五日目 快方へ
──かつて、春帆は身体の弱い子だった。
私たち家族にはそういう共通認識がある。周囲の誰もが口をそろえるものだから、春帆自身も当時、自分の身体の弱さを疑ったことはなかったと思う。けれども春帆が十九歳になった今、彼女の成長過程を改めて振り返った上で、私は思うのだ。実のところ春帆の身体は弱くなかったんじゃないか──と。
三歳にして気管支喘息という持病を抱え、突発的に発作を起こすようになった厄介な身体を、あのころ春帆は持て余していた。思い通りにならない身体に対する恐れがストレスを生み、そのせいで体調を壊すこともあっただろう。壊れやすい体調のために勉強や運動も不得意になり、十分に周囲の承認を得ることもできなかった春帆は、ますますストレスに弱くなる悪循環を形成していった。つまり、喘息という持病と、ストレスに身体が過剰反応するという特性が、春帆の身体を実際以上に弱く見せかけていた。
結局、投薬治療の甲斐あって喘息は収束を迎え、ストレスへの弱さだけが春帆に残された。自尊心の育ちきらなかった春帆は事あるごとに心のバランスを崩して身体に不調をきたし、そのたびに大好きな小児科の先生に泣きついた。今にして思えば、先生は春帆に特別なことをしていたわけではなかった。春帆の泣き言に最後まで耳を傾け、柔和な笑顔でうなずいて、聴診器を当てる間だけは真面目な目をして春帆を安心させ、そのうえで大概は薬も出さずに私たちを送り返した。嘘のような診療内容だったけれど、翌日には春帆はけろりと復調して、また笑顔で小学校へ向かうのだった。
おそらく先生は、春帆の体調不良の原因がストレスにあることを見抜いていた。溜まりに溜まっていた心の澱を取り除いて、申し訳程度の診察で安心感を醸成して、ゆっくり休むようにと無理のない指示だけを与える。春帆にとってはそれで十分だったし、そうと分かった上で、先生は必要最低限の適切な「治療」を行っていたのだ。
情けないことに、当時の私たちにはそれが見抜けなかった。だから春帆が「小児科医になりたい」と言い出したことに面食らい、あの老医師にそんなにも憧れていたのかと意外な感動をもてあそんだ。けれどもそうじゃない。そうではなかった。
春帆は恩返しを望んでいる。
大好きなおじいちゃん先生の渡してくれた真心のバトンを、次の世代の子供たちに託すという形で。
大人を頼れず、仲間を信じられず、傾いてゆく心身のバランスに怯えて泣く子供たちにとって、小児科医は最後に辿り着いてすがりつく味方だ。春帆は先生の真摯な姿勢に何度も救われ、支えられて大きくなった。彼女にとって先生は恩人であるとともに、きっと生き様の手本でもあったのだ。あの先生みたいにまっすぐな仁愛の心で子供たちを救うためにも、まずは自分自身が頼られる大人にならなければならない。だからこそ春帆は今、歯を食い縛って自立しようとしている。裕福とはいえない境遇に抗うために公立大学の門を叩き、奨学金を手に入れ、誰ひとり味方のいない未知の北国で必死に勉学へ食らいついている。抱え込んだ痛みや苦しみも、すべて自分の口で噛み砕いて。涙もぜんぶ飲み込んで。
たったひとりで自分と闘い続けてきた春帆に、あの頃、私たちは何をしてあげられただろう?
