」

「ええっ!?あそこ、入園料高いよ?」

「それがどうした?私は百万を使い切る女だから、高くたって平気だよ!ユキ、一緒に行こうね♪」

 そんな訳で、来週はパンダを見に行く事になった。昔、家族で行った経験を踏まえて朝イチで入園するのが望ましい事を伝え、また前日からトリちゃんちに泊まって、余裕を持って朝七時出発の予定を立てた。


 そして平日は、トリちゃんの家で勉強をした。成績を落として、トリちゃんと一緒にいるのが悪影響だと咎められたくなかった。黙々と問題集を解き、お昼ご飯にトリちゃんお勧めの冷凍食品を食べた。そうして、思いついた事を部誌のノートに書いた。トリちゃんも必ずノートを書いてくれていた。


     *********


 土曜の朝。目覚ましが鳴った。

「…うるさい…」

「うん…。うるさい…。……だが、起っきろ~!」

 そう言うと、トリちゃんはシュタッと飛び起きた。

「キュピーン!今日はパンダに会いに行く日だ!うひゃっほぅ!」

 そう言うと、バタバタと洗面所に駆けて行った。それを聞いて、私はあぁそうだった、今日はパンダを見に行くんだっけ、と思い出す。欠伸を噛み殺しながら、布団の中で伸びをした。着替えて、先週のようにワゴン君に乗り込む。

「ユキ。眠かったら、寝てていいんだからね。」

「うん…。ありがと…。」

 朝が弱いのでお言葉に甘えた。シートベルトを締めて、シートを後ろに少し倒す。車の振動が程よく私を眠りに誘う。


「…~♪」

 歌声で目が覚めた。トリちゃんがご機嫌で歌ってた。私が目覚めた事にはまだ気づいてないようだ。もう少しトリちゃんの歌を聴いていたくて私は目を閉じる。知らない歌だ。ロックかな?

「~シャニスターダッ!」

 トリちゃんがシャウトした所で、私は体を起こした。

「あ…、ゴメン…。うるさくて起こしちゃった?眠気覚ましに歌ってたんよ。」

「ううん、良く寝た。その曲、なぁに?」

「あ~、今の子は知らないよね…。てか、私の同年代も知らないんだけどさ…。これ、私のママが好きだった曲。マイナーな歌手なんだけどさ、小さい頃よく聞いてたから今でも覚えてる。少し前に音源が欲しくなって検索したら、8センチCD?とかいう訳分かんないのが出て来て、プレイヤーで聞けるか分からなかったから買うのやめたんだけど、それからしばらくしてネットに落ちてるの見付けて、また聴くようになったんだ~。歌詞が好きなんだよね~。自分が知ってる事だけが全部じゃない、頑張ろう、って思わせてくれる。私にとっての戦闘曲だね。」

「へ~。」

「ユキは?何か心震わせる歌詞とかある?」

「ん~…。特にないかな?特に好きな歌手もいないし。そもそも私、詩って読まないし。」

 そう言ったら「それは残念」と返って来た。

「残念?」

「うん。私、国文科卒だから。現代詩の研究をしてたんだ~。」

「へぇ~。あ!でも、あれだよ!小学校で暗唱させられた『雨ニモ負ケズ』はいまだに言えるよ。」

「あぁ、まだ暗唱させられるんだ、アレ。私、あの詩嫌い。宮沢賢治ならさ、『春と修羅』が一番いい!『春と修羅』を読みなよ、貸してあげる。」

 そう言って続けた。

「『いかりのにがさまた青さ 四月の気層のひかりの底を 唾し はぎしりゆききする おれはひとりの修羅なのだ』。うん、まだ覚えてるな。流石、私。」

「それが『春と修羅』?『雨ニモ負ケズ』とだいぶ印象が違うね?」

「そうだね。中原中也も絶賛してた。」

「へぇ~、そうなんだ…。」

「ま、詩人同士の繋がりなんか、私にはどうでもいいんだけどさ。この詩集は春になると読み返したくなる一冊だね。だから、今読むのにちょうどいい。」

「ふ~ん。今度、読んでみるね。」

 トリちゃんちの本棚を思い出して私は言った。

「ん。好きに借りてって。」

 そんな事を話してたら、目的地に着いた。まだ十時の開園前だってのに、駐車場はいっぱいで、沢山人が並んでいるのを見てトリちゃんはビックリしていた。

「すげ~!田舎だと思ってたのに、どこにこんな沢山の人間がっ!?」

「ちょ…!恥ずかしいから、騒がないで…。」

「ゴメン、ゴメン…。いや~、これは確かにユキが言うように早く来て正解だったわ!」

 そんな話をしながら開園を待つ。入園料の高さにトリちゃんはビビッていた。

「高っ!」

「高いけど、充分満足出来ると思うよ。」

 そう言って、パーク内に入る。トリちゃんは真っ先にパンダに会いに行った。


「すご~い!ちか~い!かわい~!」

 三歳児みたいな語彙で、芝生にで~んと転がるパンダを見てトリちゃんは大はしゃぎだった。

「ユキ、見た?ジャイアントパンダがササ食べてる!」

 そう言いながら、スマホでパシャパシャ写真を撮っていた。

 キリンにエサをあげ、サファリゾーンでライオンを見、イルカショーを堪能したトリちゃんはハンバーガーを食べながら言った。

「いや~、ここすげぇ!田舎なめてた。入園料に超絶見合う施設ですわ!これなら朝から一日満喫出来る。」

 満足げにオレンジジュースを飲む。

「気に入っていただけて何よりです。」

 ポテトを齧りながら、私は答える。トリちゃんが楽しそうで何よりだ。オススメして良かった。

「いや~、ここのパンダ知っちゃったら、上野のパンダをありがたがってた私が馬鹿みたい。こっちのパンダはいいなぁ…。のびのびしてて楽しそう。そりゃ、ストレスなく繁殖もするワケだ、うんうん…。」

 食べ終えてゴミを捨てると、パークの案内図片手にトリちゃんは言った。

「よっし!ジェットコースターもスペースファイターもトライするぞ!ついてこい、ユキ!」


 散々遊び倒してから売店を覗く。ぬいぐるみをはじめとするお土産グッズが所狭しと並んでいた。その一角でトリちゃんは足を止めた。

「ユキ!このTシャツ、部Tにしようぜ!」

 そう言って、指差された先にはパンダのTシャツがあった。六×八段に渡って、小さなパンダの全身イラストが配置されている。良く見ると全部同じ絵柄ではなく、こっちを見ているパンダや、間違い探しのようにシロクマとバクが紛れてた。

「かわいい…。あ、こっちにライオンバージョンもあるよ。トリちゃん、こっちでも良くない?」

「は?JST部と言ったら、パンダに決まってるでしょうが!」

 声を荒げてトリちゃんが言った。

「なんで?」

「なんで、って?そんなん、パンダは白と黒の葬式カラー…むぐっ!」

 チビッ子やカップルが楽しんでお土産を選んでる場所でなんて事を言い出すんだ!と私は慌ててトリちゃんの口を手で塞いだ。

「白と黒の組み合わせ、かわいいもんね~♪じゃ、こっちにしよ!」

 変な事は言わないように、と目で訴えながら私はトリちゃんの口から手を離した。トリちゃんのこういう所はダメな大人だと思う。それにしても…パンダを葬式カラーと表現した人は初めてだ。

 トリちゃんはTシャツと同じ柄のハンドタオルも買って戻って来た。

「はい。これはJST部の部Tとして支給しま~す♪パンダをうちの部のマスコットにしようぜ!夏になったら、これ着て活動しようね!」

 にゃはっと笑いながら言うトリちゃんを見て思う。


 部費の百万はそれまで持つのだろうか? 

 それまでにいい自殺方法は見つかるのだろうか?

 そして、同時に感じるチクリとした胸の痛み。

 この痛みは…なんだろう…?

 …分からない…。


     Ⅵ


 新学期に入り、私は高校三年生になった。この学校では三年生は委員会活動は無い。ほっとした。進路によって、文系理系に分けられたクラスには、小学校四年の時に同じクラスだった女子がいた。

「あ…。橘髙さん…」

 何か言いかけたその子の前を無言で通り過ぎて、席に着く。周りを遮断するかのように私は鞄から文庫本を取り出して読む。トリちゃんちから借りて来た宮沢賢治の詩集だ。


 ホームルームが始まって、新しい担任の挨拶。そして苦痛の自己紹介が終わる。後は普段通りの授業が続く。ノートを取りながら、ぼんやりと思う。私はいつまでここに通うのだろう?トリちゃんの百万を使い切ったら死ぬんだから、勉強するのは無駄じゃない?

 慌てて、頭を振る。いや…、例え一か月後に死ぬとしても成績を落とす訳にはいかない。ここで成績を落としたら、毎週末にトリちゃんと出歩いている事をきっと責められる。それはダメだ!トリちゃんは何も悪くない。時に子供みたいな表情を見せるトリちゃんが悪く言われるのは嫌だ。トリちゃんを守る為にも、勉強はしっかりやらないと。

 それになにより、トリちゃんと過ごす時間が今の私の生きる糧だった。学校にも家にも私の居場所はない。でも…、トリちゃんのワゴン君の助手席は私の居場所だ。あそこでなら私は、自分の言葉で色々トリちゃんに伝えられる。大事な居場所を、失う訳にはいかなかった。


 学校には朝一番に登校していた。ヤンキー達の朝は遅いからだ。委員会活動が無くなったから、放課後は掃除当番を終えたら、走って下校した。誰とも会話しなくても全然苦痛じゃなかった。JST部の部室であるトリちゃんの家に行けば、部誌がある。そこに今日の出来事や思った事を徒然に書いた。興がのった時はイラストも描いた。

 トリちゃんも必ず部誌を書いてくれていた。ときにそれは、会社での愚痴であったり、己がやらかした失敗談であったりした。大人でも間違える、大人でもやらかしてるんだから、コーコー生の私の失敗なんて大した事ないような気がしてきた。

 トリちゃんは私より年上だけど「ドンマイ!」と書いて励ました。

 模試で平均85点をとれた事を報告したら、見開きでカラーペンで滅茶苦茶誉め言葉が書いてあって嬉しかった。ママやパパに言っても「あ、そう。それで志望校の判定はどうなの?」で終わってしまう。私が欲しい言葉をくれるのは、トリちゃんだけだ。

 私は…トリちゃんの言葉でかなり自己肯定感を高めてもらえたと思う。それは、「死にたい」という衝動に駆られる私の精神安定剤でもあった。


 平日は会えないけど、休日はワゴン君に乗って、トリちゃんと二人あちこちに出掛けた。欧州をモチーフにしたテーマパークだったり、僻地にある温泉だったり。山の上にある巨大な墓地に行った時は、二人して車酔いして大変だった。

 四月の終わり。明日からゴールデンウィークだ。トリちゃんちで部誌を書いてから帰宅したら、ママがオロオロしてた。

「どうしたの?」

「あ、あのね…!お爺ちゃんが救急車で運ばれたって連絡が入って…!今、パパが会社からこっちに向かってるみたいなんだけど、ユキは一日に模試があるでしょう?ユキ一人を置いて、お爺ちゃんちに行くのは不安で…。あぁ、どうしましょ…。」

「もう十七だし、一人でも平気だよ。あぁ…、でも心配なら、トリちゃんに聞いてみる。トリちゃんちに泊まるならいい?」

「大鳥さん…!そうね…。お願い出来るかしら…?」

 ママはそう言うと、以前もらったトリちゃんの名刺を出して、電話を掛けた。暫く話して「では、お願い致します」と電話を切った。

「トリちゃん、何だって?」

「大丈夫です、って。ユキ、迷惑は掛けないようにね!」

「うん、大丈夫。」

 そこに、息を切らしてパパが帰ってきた。

「ただいま!父さんが倒れたって!?」

「えぇ。とりあえず、救急車で運ばれた病院に入院する事になったそうだけど…。とりあえず、入院に必要な物もあるし、一度ご家族の方が来て下さい、って…。」

「そうか…。じゃ、早速向かおう!今から、準備を…」

「荷物はもうまとめといたから、すぐ出られるわ。ユキは大鳥さんにお願いしてある。」

「分かった!ユキ、留守番を頼んだぞ!」

「うん。お爺ちゃん…大丈夫だよね?」

「あぁ。ユキの花嫁衣裳を見るまでは死ねない、が父さんの口癖だからな!」

「じゃあね、ユキ…。戸締りはしっかりね!」

 そう言うと、二人は慌ただしく出掛けて行った。ベランダから二人の車を見送って、室内に戻る。いつもはテレビの音やママやパパの生活音でザワザワしている室内が、しん…と静まり返っていた。

「お爺ちゃん…、大丈夫かな…。」

 高校生になってからはお盆とお正月にしか会っていない祖父を思う。会う度に、少し小さくなったように感じる祖父。もしかしたら祖父は今、死にとても近い場所にいるのかもしれない。

 とりあえず、今晩のパジャマと明日の着替え等の必要な物を鞄に入れて、しっかり施錠してからトリちゃんちに行った。


「ただいま~。」

 ガチャンとドアが開いて、トリちゃんが帰ってきた。

「おかえりなさい!」

 パタパタと玄関まで迎えに行ったら、トリちゃんがにっこりした。

「うわ~、いいなぁ!「ただいま」と言ったら「おかえり」と返ってくる生活!う~ん…、プライスレス!」

 そう言って、スーツから部屋着に着替えた。

「あ~!明日から休みだ~!うれし~!!!」

「お仕事、御疲れ様でした。はい、お茶どうぞ。」

「ありがと~!」

 冷食をチンして食べて、後はまったりと過ごす。

「あ~、明日はさ~。流石にゆっくりしたいから、家でダラダラすごそ~。」

「うん…。」

「ところで、お祖父さんは大丈夫なんかね?」

「分かんない…。もういい歳だし…。連絡待ち。」

「そっか…。大丈夫だといいね…。」

「うん…。お爺ちゃんね、昔から私の花嫁姿を見るまでは死ねない、って言ってた。」

「あ~!言うよね~!うちの母も言ってたよ。見せることなく、死んじゃったけど…。」

 ポツリと言った。

「え?」

 離婚したというトリちゃんの両親。話を聞く限り、トリちゃんは母親に引き取られた筈。その母親がもう亡くなっていたなんて…。

「…なんだよ、ユキ~。そんな顔するなよ~。」

「だって…。トリちゃんのお母さんが亡くなってたなんて、知らなかったから…。」

「あ~。人なんて、遅かれ早かれ死ぬんだよ。うちの母は人より少し早かった、ってだけ。バッカだよね~。生保レディで一生懸命勉強してさ、人様には病気に備えてこの保険に入った方がいいですよ、とか今の時代ならこの特約を付けた方がいいです、とかアドバイスしてたくせに自分は忙しさにかまけて健康診断もロクに受けなくてさ…。なんだかずっと体調が悪いってんで、漸く病院に行った時は、既にステージ4のガンだった…。電話で聞いてビックリした。それもあって、「親に会って」って言ったんだよね…。ま、後は前に話した通りなんだけどさ…。花嫁姿を見せるどころか、不倫の慰謝料で揉めてる娘を見て死んでったよ…。私はとんだ親不孝者だよね…。」

 そう言って、はぁ…と大きくトリちゃんは溜め息をついた。

「ト…、トリちゃんは悪くないじゃん!だました男が悪いんじゃん!」

「うん…。だからさ、ユキは悪い男にひっかからないようにするんだよ。私の話を聞いたユキがダメ男にひっかかるのを回避できるなら、私の失敗も無駄ではない。」

 上手く言葉が返せない私に、トリちゃんは続けて言った。

「若い時はさ~、周りに対する見栄もあって、ついつい顔のいい男と付き合いたい、って思っちゃうけど、人間大事なのは中身なんよ!ユキは外見に惑わされるんじゃないぞ!心根のいい奴と付き合うように!」

「…何それ…?」

「人生の先輩からのありがたい金言だと思うように!あ~あ!大学生の自分に言ってやりたいよ!「お前がフッたあのモサイ眼鏡の方が確実にいい男だったぞ!」って…。」

「トリちゃん、モテたんだ?」

「いんや…。モテてはいない。告られたのは、その時だけだ。基本、私は「おかしな奴だ」と認識されていたからな。ゼミのゆるキャラみたいなポジションだった。」

 ゼミのゆるキャラ…。分かるような分からないような…。でも、トリちゃんは皆に好かれていたんだろうな、と思った。だって、トリちゃんは面白い。トリちゃんといると楽しいもん。

「ま!そんな事ど~でもいいじゃん!私に告った眼鏡は今頃きっと可愛い嫁さん貰って平和な結婚生活送ってるよ。いい奴だったからな。」

 そう言うと、冷蔵庫からビールを取り出し、プシッとプルタブを開けた。そのまま、グビグビと一気に飲み干した。

「プッハー―!明日から休日!サイッコー!」

 私はサイダーをちびちび飲みながら、夜遅くまでトリちゃんと人生について話した。ウトウトしかけた時、私のスマホが鳴った。急いで見るとママからメールが入ってた。

『陸橋から落ちて後頭部を強打したそうだけど、検査の結果脳には特に異常はなし。ただ、落下の際、腰と右足を骨折したそうで暫く入院してその後はリハビリ施設を探す事になりそう。諸々の手続きをして、お爺ちゃんちも移動しやすいように片付けてそっちに戻るから、暫くかかりそう…。でも、本人は元気だったわ。「ユキは一緒じゃないのか」って残念がってた。もう夜遅いから、また明日にでも大鳥さんに貴方の事をお願いする電話をかけるわ。おやすみ。』

 …良かった。ホッとした…。安心して眠りについた。


     *********


 翌日は二人で昼まで寝ていた。起きてからテレビをつけて渋滞情報を見たトリちゃんは言った。

「すごいな…!この休日にわざわざ遠くまで疲れに行く奴らがこんなにたくさん!」

「こんな時しか休めない人が多いんだから、仕方ないじゃん…。」

「だな~!この国の民は働き過ぎなんだよ!二日働いたら二日休みが欲しい!」

 キリッ!とトリちゃんが言った。その理論で行ったら、三六五日のうち、一八二日は休日って事になる。

「あはっ!いいね、それ!学校もそうして欲しい!」

「うむ!プライベートが充実した方が勉強も仕事も頑張れるよな~!さ~って、今日のJST部は何をする?」

「おうちでやれる事でしょ?」

「うん…。あっ、そうだ!買い物行こうぜ!」

 いい事を思いついた!って顔をしてトリちゃんが言った。車のキーを持って「ついでにあひるご飯も食べに行こう」と言う。

「あひるご飯…?」

「朝ご飯とお昼ご飯が一緒だから、あひるご飯!北京ダックを食べる訳じゃないぜ!」

 そう言ったのに、トリちゃんがご飯を食べに行ったのは、パンダのキャラクターがいる中華料理屋だった。北京ダックがメニューに入ったちょっといいランチを選んでた。

「いや~。口に出したら、なんか食べたくなったわ…。でも、食べてからいつも「いや?これいう程美味くないよな…」って思うんだよね。ま、いっか。JST部マスコットのパンダがいる店だからな。」