春帆が手の届かない北の大地へ旅立ってしまった今も、残された後悔のかけらをたまに踏んづけては、小さな痛みに心が震える。
もっと守ってあげたかった。愚痴や不満のはけ口になるだけで春帆を支えられるなら、先生に頼らずとも私がその役目を負ってあげたかった。決して自分を裏切らない絶対的な味方だと、春帆に信じてほしかった──。その思いは今も変わらない。できるなら今でも守ってあげたい。何かしてあげられることはないかと、つい春帆の周りを嗅ぎ回ってしまう。
なぜなら私は親だから。
あの先生よりもさらに深く、根源的な場所で、春帆の幸せを祈らずにはいられないからだ。
処方薬の選択がよかったのか、春帆の容態は次第に快方へ向かい始めた。いくらか腹痛もやわらいだことで昼過ぎから夕食時まで熟睡することができ、目を覚ました頃には頭痛が消えていたらしい。食欲も戻り、用意した夕食の鍋も無事に完食した。高熱と頭痛から解放されたことで、翌朝のうちには倦怠感も消え去り、もたれるような下腹部の違和感だけが春帆の身体に残された。
病み上がりにもかかわらず、春帆は六日に東京を発つといって譲らなかった。私と夫の予想した通りだった。
「そういうと思ってたの」
これも事前の取り決め通り、購入済みの航空券を手渡した。全日本航空五三一便、羽田発新千歳行き。札幌駅には夜の十一時過ぎに到着する、事実上の最終便だ。せめて夕方までゆっくり身体を休めて長旅に備えてほしいという、私たちなりの不器用なメッセージを込めたつもりだった。もちろん空港までの鉄道の切符も購入してある。
「こんなの自分でちゃんと払うのに……」
お年玉や年賀状の束ともども切符類を受け取りながら、春帆は眉を下げた。その責任感さえあるのならば、親として他に望むものは何もない。浮いたお金は健康な食生活に充てるように、寒さでふたたび体調を崩すことのないようにと、よくよく言い聞かせておいた。
遠路はるばる持ち込まれた春帆の旅行カバンは、当の本人が風邪で倒れたおかげで中身の出し入れもほとんど行われないまま放置されていた。それでも荷造りには苦労した。缶詰や保存食、袋めん、乾燥スープの素なんかを、無理をして大量に詰め込んだからだ。これも春帆は「我が家の備蓄が減る」といって反対したのだけれど、帰宅中の夫に駅前のスーパーで代わりの食品を買い込んできてもらい、遠慮の芽を入念に潰した。そうまでしないと納得してくれない頑固な春帆も困ったものだと思う。同時に、そんな困った娘だからこそ、出来る限りのことを尽くしてあげたいとも思う。
いつしか街から門松の姿は消え、軍用機の飛び交う音が響き始めた。駅前の大型スーパーや町中の工場にも賑わいがよみがえった。静かな正月は終わりを告げ、東京の片田舎には日常が戻りつつある。六日までの有休取得期間が終わり、春帆が札幌に旅立てば、私たち家族の生活も元通りになるはずだ。
娘の生活が当たり前になった今も、家の中の風景はさして変わらないし、私たちの生活習慣が大きく変わることもない。ただ、ほんの少し大事なピースを欠いてしまったような切なさが残る。このまま春帆が旅立たなければいいのに、もっと休んでいけばいいのに、と願う自分がいる。けれどもそんなことで春帆を困らせるのは本意ではなかったから、何も言わずに淡々と帰宅の準備を手伝った。この親にしてこの子あり、という言葉が何度も脳裏をよぎった。
一月六日。
別れの夕方を迎えた街は、金色の陽光に満ちていた。
「──なんで全員ついてくるの」
そろって車へ乗り込んだ私たちに、春帆は眉を曇らせた。運転席に夫、後部座席に私と夏樹。トランクには旅行カバンが載っている。
「いいじゃないか。大名行列みたいなもんだろ」
「大名行列は人を送るためのもんじゃないし……。だいたいお父さん、なんで今日に限ってテレワークなわけ」
「偶然だよ偶然。会社の都合だ。細かいことは気にするもんじゃない」
嘘だ。夫が意図的に今日を狙ってテレワークに振り替えたことを私は知っている。春帆の看病にほとんど関われなかったのを残念がっていた夫は、せめて駅への送迎くらいは自分がやると名乗りを上げたのだった。
「何時の電車だっけ?」
車を発進させながら夫が問う。「五時九分発の東京行き」と夏樹が即答した。姉貴の乗る飛行機をフライトレーダーで追跡してやると楽しげに息巻いていたけれど、それの何が面白いのか私には理解できない。ただ、それが夏樹なりの屈折した愛情表現であることは分かった。なんだかんだといって夏樹も、姉が立ち去るのは寂しいのだ。