 にゃはは、と笑いながら言う。私は無難なレディースランチを選んだ。


 食べ終えてから、すぐ近くのショッピングモールに寄る。トリちゃんはズカズカと玩具コーナーに向かうと、ボードゲームを手当たり次第にカートに乗せた。

「ちょ…!そんなに買ってどうするの?」

「勿論、遊ぶんだよ!人生ゲームにソリティア、トランプとよりどりみどりだ!」

「もはや、全然JST部の活動じゃないんだが…?」

「チッ、チッ、チッ…!」

 トリちゃんは人差し指を振りながら言う。

「ユキ、ちゃんと聞いてた?人生ゲームのJ!ソリティアのS!トランプのT!これは立派にJSTじゃろ~が!」

「……確かに!」

 目から鱗だった。そんな訳で三万近くのゲームを買って私達は帰った。二人だけでやる七並べは少し単調だけど、久し振りの人生ゲームは面白かった。イマドキの職業とかもあって、昔やったのとは内容が違っていた。

「マジか~!こんなに借金あったら首くくるわ!」

「は~い!火星に行きました~!」

 散々遊んでたら、トリちゃんのスマホが鳴った。

「はい、大鳥です。あ…!」

 トリちゃんは私の方を見た。どうやら、ママからの電話のようだ。しばらく話してから電話を切った。

「もう聞いてる?とりあえず、お祖父さんは大丈夫そうだね。一安心だ。ユキのこと、よろしく、って言われた。なんか…、一日に模試があるんだって?」

「うん…。」

「私の遊びに付き合わせちゃってるけど、大丈夫?」

「大丈夫だよ!その為に平日はしっかりやってるもん!」

 学業に専念するように言われてここに来るのを禁止されたら、それこそ死んでしまう!私は慌てて言った。

「うん…。ユキは頑張り屋さんだもんね。でも、少しは勉強しとこ?私がユキにとっての有害人物認定されたら困る。え~と…。昔、最低限の目安として学年×十分は勉強するように言われた。高三は小学十二年生だから、百二十分…二時間か!では、これから二時間は勉強の時間にしま~す!」

 そう宣言された。仕方なく、鞄に入れておいた問題集を開いた途端、トリちゃんが「うっ…!」と頭を抱えた。

「どうしたの?」

「物理…。苦手…。意味が分からない…。微分積分ヤな気分…」

 こんな時までダジャレを言ってくる。

「でも、やってると面白いよ?例えば、これ。鉄球と羽根の質量は違うから、質量が大きい鉄球の方が加速度が大きくて普段は鉄球が先に落ちるけど、真空だと同時に落ちてくんだよ。」

「うう~。そもそも真空で物を落とすこと自体、普通に生活してたら無いじゃん!」

 聞く耳持たず、と言った感じでトリちゃんは耳を塞ぐ。

「まぁ…、そうだけどさ…。」

 どこかの博物館の施設でしか、私も見た事無い。実際…、同じ高さのビルの屋上から私とトリちゃんが同時に飛び降りたとしたら、少しだけ私より背の高いトリちゃんの方が質量が大きいから、先に落ちて死んでしまうのだろうか…。「重力加速度はg=9.8[m/s2]とする」という問題文を読みながら私は考える。それは…イヤだな。トリちゃんが死んじゃうところは見たくない…。

 そんな事を考えながら、問題を解いた。日頃しっかりやっているから八割方正解だった。

 やけに静かだと思ってトリちゃんを見ると、本棚に寄りかかって詩集を読んでいた。綺麗な横顔。黙って読書をするトリちゃんは一枚の絵画のようだった。


 二時間経過後、私は前から思っていた事を言ってみた。

「トリちゃん。良かったら連絡先交換しない?」

「ほぇ?教えてなかったっけ?」

「うん…。名刺はもらったけど…。その…私の教えてないし…。」

 ゴニョゴニョと言う。「高校生になったら、持ってないと困るでしょ」とママに持たせてもらったスマホだが、連絡をとる友達もいないから、両親と祖父、学校、地元図書館位しか連絡先に登録されていない。キッズケータイの小学生並みだ。

「あ~!そうか!ユキとは部誌でやりとりしてて、鍵も渡してるし、もう何でも教えた気になってたよ!じゃ、番号言って。ワン切りする。」

 すぐに電話が鳴った。私は早速、それを登録した。

「メッセアプリとかSNSやってたら、そっちも登録するけど?」

 トリちゃんに言われたが、首を振った。

「珍し~!今時の子はそっちがメインだと思ってたよ。JST部の連絡用にメッセアプリだけでもいれない?可愛いスタンプ送ってあげる。」

「あ~、じゃ…。」

 早速ダウンロードしてアプリを追加。新しいアイコンが画面に増えた。

「じゃ~、このQRを読み込んで…」

 そこから、ポコン、ポコン!と音がしてスタンプが届く。

「使い勝手のいいスタンプをプレゼントしたから、使ってね。」

 見るとかわいいペンギンとパンダのスタンプがプレゼントに届いていた。二つとも黒と白の葬式カラー。

 うん、JST部の連絡用に相応しい。


     Ⅴ


 五日後に戻って来た両親は、なんかお互いに対して優しくなっていた。家での罵り合いが無くなった。うん、良い事だ。これなら、私も安心して眠りにつける。

 学校でもヤンキー達と顔を合わせる事がなくなり、平和な日々が続いた。そろそろオープンキャンパスの話が出てくる。どこの大学を覗きに行こうか。進路はこのままでいいのかな?そんな事を考える。もうじき、夏が近付いてくる。お揃いで買ったパンダTシャツを着て出かける季節。どこに行くんだろう?と考えて、少し不安になる。

 トリちゃんの百万は、あとどれ位残っているんだろう?どこかにドライブに行く度、ガソリン代や高速代、入園料その他諸々の金額が気になるようになってきた。ご飯やおやつ代も全部トリちゃん持ちだ。だから…、雨続きの最近は遠出は断るようにして、大量に買ったボードゲームで遊ぶようにしていた。出費を減らして、少しでも長くトリちゃんと一緒にいたかった。


 そう、JST部にいる以上「あんまり死にたくなくなってきた」なんて、口が裂けても言えない。だって、高校生の私と社会人のトリちゃんを繋ぐのはJST部しか無い。

「ごめんね。やっぱり、もう少し生きててもいいような気がしてきたから、自殺はやめる。」

 そう伝えたらトリちゃんは私にも騙されたと思って、今度こそ飛び降りてしまうかもしれない。それはダメだ!トリちゃんを騙したクソ男と私が一緒になってしまう。

 だから…。ゴメンね、トリちゃん。自殺に関する話題は出さないようにして、私は日々の出来事を部誌に綴る。もはや、ただの交換日記と化していた。


 六月末に、メッセージアプリにトリちゃんから怒涛のメッセージ&スタンプ連打が届いた。

「ユキ!」「あそぼー!」「お出掛け!」「ショッピング!」「♪」「行くぜ!」「買い物」「洋服」「ご飯」「スイーツ」のスタンプがバカスカ送られてくる。一体、何かと思った。

「どうしたの?」

「ボーナス入った!」「万歳」「買い物行こうぜ!奢っちゃる!」

「どこに?」

「アウトレット!」

 あぁ…。隣りの県にあるアレか!久しぶりの遠出だが、アウトレットモールなら、自殺出来るような場所は無いから行っても大丈夫だな、と思って私は「OK」スタンプを返した、それから、パパとママのいるリビングに行った。

「今週末だけど…、トリちゃんと一緒にアウトレットに行ってもいい?トリちゃんがボーナス入ったみたいで洋服買うののお付き合い。」

 そう言ったら、珍しくパパが言った。

「なんだ?アウトレットに行くなら、ユキの服も買うといい。ほら、軍資金。」

 そう言って、お財布から二万円くれた。

「え?いいの?」

「あぁ。お前も年頃だろう?それじゃ、全身分には足りないかもしれんが、鞄や靴も含めて一式買うといい。その…オープンキャンパスに行ったりする時に、あんまり変な格好じゃ恥ずかしいだろう…」

「ありがとう、パパ!」

 嬉しかった。早速、トリちゃんにも報告した。

「やったね!それじゃ、色々みて回ろうぜ!あ!行く時の服装は勿論部Tで!」

 メッセと一緒に送られてきたパンダが万歳しているスタンプ。私もパンダスタンプで「は~い!」と返した。


     *********


 週末。同じパンダTシャツを着て、トリちゃんと会う。トリちゃんはTシャツに黒デニムに黒いキャスケット。私は黒のロングスカートだった。久し振りのワゴン君に乗り込む。

「よっしゃ~!行くぞ~!なんか、地元の人間に聞いたら下道でもすぐだって言うから、今日は下道で行くか~。」

 国名しりとりや人名しりとりをしながら、アウトレットモールに向かう。一時間を過ぎた時、トリちゃんが言った。

「じもてぃの「すぐ」は当てにならねぇ~!素直に有料に乗っておくべきだった!」

「まぁまぁ…。」


 ボヤキながらも何とかアウトレットモールについた。遠くから見えてた観覧車に乗ろう、とトリちゃんが言うので、買い物前に乗った。駐車場の車がとても小さく見えた。

「うわ~!たか~い!こわ~い!」

 またしても三歳児みたいな感想を述べて、トリちゃんはキャッキャッとはしゃいでいた。てっぺんに来た時に真顔で言った。

「ここから…。ジャンプしたら、空を飛べるかな?」

「外から施錠されてるから開かないよ。それに人には翼も無いから飛べないよ。重力があるから落下するだけ。余計な事は考えないように。」

 そう言ったら、「はぁ~い…」と返事をして「怒られちゃった…」とトリちゃんは舌を出した。降りてから「買い物する前に腹ごしらえしよ!空腹だと何でもかんでも欲しくなっちゃうからね!」と元気に言った。

 そして「ボーナスが出たから奢る!」と言って、トリちゃんは水槽で魚が泳いでいるお寿司屋さんに入った。

「回転寿司だけど、ここおいし~んだよ!」

 大きな声で言うトリちゃんを向こうの席の眼鏡を掛けた男の人が見て、クスっと笑った。私と目が合うと、慌てて逸らした。

 トリちゃんの言葉に嘘は無く、私は十皿食べた。割と細身のトリちゃんが十五皿食べたのにはビックリした。

「美味しかったです。ご馳走様でした~。」

 そう元気に言って店を出て、今度こそアウトレットモール目指して歩き出す。さっきの男の人が少し後ろを歩いているのが見えた。あの人もこれからアウトレットに行くんだな。


 早速、端からショップに入って見て回る。トリちゃんが色々見立ててくれた。

「じゃ、早速取り換えなよ。罰ゲームの部Tはもう脱いでいいから。」

 笑いながら言う。

「罰ゲームだったんか~い!」

 思わず、突っ込んだ。お会計を済ませた後にタグを切って貰って、試着室で着替えて出た。

「お~!ユキ、似合ってる!かわいい!」

 はしゃいで言うトリちゃんの背後に、向こうからジッと見ているさっきの眼鏡の男性がいた。気になった。

「次は鞄を見よっ!」

 そう言って、私の手をひいてトリちゃんは歩き出す。楽しそうだ。とりあえず、一階にあるショップは全部覗こうと歩いていたら、端っこに飲食の出店ブースがあった。トリちゃんは吸い込まれるように近付いて行った。ショーケースを覗き込んで言う。

「うわ!カラフル!すご~い!」

 私も覗いた。そこには色とりどりのマカロンが並んでいた。

「うわぁ…。綺麗…。」

 思わず、声が漏れた。コンビニで買うマカロンも可愛かったけど、こっちはもっとカラフルで色んな味がある。食い入るように見た。

 お店の人がトリちゃんのTシャツを見て言った。

「お姉さんの着てるTシャツかわいいですね。」

「でっしょぉ~!良く見ると、間違い探しになってるんですよ!」

 そう言うと、お店の人に良く見えるようにTシャツの裾をつまんで胸を張った。

「あ、ホントだ!バクがいる~!」

「バクだけじゃないっス!」

「あ、シロクマも!かわいい!」

「うん!可愛くてお気に入りなの♪ここのお店のマカロンもとっても可愛いですね。」

「えぇ。ここには期間限定で初出店なんです。良かったら、お一つ買って行って下さいね。」

 にっこり言われたトリちゃんは私に意見を求める。

「ユキは?どれがいい?」

「うう~ん…。ピスタチオもフランボワーズもバニラもいいけど…。どれも美味しそうで決めらんない…。でも…、しいて言うなら、まだ食べた事無いこのグレープフルーツかなぁ…。」

「どれどれ…。」

 覗き込んだトリちゃんは元気に言った。

「じゃ、それもぜーんぶ、食べてみよ~!全部入りを一つ下さい!」

「ありがとうございます!」

「食べるの、楽しみだね~♪」

 ウキウキでトリちゃんが言う。

「うんっ!」

 全種類、トリちゃんと半分こして食べてみよう。楽しみだな。とりあえず、一階のお店は全部回ったので、二階へと足を伸ばす。人はまばらだ。色んな鞄があるな~、とショーウィンドーを覗き込んだ時だ。

「ユキ!危ない!」

 いきなりトリちゃんに突き飛ばされて、持ってた紙袋が全部落ちた。

「痛っ…!何、急に…?」

 振り向き、言いかけて体が固まった。トリちゃんの白地のTシャツに赤い色が広がっていくのが見えたからだ。

「え…?」

 トリちゃんが…、見知らぬ男に脇腹を包丁で刺されていた。

「ユキ…。逃げて…!」

 細い声が周囲に聞こえ、動かない男女二人の異常性に気付いた通行人が、トリちゃんに刺された刃物に気付いて悲鳴を上げる。

「キャ―――!」

 その声で、蜘蛛の子を散らしたように私達の周りから人がひいていく。私が落とした紙袋がグシャリと踏み潰された。私は…。足がすくんで動けない。

 なんで…?どうして…?トリちゃんが…!

 カタカタと震えながら、錆びた赤が面積を広げていくトリちゃんの白地のTシャツを見ていた。

 黒いTシャツの男がこっちを見た。目が合った。

 ―――殺される!


 『ヤだっ!死にたくないっ!』


 そう強く思った時、「ちょあー!!!」という間抜けな声が聞こえた。同時に、ガコンと鈍い音。さっき私達の後ろをつけるように歩いていた眼鏡の男性が、黒いTシャツの男にショップのディスプレイの一部と見られる箱状のオブジェをぶつけた所だった。黒いTシャツの男はトリちゃんから離れた。トリちゃんはそのままぐらりと倒れ込む。男は鞄から更に包丁を取り出した。助けに入った眼鏡の男性も刺すつもりだっ!

 その時、急に魔法が解けたみたいに私の体が動いた。私の視線の先に、自分達は安全な距離からスマホをかざしてこっちを見ている奴らの姿が見えた。

 お前ら、今する事はそれじゃないだろうがっ!と真っ先に思った。体がカッと熱くなる。なんだろう、これは?あぁ、怒りだ。私は走った。ベンチ脇にあったゴミ箱を掴んだ。それを抱えて走って戻ると、眼鏡の男性とつかみ合う黒いTシャツの男の背後に思いっきり叩きつけた。怒りは青く、苦く、そして強烈な力になった。ドゴンと鈍い音と両手に伝わる衝撃の振動。男がバランスを崩して倒れる。そこに眼鏡の男性が覆いかぶさる。刃物を持つ手を振り回す男の手を、私は躊躇わずに蹴った。万年体育2の私にしては、会心のキックだったと思う。包丁は勢いよくギャラリーの方へと滑って、悲鳴が聞こえた。


 そこに、ピピーッと、警笛を鳴らしてお巡りさんが走ってきた。三人がかりで黒いTシャツの男を抑え込む。

「トリちゃん!」

「大鳥さん!」

 駆け寄った私達二人に呼ばれて、トリちゃんはうっすら目を開け、口を開いた。

「ストーカーぁ…」と一瞬聞こえて、ビックリした。

「須藤です!大鳥さん、しっかり!」

「スドーに…お願いがある。これ…」

 トリちゃんは、弱弱しくポケットを探ると車のキーを手渡した。

「ごめん…。私、こんなんだからさ…。その子…ユキを、ちゃんと家に送り届けてあげて。頼んだぞ。んで、ユキ…。家に帰るまでが部活なのに一緒に帰れなくてごめん…。私…ブチョー失格やな…。」

 弱弱しく笑った。

「トリちゃん!しっかりして!」

「そうです!気をしっかり!」

 声を掛ける私達の所に救急隊がやって来て、ぐったりするトリちゃんを担架に乗せた。眼鏡の男性は「これ!何かあったら、ここに連絡して下さい!」と大急ぎで手帳を取り出し、電話番号を書きつけて破って渡していた。トリちゃんはあっという間に運ばれて行った。