私の胸中はどうなっているだろう。
唇を結んで、春帆の後頭部を見つめた。車窓が流れて駅前に近づくたび、自分が旅立つわけでもないのに自然と息が上がった。──やり残したことはないだろうか? まだできることは残っているだろうか? そんなものなどないと分かっているのに、無意味な不安が刷毛のような先端で心の輪郭をなぞる。
「薬、持ったよね?」
震えを抑えた声で訊いた。春帆は手元のカバンを漁り、「持ってる」といった。
「飛行機の中は自由にトイレも行けないだろうし、きつそうなら空港で薬を飲んでおくんだよ。ペットボトルのお茶は保安検査場内でも買えるから……」
「大丈夫。もう痛くない」
春帆が丁寧な口ぶりで遮ってきた。「過保護だなー」と夏樹が無粋にケラケラ笑ったので、しっかり魂を込めて睨んでおいた。旅立つ我が子を見送る親の気持ちなど、楽天家な夏樹には向こう二十年は分かるまい。私だって二十年前には、いや五年前にも想像がつかなかったのだから。
お年玉のような臨時収入があったとはいえ、札幌での春帆の家計が火の車である事実は揺るがない。お金ができたら帰省すると、春帆は言葉少なな婉曲表現で当面の別れを予告した。だから、言ってやった。旅費の工面が済んだら夫と一緒に札幌へ遊びに行くので、それまで元気で過ごすようにと。期限を設けた方が努力も長持ちするだろうという予想を織り込んだ言葉に、「気長に待ってるよ」と春帆は小さく笑っていたっけ。
また、春帆の顔をしばらく拝めなくなるんだな。
もう少し寝顔を拝んでおけばよかったな。
春帆に聞かれたら確実に嫌がられるであろう些細な欲を、そっと両手に包んで圧縮する。
道のりは嘘のように一瞬だった。上水を超える橋を渡り、なじみの小学校や銀行の脇をかすめ、五分も経たないうちに車は駅前のロータリーに乗り付けた。西口のロータリーには点々と人がいて、迎えの車やバスの到着を待っている。東京の西のはずれに寝そべるこの小さな市にも、およそ三万もの世帯が住民登録をしていて、それぞれに帰るべき家がある。同じように遥か一〇〇〇キロの彼方、誰も待つ人のいない家へ、これから春帆は旅立つのだ。
「早くしないとバスが来るかも」
一足先に車を降りた夏樹が、トランクから旅行カバンを引きずり出して、降車した春帆に手渡した。手渡しざま「空港で迷うなよ」と挑発された春帆は、さして意にも介さず「バカにしないでよ」と笑った。
大丈夫。
春帆は迷わない。
自分の道を見つけ、突き進む決意を持った子だ。
周りを頼る勇気さえあれば、この手を離れても上手くやっていける。たくましくて頼もしい背中を取り戻した春帆に、もはや、かけるべき言葉は一つしか浮かばなかった。
「──気をつけて帰るんだよ」
窓を開いて、笑いかけた。上手に笑えた自信はなかった。
春帆は一瞬の逡巡ののちに、こう言い換えて応じた。
「行ってくるね」
艶のある髪をひるがえし、旅行カバンを引きながら春帆は駅舎に消えていった。手を振る用意はしていたのに、とうとう一度も振り返らなかった。きりりと締まった口元の笑みと、目尻をおぼろに濡らす優しい色の光だけが、宙に取り残されるようにして記憶に焼き付いた。
夫の運転で車は一路、家を目指して走り始めた。東京行き快速電車の接近を告げるプラットホームの放送が、遠く、遠く、サイドウィンドウの向こうへ小さくなる。たまらない安堵と静けさで重く、苦しくなった胸を、そっと私は塩辛い嘆息で潤した。
手探りで始めた親子の関係も、記念すべき二十年目。
たとえ春帆が望まなくとも、きっと今年も私はひとりで心配して、不安がって、春帆との距離の取り方を勝手に模索するだろう。体調や食生活を気遣って、栄養のあるものを段ボールに詰めて送ったりしてしまうだろう。メッセージで近況を知りたがることもあるだろう。
私のことは気にしないでいい。
あなたはどうか、しっかり生きて。
手の届かない大地で精一杯に夢を追いかけて、病気なんてしないで元気に笑っていて。
たったそれだけでいいのだから──。
慎ましく祈り続ける日々が、今年も、幕を開けた。
血縁さえなければ赤の他人なのに。
馬が合うとも限らないのに。
ついつい特別扱いして、過保護になって、目をかけて、守る手を伸ばしてしまう。
そんな親心があったらすてきだなと、まだ親になったことのない作者は思うのです。
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