 残された私達は、警察に話を聞かれる事になり、アウトレットモールの事務室みたいな所に連れて行かれた。そこで、擦り傷に消毒と絆創膏をしてもらった。


 漸く解放されてスマホを見たら、パパとママからの着信履歴で埋め尽くされていた。慌てて折り返す。

「もしもしっ!ユキ!?無事っ!?テレビで…アウトレットで通り魔事件が起きたって聞いてっ!女性が刺された、ってやってるんだけど!」

 電話の向こうにコーフンしたママがいた。

「ユキは…無事なのねっ?良かった…。本当に良かったわ…。」

 私の無事を聞いて向こうですすり泣きを始めたママに言う。

「トリちゃんが…刺された…。」

「ええ――っ!!」

 耳元で絶叫された。

「だ…、大丈夫なのっ!?」

「だいじょばない…。」

 担架に乗せられたトリちゃんを思い出して、涙が出て来た。

「あ…っ!それじゃ、あんた、どうやって帰って来るの…?迎えに行く?」

 あわあわするママの声が聞こえたのか、隣にいた須藤さんが「電話を替わって」と言い、スピーカーに切り替えた。

「もしもし。私、須藤と言いまして、大鳥さんの大学の同期です。私がユキさんを責任を持って、ご自宅にお送り致しますので安心して下さい。」

「えっ?男の人…?」

 それを聞きつけたのか、パパの声がした。

「おい!うちの娘に変な事をしたら許さんからな!」

「ご心配でしたら、移動中はずっと通話を繋いで下さっていても構いません。」

「いや…。そこまでは…。」

「そうよ、貴方。失礼じゃないの!所々で連絡を貰う形でいいじゃない!」

「あぁ…。そうだな。ユキ、定期的に連絡を入れるように。」

「うん…。」

「では、お任せください。」

 通話は終了した。私は踏まれた紙袋を持ち、駐車場に向かって歩き出す。隣りを須藤さんが無言で歩く。

「えぇと…。須藤さんの車は大丈夫なんですか?」

「あぁ…。僕は今日は電車で来てたから…。」

 そこで会話は終了した。後は黙々と歩いて、トリちゃんの軽自動車に着いた。須藤さんはドアに触れると言った。

「君のご主人様じゃなくてゴメンね。でも、安全運転するからよろしくね。」

「なんで、車に話し掛けたの?」

 ビックリして私は聞いた。

「え…?ゴメン、変だった?大鳥さんは大学の時もコピー機とかに名前つけてたから、この子にも名前を付けて可愛がってるんじゃないかと思ったんだ…。」

 眼鏡の奥の目が懐かしむ様に優しく笑ったから、私は言った。

「ワゴン君だよ。」

「え?」

「このこの名前。」

「そっか、教えてくれてありがとう。よろしくね、ワゴン君!」

 そう言うと、須藤さんは運転席に乗り込んだ。運転しやすいようにシートをずらし、カーナビをチェックしながら言う。

「ご両親に、これから出ます、って連絡した方がいいんじゃない?」

「あ…、ハイ。」

 慌てて電話する。

「うん、私。これから出発するから。また連絡入れる。」

 車は走り出した。穏やかな運転だった。またしばらく無言だった。車内の重い沈黙に耐えられなかったのか、須藤さんが口を開いた。

「えぇと…。君は大鳥さんの妹、とかじゃないんだよね?」

「うん…。おんなじマンションに住んでる。」

「そうなんだ…。大鳥さん、面白い人でしょ?」

「うん…。」

「え、えぇ~と…。そんなに警戒しなくても大丈夫だよ。大鳥さんに誓って、きっと君を無事に送り届けるから。」

「うん…。」

 そうだ。あのトリちゃんが咄嗟に頼む位だから、それなりに仲良しなんだろう。私は須藤さんの話を聞く事にした。

「あの…。トリちゃんの大学の同期って、さっき言ってましたけど…。」

「あぁ、うん!そうなんだ。」

「大学時代のトリちゃんて、どんな感じでした?」

「大鳥さんはね~、いつでも元気で面白い人だったよ。さっきも言ったけど、コピー機に名前をつけててね。古いコピー機だから、大抵紙詰まりを起こすんだけど、大鳥さんが使う時だけは何ともないの。不思議でしょ?「名前を付けて可愛がってるから、コピ太郎は私に応えてくれるんだよ!君達もコピ太郎って呼んでもいいんやで?」って言って笑ってたよ。ダジャレが好きだから、教授とかご年配の人達に可愛がられてた。でも、頑固な面もあったな。ゼミの討論だと譲らない事もあった。良く討論したもんだよ。」

「どんな事を?」

「ん~。色々。僕達、ある意味一番ツブシがきかないって言われる国文科卒なんだ。社会に出たら何の役にも立たないって言われる文学についてね、色々話したよ。大鳥さんは詩が好きなんだよね。彼女の卒論のテーマは『衰退する現代詩の運命』だった。近代に言文一致運動で文学が活発化して、色んな詩人が生まれた。ソネットと言われる十四行詩が流行ったりもしたけれど、SNSが流行る昨今では一四〇文字の呟きが主流になって、そういう形式の詩は無くなっていくだろう、って言ってた。詩は短歌や俳句に収束されて廃れていくだろう、って。僕なんかはさ、詩人の人生について調べて、その詩が書かれた背景や状況を踏まえて、こういう心境からこの詩が生まれたんだ、って知るのが好きなんだけど、大鳥さんはそういう事しないんだよね。「詩を読む時に、書いた人の人生なんか知らん。ここに書かれている言葉こそが全てだ」って言ってた。詩の書かれた背景を知ったら、その詩の持つ本質が濁ってしまう、って言ってたよ。僕にはない考えだから、圧倒された。なんか…考え方がユニークなんだよね。」

「分かる…。」

 パンダを葬式カラーと言ったトリちゃんを思い出した。

「久しぶりに会って…。やっぱり好きだなあ、って思ったよ。」

 …ん?思い当たった。

「須藤さんって、大学時代も眼鏡かけてたんですか?」

「え…?うん、そうだよ。高校時代からかけてるね。それが何か?」

 …もしかしたら、大学時代にトリちゃんに告ったというモサイ眼鏡、というのは須藤さん?今はそれなりに見える須藤さんの左手の薬指を私は横目で盗み見た。指輪ははめていなかった。

「あ、いえ…。ちょっと気になっただけです。」

「気になった、といえば、さっき大鳥さんが言ってた部活って何?何か二人でやってるの?」

 ドキッとした。

「あ~…、ハイ…。JSTを少々…。」

 テレビドラマで見かけるお見合い場面の科白みたいになってしまった。

「JST…?何…?ジャパニーズ・サイエンス・テクノロジー?」

「…いえ…。」

 口篭もって、考える。トリちゃんを好きなこの人になら、相談してみてもいいのかもしれない。だって…、私は今日、痛感してしまった。自分がまだ死にたくない、って思っている事を。

 だから…『死にたい』と思っているトリちゃんにも『生きたい』って思って欲しい。私はトリちゃんとまだ一緒に生きていたいんだ。だから、意を決して言った。

「…自殺部です。」

「ええっ!?」

 須藤さんの声が裏返って、大きく車がブレた。慌てて、須藤さんがハンドルをきる。

「ご、ごめん…。吃驚し過ぎて…。」

「…いえ。トリちゃんの事情はプライバシーがあるから言えないけど…、私達は同じ日に飛び降り自殺をしようとして出会ったの。死のうとしてた私に「年功序列があるから」ってトリちゃん言ってた…。色々あってその日は死ねなくて…。そしたら…トリちゃんが部活を作ろう、って言い出して…。それがJST部。トリちゃんの持ってる百万円を部費にして、それを使い切るまでは一緒に活動しようって…。春から色んな所に行ったの…。色んな事をしたの…。私ね…、楽しかったの!それまでは人生なんかつまんないって思ってたけど、トリちゃんと一緒だとどこに行っても楽しいし、何を食べても美味しかった…。だから…!JST部なのに…私はいつのまにか死にたくない、って思うようになってた…。今日、殺されそうになった時、痛感したの。死にたくない、って。でも…っ!自殺が目的の部なのに、トリちゃんにそんな事言えなくて…。最近は死ぬ気もないのに、騙すみたいに一緒にいるのが苦しいの…。でも!トリちゃんと一緒にいられないのはもっとヤダ…。わっ、私は…!自分勝手かもしれないけど、トリちゃんにも生きてて欲しいの!で、でも…。部室の家賃も百万から出してたら、トリちゃんの百万はもう…残り僅かかもしれない…。どうしよう…。百万を使い切ったら…トリちゃんが…。で、でも…、その前に…今日、トリちゃんが刺されて…。ど、どうしよう…。トリちゃんが…死んじゃったら…。そ、そんなの…、やだよ~!!」

 それまで言えなかった事をワゴン君の助手席で吐き出したら、それまで張りつめていた糸がブチンと切れて、私はいつかのトリちゃんみたいに泣き出した。初対面の人の前で恥ずかしいけど、止まらなかった。涙が後から後から込み上げてくる。

「わ…。わわ…。とりあえず、一旦止めるね。」

 そう言うと、須藤さんはコンビニの駐車場に入った。エンジンを切って降りると店内に入っていった。私は一人、泣き続けた。しばらくすると、大きなビニール袋を両手に提げて須藤さんが戻ってきた。

「え、えぇと…。とりあえず、ティッシュとハンカチ。あと…、なにか食べた方が落ち着くかと思って買ってみたんだけど…。その…、君が何が好きか分からないから一通り買ってみた。気に入る物があるといいんだけど…。」

 そう言って差し出された片方の袋には炭酸にお茶各種、果汁百パーセントジュースからタピオカドリンクまで入ってた。もう片方にはドリアをはじめ、おにぎりに菓子パン、スイーツ各種。チョコやクッキーのお菓子もあった。全力で慰めようとしてくれてるんだってことだけすごく分かった。

「ず…、ずびばせん…。こんな事、須藤さんに言っても仕方ないのに…。」

 渡された高保湿ティッシュで涙を拭き、鼻をかんだら須藤さんが大声で言った。

「仕方なくなんかないですっ!教えてくれて、ありがとう!僕も…大鳥さんには生きてて欲しいっ!だから…、大丈夫!僕が財形で貯めてる貯金が確か二百万ある筈だから、それを解約してJST部の部費にしましょう!それを使い切るまでに、大鳥さんに生きようという気にさせるんです!」

「……!」

 驚いた。そんなに簡単に二百万出せるんだ…。思ったら、口から出てたらしい。

「あ…っ!べ、別に誰にでも二百万出せる訳じゃないですよ…。大金だし…。で、でも…。僕は好きな人には生きてて欲しいから…。あっ!ぼ、僕が勝手に好きなだけだから!大鳥さんは別に僕の事、好きじゃないですし…。昔、告白してフラれてますし…。で、でも…。フラれても好きな気持ちは無くならなくて…。今日、久し振りにお寿司屋さんで大鳥さんを見て嬉しかったんです。あぁ、相変わらずだな、元気そうだなって…。話しかけたかったんだけど、君という連れもいたし、楽しくショッピングしてる所に昔フッた相手に話しかけられても迷惑かなって、なかなか声を掛けられなくて…。そしたら、あんな事に…」

 シュンと肩を落とした。私達は刺されたトリちゃんを思って無言になった。


 無音を打ち破るように、須藤さんのスマホが鳴った。ビックリした。須藤さんが慌てて、通話にでる。

「…はい、そうです。…本当ですか!良かった…。ハイ…。え?身内?えっと…ちょっと待って下さいね…。」

 そう言ってから、須藤さんは私に聞く。

「大鳥さんの身内の方の連絡先って知ってる?」

 私は首を振る。

「トリちゃんのお母さんは亡くなった、って聞いてる。後は知らない…。」

「そう…。…すみません、血縁の方はもう鬼籍に入ってまして…。血縁じゃないと駄目なんですか?」

 どうやら、トリちゃんが救急車で運ばれた先の病院からのようだ。そう言えば、お爺ちゃんが運ばれた時も身内に電話がかかってきたんだっけ。…ん?じゃあ、身内のいないトリちゃんはどうなるの…?心配になった。

 未成年の私じゃ…きっと駄目だ…。その時、ピコンと閃いた。トリちゃんには怒られるかもしれないけど…、嘘も方便だ!私は、押し問答をしている須藤さんからスマホを奪った。

「もしもし…。あの…!今は他人だけど、この人はトリちゃんの婚約者なんです!将来の家族だから、身内同然です!だから、色々出来ます!用があるなら言って下さい!」

「ちょ…!」

 慌てる須藤さんにスマホをもぎ取られて、会話が続く。

「えぇ、えぇ、そうです…。そうしましたら、明日の午前中にでもそちらに伺いますので…。そうです、須藤克彦と申します。連絡先はこの番号で…。ハイ、宜しくお願い致します…。」

 通話が終わった。須藤さんがこっちを見た。

「君…」

「ごっ、ごめんなさい!でも、身内がいないトリちゃんの入院手続きを誰かがやらないといけないと思って…。コーコー生の私じゃ、きっと無理だから…、その…。」

「あ~…。ゴメン、怒ってる訳じゃなくて…。まぁ…でも…。大鳥さんには怒られるんだろうなぁ…。君、その時は責任取って一緒に怒られてくれよ?言い出しっぺは君だからな。で、大鳥さん、無事に一命を取り留めたって!良かったな!」

「ホントッ!?」

「うん…。」

「よかった…。よがっだよぉぉ~!!」

 私はまた泣いた。今度は安堵の涙だった。須藤さんも目頭を押さえてた。泣いていたのかもしれない。散々泣いて、頭が痛くなってから思い出した。慌ててママに電話する。

「ユキ!?今どこっ!?全然連絡無いから、連れ去られたとかと思ってたわよ!」

「無事かっ!?須藤とかいう男に変な事されてないだろうな!?」

 パパの声も聞こえる。私は言った。

「連絡遅れてごめんなさい…。トリちゃんの事を考えたら私がパニックになっちゃって…。○○にあるコンビニの駐車場で、落ち着くまで待ってもらってた。でね、さっき病院から連絡があって…。トリちゃん、大丈夫だって…。生きてる、って!良かった…、よがっだよぉぉ~~!」

 我慢出来なくて、私はまた泣いた。パパとママも色々察したようだ。

「気を付けて帰ってくるんだぞ…。」

「うん…」


 夜に家に着いた。駐車場でパパとママが待っててくれた。須藤さんは名刺とさっきコンビニで買った物一式を袋ごと渡して連絡先を交換する。

「とりあえず、明日大鳥さんが運ばれた病院に手続きをしに行きます。」

「わ、私も行くっ!」

「明日…」

 パパが苦虫を噛み潰したような顔をした。反対されるのかも?

「なんで!?駄目なの?」

「明日はお爺ちゃんがリハビリ施設から退所するって連絡が来て、迎えにいかなくちゃならなくなったのよ…。」

 ママが横から言った。

「お爺ちゃん、ユキにも会いたがってたし…。」

「でもっ!トリちゃんが心配だよっ!私を庇って刺されたんだもん!私も行きたい!」

「…ぐっ。」

 パパは拳を握りしめると、須藤さんに頭を下げた。

「散々、失礼な暴言をはいてすまなかった。もし、許してもらえるのなら、明日、またこの子を大鳥さんの所に連れていってやって欲しい。頼むっ!大鳥さんはこの子の恩人なんだ。大鳥さんと会ってから、この子は表情が明るくなった。ガソリン代や高速代はこっちが払うから、保護者代わりを頼まれてくれないか?」

「そんな…。見ず知らずの男を警戒する親御さんの気持ちは分かりますし…。頭をあげて下さい。僕個人としても、入院するにあたって、必要な女性用品を買う時にユキさんがいてくれると助かるので、こちらからもお願いします。」

 須藤さんはぺこりと頭を下げた。好青年だった。

「では…。とりあえず、今日はこの近くで宿を探して、明日の朝にでもまた迎えに来ます。」

「えぇ。私達、明日は六時に家を出てしまうんで、見送りは出来ないんですけど宜しくお願い致します。」

 ママも頭を下げた。

「じゃあ、明日。」

 そう言う須藤さんを、パパが「こっちの駅前にビジネスホテルがあるから」と案内して行った。


 長い一日が終わった。


     Ⅵ(SIDE・トリ)


 目覚めたら、知らない天井だった。大ヒットアニメを思い出した。

『どこだ、ここ?』

 そう思った時、脇腹に強烈な痛みを感じた。それで思い出した。

『あぁ…。刺されたんだっけ、私…。』


 アウトレットで色々見て回っていた時、ねめつけるようにユキを見ていた黒いTシャツを着た男が気になった。ユキは純粋を具現化したような子だ。清楚な黒髪ロング。すれてないまっさらな魂。それは、ある種の輩の嗜虐心を激しくそそる。嗜虐の対象に選ばれやすいのだ。事実、イジメにあっていたようで、飛び降り自殺をしようとしていた。

 同日に同様の事をしようとしていた私が言うのもアレだが、こんな純粋な子を死なせちゃならない、と思った。

 私はいい。私はそれなりに人生を楽しんだ。美味しい物も沢山食べたし、海外旅行にも行った。だから、嫌な目にあって『もう嫌だ、我慢できない!』と思ったら、人生に幕を下ろす事に悔いは無かった。

 でも…。この子は違う。卒業してしまえば全校の一人位としか交友が残らない狭くて小さなコミュニティの高校生活を世界の全部と思い込んで、自分の人生を終わらせようとしてる。それはダメだ、と思った。

 世界はもっとずっと広くて、楽しい事もあるんだよ、って伝えたかった。


 でも、あの年代にとって『自死』は甘美な媚薬のように傍にある。ちょっとこちらが対応を間違えば、いとも簡単にそれを選んでしまう。

 だから、間違う訳にはいかなかった。「私は味方だよ」と伝える為に、私達の共通項である自殺の話題を持ち出した。いきなり会ったゲロ女に心を許すのは難しいかもしれない…。でも、ここで目を離したら、この子はまたすぐに死のうとするかもしれない。それはダメだ…。花嫁姿を見せるどころか、不倫の慰謝料で揉めてる娘を見ながら死んでいった母に、あの世で会った時の言い訳にしたかったのかもしれない。あのクソ男からブン取った百万になんか手を付けず、恨み辛みを書き連ねた遺書をポケットに入れて飛び降り自殺をしてあのクソ男が世間で叩かれればいい、と思ってた。

 でも、やめた。お金に罪はない。なら、せいぜい有意義に使って、経済を回してやろうと思ったんだ。そうすれば、私があのクソ男に費やした時間も無駄じゃない。

 だから、二人の部活を作った。自殺部にしなかったのは人聞きが悪いからじゃない。JST部にした方が、ユキと一緒に活動しやすいと思ったからだ。


 ユキは、気付いてくれてたかな?

「じゃ、それ、食べよ♪」ってシュークリームを食べながら帰ったの、JSTだよ。

 ユキを守るシェルターになれるようにうちのリビングを開放したんだよ。

 死ぬ事を恐れた方が生に向き合えると思って、あの怖い吊り橋を渡ったんだよ。

「ジャイアントパンダがササ食べてる!」もJSTだよ。

「ジェットコースターもスペースファイターもトライするぞ!ついてこい、ユキ!」もJSTだよ。

 一緒に遊んだ人生ゲームもソリティアもトランプもJSTだよ。

「じゃ、それもぜーんぶ、食べてみよ~!」って買ったマカロンもJSTだよ。


 ユキ、気付いて…。JSTって世の中にいっぱいあるんだよ。

 だって、JSTはね…。


     Ⅶ


 翌朝。まだベッドにいる私に声を掛けて、パパとママは出掛けていった。疲れていて眠かった私はそのまま八時まで寝た。顔を洗ってテーブルの上にあったサンドイッチを食べてたら須藤さんから電話があった。

「おはようございます。」

「おはよう。病院に行く前に入院に必要な下着類とかは買った方がいいと思うんだけど、君に頼んでもいいかな?」

「あぁ、それなら…。私、トリちゃんちの合鍵持ってるから家から持って行きます。パジャマもいりますか?」

「えっ?そうなの…?なら、お願いしたい。とりあえず、あったら一週間分とタオルも何枚かお願い出来る?」

「はい。そうしたら、これからトリちゃんちに行って荷造りしますね。」

 大きい旅行鞄を出して、トリちゃんちに行った。それから、下着類とパジャマ、タオルにバスタオル。あと、トリちゃんがいつも使ってる基礎化粧品や歯ブラシなんかの必要そうな物も入れた。それから退院時に必要かも、と思って普段着も入れた。

 須藤さんに電話したら、もう駐車場にいる、と言うのでベランダから覗いた。ワゴン君の傍に立つ須藤さんが見えた。急いで降りた。


「おはようございます。」

「おはよう。今日もヨロシクね。」

 私達はワゴン君に乗り込んだ。

「今日もヨロシクね、ワゴン君。出掛ける前に先ずは君にもご飯をあげないとね。」

 そう言って、いつも洗車機のアナウンスがうるさいGSに入った。満タンにしてから走り出す。

「君のおかげで入院に必要な物は買わなくても大丈夫そうだ。後は、大鳥さんに聞いて必要な物だけ買い出しに行こう。それとは別に、病院に行く前にお見舞いの花を買いたいんだけど、選んでもらってもいいかな?」

「はい。」

「ありがとう。助かるよ。病院近くのショッピングセンターで買おう。」

 それから、昨日の話題に触れる。

「ニュース見た?」

「いえ…。昨日は疲れててそのまま寝てしまったから…。」

「そう…。僕はね、逆になかなか眠れなくて色んなテレビを見てた。そしたらさ…。僕達が映ってた。」

「え…?」

「ホラ…。僕が男に物当てて、君がゴミ箱で殴っての一部始終…。」

「あぁ…。」

 昨日のスマホを構えてた奴等の誰かからテレビ局が買い取ったのか…。嫌な気持ちになった。報道と人の命、アイツらはどっちが大切だと思ってるんだ!恥を知れ。勿論、そんな奴等だけでなく、警察や救急に電話をしてくれた人もいたんだろう。救急隊が駆け付けたのは早かった。

「で…。テレビで流される分にはモザイクがかかってるからいいんだよ。でも…。ネットにはモザイク無しで動画が上げられてた。」

「はぁ…。」

「人命を守る為にした事だから、正当防衛だし、恥じる事はない。でも…、君は嫌な思いをするかも…。」

「なんで?」

「僕、エゴサしたんだ…。そしたらさ、「ちょあー男」「掛け声が間抜け」とか色々書かれてた…。その…君も…。」

「なんて?」

「「ゴミ箱女こえー!」とか…。その…学校の名前とかも全部出ちゃってた…。」

「へぇ~…。」

 どこか他人事だった。私がネットにあまり興味が無いからかもしれない。


 病院近くのショッピングセンターの一角にある花屋で花を買った。元気なトリちゃんに似合うと思って、小さなヒマワリやオレンジのガーベラのビタミンカラーの花束を作ってもらった。それを持って、病室に向かう。

 面会を申し込んだら、窓口で難色を示された。そこに婦長さん(?)みたいな人が来て言った。

「須藤さんでしょ?大丈夫。その人はマスコミの人じゃないから!案内するから着いてきて。」

 それで、通してもらえた。

「君、昨日言った事忘れてないだろうな?」

「勿論…。私が言い出しっぺだから、ちゃんと謝ります。」

 ボソボソ話しながら、ついて行く。

「ここです。患者さんをあまり興奮させないようね」って言って婦長さん(?)は去って行った。コンコン、とノックをする。「はい」と返事が聞こえた。ドアを開ける。

 

 狭い個室のベッドの上に、点滴をつけられたトリちゃんが横になっていた。

「あ、ユキ!昨日ちゃんと帰れた?」

「うん。」

「スドー。ありがとね。」

 そう言ってにっこりしたトリちゃんを見たら、もう気持ちを隠せなくなった。

「ト…、トリちゃんっ!」

「なぁに…?」

「わ、私っ、トリちゃんに言わなきゃいけない事があるの!」

 場の空気を察したのか、「あ!このお見舞いの花を生ける花瓶を借りられるか、僕聞いてきます!」と言って、須藤さんが席を外した。

 二人っきりになってから、私は言った。

「トリちゃん…。昨日は助けてくれてありがとう。」

「なんだよ~、ユキ。改まって…。」

「あのね…。ずっと言い出せなかったんだけど…、私もう自殺するのやめるっ!ごめんなさいっ!。裏切りかもしれないけど、昨日殺されそうになった時に『まだ死にたくない!』って強く思っちゃったの。分かったの!私はまだ生きていたいんだ、って…。ホントは…、結構前から思ってた。でも…、自殺するのをやめるって言ったら、トリちゃんともう一緒にいられないと思ったから黙ってた。ごめんなさい…。でね…。すっ…ごく勝手なんだけど、私、トリちゃんにも死んで欲しくないのっ!生きてて欲しいの!だって…。私、トリちゃんといて楽しかった!いろんな所行って、いろんな物食べて、色々遊んで…。全部トリちゃんがいてくれたから!だから…、トリちゃんが死んじゃったらヤダよ!昨日…トリちゃんが死んじゃったらどうしよう…ってすっごく怖かった…。だから…生きてて良かった…。ホントに…。だから、お願いっ!もう一緒に部活はしてくれなくてもいいから…。トリちゃん、生きててよぉ~!お願いだから~!」

 最後には泣きながら言った。

「うん…。ありがと、ユキ。」

 トリちゃんはそう言って、そっと頭を撫でてくれた。

「大丈夫だよ…。私も思ってた。ユキと色んな事して楽しかったから。だから…。退院したらさ、また一緒にお出掛けしたりしよっ♪」

「…ホントに?」

「うん…。」

 その時、ドアが開いた。花を活けた花瓶を持った須藤さんが立っていた。私達二人の顔を見て、涙目で言った。

「良かったです…。」

 どうやら、一部立ち聞きしていたらしい。ウルウルしながら言った。

「JST部は無くなるようですが、二人の活動資金として僕の貯金二百万を寄付させて下さい!僕…、大鳥さんに生きてて欲しいんです!」

「何言ってんだ、スドー?JST部は無くならないし、二百万なんかいらん!」

 バッサリ切り捨てられて、須藤さんは違う意味で泣きそうになっていた。

「そ、そうですよね…。僕なんかが…」

「いいか?良く聞け。二百万も貰ったら、贈与税がかかるだろ~が!それに…、何か勘違いしてるようだけど、JST部は自殺部じゃないんだぞ!」

「ええっ!?」

 今度は私が驚く番だった。

「じゃ、JST部って一体…?」

「その前に…」とトリちゃんが言った。

「昨晩、看護婦さんから「私の婚約者が」今日、手続しに来てくれるって、聞いたんだけど、どういう事かな?」

 笑っているけど、目が怖かった…。

 私と須藤さんは顔を見合わせ、同時に頭を下げた。

「ごめんなさいっ!」

「大っ変、申し訳ございませんっ!!」

「その…。お爺ちゃんの時がそうだったように、身内じゃないと何も出来ないと思ったの…。私は未成年でダメだろうと思ったから、須藤さんのこと…、勝手に婚約者って言っちゃったの。私が悪いの、ごめんなさいっ!でも…、そのおかげで今日こうして着替えとか持って来られたから…。その…。許してもらえませんか…?」

「す、す、すみません…。ユキさんから大鳥さんのお母様が亡くなられたと聞いて、他の身内の方もいないようだったので、力になれたらと思ったのですが…。その…。昔、フッた男が婚約者を名乗るなんて、嘘でも許せないですよね…。ハイ…。猛省しています…。もう今後は関わらないようにしますので…、今回ばかりは見逃して下さい…。」

 須藤さんは塩をかけられたナメクジみたいにしおしおになった。

「ふぅ~ん…。そんな事情があったんだ…。」

 そう言うと、トリちゃんはゆっくりと上体を起こした。

「よいっせ、っと…。二人共、反省してる?」

「「ハイッ!」」

「じゃ~、責任取ってもらおうかな。」

 そう言うと、トリちゃんはにゃはっと笑った。

「スドーは、今日から私の婚約者ね♪」

「ええっ!?」

 須藤さんが驚きのあまり、椅子から転げ落ちた。あまりの大声に病室のドアが開く。

「うるさいですよ!静かに出来ないなら、出て行って下さい!」

「あ…。す、す、すみません…。」

 慌てて謝る。あわあわしている須藤さんにトリちゃんが言った。

「なんだよ、スドー。嫌なのかよ?」

「め、め、め…滅相もございませんっ!大鳥さんになら、闇夜にだって「月が綺麗だ」って言いたいですっ!」

 何言ってんだ?と思ったが、フフッと笑ってトリちゃんが言った。

「なら、い~じゃん。ヨロシクね、婚約者サマ。婚約記念に蒟蒻食う?」

 そう言って笑ってから、「いてて…」と脇腹を押さえた。傷口が痛んだらしい。

「しばらく、ダジャレ禁止ね。」

 トリちゃん以外には何の心配もない禁止令が出された。

「じゃ…。JSTって何だったの?」

 私は聞いた。

「さっきもあったよ。な~んだ?」

 なぞなぞみたいなノリでトリちゃんに聞き返された。

「え…?」

 きょとん、とする私の隣で、須藤さんがぽん!と手を叩いた。

「分かった!「じゃ~、責任取ってもらおうかな」がJSTだ!」

「ピンポン!スドー、1ポイント!」

「やった!」

 小さくガッツポーズする須藤さん。それで私は思い出す。

「人生ゲームとソリティアとトランプ!」

「ピンポン!ユキ、2ポイント!」

「え…!ズルい…」

 須藤さんが言う。後は…なんだ?

「あっ!「じゃ、それもぜーんぶ、食べてみよ~!」って言って買ったマカロン!」

「ピンポーン!」

 トリちゃんは陽気に言う。楽しみにしてたマカロンは昨日踏み潰されてぺしゃんこになっちゃったけどね…。

「JSTは沢山あるの。その中で一番、私がユキに伝えたかったのは『人生そこそこ楽しいよ』って事。一人じゃつまらなくても心許せる誰かがいたら、少しは明日も生きてみようと思うでしょ?んで、なんやかんややってるうちに楽しくなる。ね?」

「うん…。」

 それ、トリちゃんと過ごしてくうちに感じてた。

 だから、JST部の部員として恥じないように生きていきたい。


     エピローグ


 月曜日。午前中にまた警察の人から話を聞かれた。本当に犯人とは何の面識もないのか、という確認だった。ある筈もない。犯人は「誰でもいいから、人を殺してみたかった」と言っているそうだ。責任能力かあるのかどうか、今後精神鑑定があるらしい。

 私に言わせれば「誰でもいい」と言っておきながら、マッチョムキムキな男の人でなく、女性を狙ってる時点で責任能力は十分あると思う。この国は加害者に甘すぎる。

 その後、うちの前を張り込んでいたマスコミの人達に色々聞かれた。漸く解放されて、学校へ向かう。


 電車の中で、ネットにあがっているという私の動画を見た。確かにモザイク無しで拡散されていた。コメントに「ゴミ箱女怖ェ~!」とか色々書いてあった。須藤さんが言ってたのはこれか…、と思った。「ちょあー男、ウケるww」とか馬鹿にする書き込みもあったけど、好きな人を守ろうと犯人に立ち向かったのはすごい勇気だと思う。なかなか出来る事じゃない。

 ここに無責任な書き込みをしてる人達は知らないんだろうな。須藤さんが長年の片思いを実らせて、めでたく大好きなトリちゃんの婚約者になった事を。

 でも、それでいい。教えてやる必要なんかない。全部を全部、世の中に分かってもらおうとしない事だ。一人でも自分を理解しようとしてくれる人がいたなら、それでいい。


 正門脇の通用門から入って、校舎に入った時、下駄箱の方から声がした。

「久しぶり~。真面目ちゃんじゃん!元気だった~?」

「会えて、ラッキー♪お財布が寂しくなってた所だったんだよね~。」

 …最悪。もう顔を合せなくて済むと思っていたヤンキー集団だった。

「動画見たよ~。あのゴミ箱女って真面目ちゃんだよね~?」

 言いながら、近付いてくる。怖い…。でも、踏ん張った。先日、通り魔と目を合わせた時の方がもっとずっと怖かった。だから…、こいつらなんか怖くない!私は…生きてJST活動をするって決めたんだ!だから、言った。

「邪魔。そこ、通して。」

「うっわ~!生意気~!」

「痛い目見ちゃう~?」

 足は震えたけど、渾身の勇気で言ってやった。

「お陰様で私、今、ゴミ箱女として注目されてるみたい。今日もマスコミの人に沢山名刺もらったんだ。だからさ…。注目ついでに「学校でいじめにあってます」って言おうかな~って。学校に言ってもどうせ「いじめはなかった」って握りつぶされちゃうのが世の中だけど、いじめって犯罪だよね?暴行罪に恐喝罪。「この人達に殴られてお金取られてます」ってマスコミに言ったらどうなるのかな?今なら、警察の人ともすぐ連絡取れるし。楽しみだね。高三の今、ネットで顔も名前もさらされて、就職先見つかるのかな?」

「ちょ…。なに言って…。」

「私がいつまでもやられてばかりいると思わない方がいいんじゃない?」

「や、やだな~…。確かにちょっと手が当たっちゃった事はあったかもしれないけど…。お金は借りてただけじゃん!ホラッ!」

「…そうそう!手持ちがない時、借りただけ!返せばチャラでしょ!」

 そう言うと、財布を開いて私のバッグにお札を突っ込んで来た。

「ホラ!これでチャラ!」

 パッと見る。千円札が六枚。

「全然足りてないけど?」

「うっせぇ!!明日には返してやるよ!」

「じゃ、九万九千円。きっちり返してね。私全部、誰にいくらとられたか手帳に書いてあるから。明日返却なかったら、マスコミの人に言うね。」

「ちゃんと返すから、言うなよ!マジで!」

「信じてるからね!」

 口々に言うとバタバタと走り去った。彼らの後姿が見えなくなってから、私はその場にへたり込んだ。

「…怖かった…。」

 でも…。やったよ、トリちゃん!私、ちゃんと言い返せた。JST出来た。良かった…。


 座り込んでたら、誰かが保健室から歩いてくる足音がした。私を見付けて「あ!」と声をあげる。

「橘髙さん!大丈夫?」

 小学校四年の時にクラスメイトだったあの子だ。

「うん。平気…。ちょっと腰が抜けてるだけ…。」

「えぇっ!大変じゃん…。保健室、行く?私、連れてくよ。」

「大丈夫…。」

 そっと手を払いのけるように言ったら、がしっと掴まれた。

「大丈夫じゃないじゃん!どうして、橘髙さんはいつもそうやって抱え込んじゃうの!昔からそう…。橘髙さんはもう覚えてないかもしれないけど、あの時はごめんなさい…。」

 謝られた。忘れてはいない。だけど、昔の出来事だ。


 彼女は小学校四年の時に私達のクラスに転校してきた。転校生は珍しい。しかも、東京からの転校生、ときたら尚更だ。皆は彼女の話を聞きたがった。某テーマパークの年パスを持っていて何度も行った事。一回だけだけど海外にも行った事があると言っていた。それがクラスのリーダーのようにふるまっていた南ちゃんには面白くなかったらしい。南ちゃんの家は歯医者さんでお金持ちだ。いつも雑誌にのってる可愛いブランドの服を着ている。長期休みも近所でしか過ごさない私達と違って、飛行機に乗って東京の某テーマパークに行くのが自慢だった。「アンタ達、まだ飛行機に乗った事無いの?」が口癖だった。えらそうに「お土産」と言って某テーマパークのメモ帳をいくつかにばらしたモノを皆に配ってくる。この子とは合わない、と子供心に感じていた。だから、「あげる」と言われてもその「お土産」を断った。そんなばらしたものなんかより、百均で売ってる新品のメモ帳の方がずっと良かった。そんな私も気に入らなかったんだろうと思う。


 社会の授業の時、日本地図を色分けする時にクーピーを取り出したその子に南ちゃんはかみついた。

「うちの学校は色鉛筆、って指定されてるでしょ!」

「え…?ママが「前の学校で使っていたクーピーでもいいですか?」って聞いたら「いい」って言われたよ。」

「色鉛筆って決まってるんだから、アンタも色鉛筆使いなさいよ!」

 先生に「まぁまぁ…。塗れればクーピーだって、色鉛筆だっていいじゃないか」と言われて引き下がった。ように見えただけだった。

 その日、ゴミ出しじゃんけんで負けた私は、ゴミ箱を持って焼却炉まで行った。その帰り、滅多に人が近付かない百葉箱の裏でこそこそしている南ちゃんを見掛けた。気になったから、南ちゃんがいなくなった後に行ってみた。掘り返されたように見える土を払いのけていくと、クーピーが出て来た。私はそれを掘り出して、教室に戻った。

 教室に行ったら、泣きそうな顔をしたその子がいた。私の手にあるクーピーを見て叫んだ。

「それ、私の!手提げかばんに無いと思ってたら、ユキちゃんが盗んでたの!?ひどい!こんなに泥まみれにして!クーピー使って欲しく無いなら、南ちゃんみたいに口で言えばいいじゃない!こそこそ盗む方がずっと卑怯よ!最低よ!」

 あまりの剣幕に返す言葉もなく、ただ…一方的にまくしたてられた。

 翌日から、私は女子から無視されるようになった。南ちゃんが面白そうに私を見てた。その子は、私を敵にする事でクラスの中に溶け込んだようだ。そうか、それなら良かった。


 私は…一人でも平気だもん。図書室で借りた本を読めば、そこには違う世界が広がっている。たくさん読んで、夢想した。家のクローゼットを開いたらある日別の世界に繋がっていたり、いつもの角を曲がったら急に不思議なお店が現れたり…。現実世界では何一つ起こらなかったけど。

 でも、大丈夫。私は我慢できる。私の事を分かってくれる誰かが、きっと世界のどこかにいる筈だから。だって、日本の人口は一億人以上いるって習った。一億もいるなら、その中の一人位…。そう思ってた。

 毎日毎日苦しかった。学校にも家にも居場所が無いんだもん…。本当は、全然大丈夫なんかじゃなかった…。誰か分かって!って、ずっと思ってた。だけど、口では上手く言えないの。陸に上がった魚みたいに、ぱくぱくして終わっちゃう…。だから、口で言わなくてもいいSNSで呟いてみたの。

 でも、結果は…。


 一億いたって、私の話にちゃんと耳を傾けてくれる人はいないんだって思ったら、もういいや、って死にたくなったの。一億いたって、出会えなければ意味が無い。小四の時から…、私随分頑張ったよね?もう、いいよね…?


 そんな日にトリちゃんに会ったの。クソ男に騙されて死のうとしてたゲロ女。出会いは最悪だったけど、トリちゃんは面白い人だった。この人がいるなら、私もまだ生きていたいって思えたの。だって、人生はそれなりに楽しい。JSTだ。

 

 だから、私は言った。

「時効だよ、そんなの。つまんないこと言うなら、立ち上がるのを手伝って。」

「うん…。ありがとう、ユキちゃん…。」

 その子は私に肩を貸すと言った。

「あ、あのね…。動画見たよ…。ユキちゃんは心身ともに強いね…。私も…強くなりたい。ねぇ…、今更だけど、良かったら友達になってくれない?」

「うん…。今更だけど、ヨロシク…。」

「ありがとう、ユキちゃん!後で連絡先も交換しようね!」

「うん…。」


 その日の学校帰り。電車を降りると私は一目散にトリちゃんの家に向かって走った。まだ家主のトリちゃんはいないけど、部誌に書きたい事が山のようにあったんだ。


 やったよ、トリちゃん!私にも友達が出来たよ!トリちゃんのおかげだよ!弱い自分を殺して、私は生まれ変わったんだ。これもある意味、JSTだよね?

 人に翼は無いけれど、死ぬ気でもがけば、自分の狭い世界から飛び出せるって分かったの!


 走り疲れて見上げた空は、抜けるような青空だった。


 今の私なら、あの空みたいな広い世界に飛び出せる!

 そう、鳥のようにね!


        <終>

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