四日目 腹痛
品行方正。
心優しく、誰に対しても親しみ深い。
自信に満ちた振る舞いで尊崇の目を集め、決して驕らない。
──親同士の付き合いの中で聞きつけた春帆の人物評を並べれば、大概このあたりの文句が集まる。
春帆が垢抜けて明るい人柄に変わっていったのは、身体の弱さを克服した小学校高学年の頃からだったように覚えている。それまで勉強でも運動でもクラスの子についてゆけず、時としていじめの対象にさえなっていた春帆は、一転してクラスの中心に居場所を持ち、たくさんの友達に恵まれるまでになった。勉強もでき、運動も得意で、揺るぎない自信や強さや親切心を絶やさない。親の欲目を抜きにしても清廉でたくましい才女に育った春帆は、しかし高校卒業までの十八年間、一度として恋人にだけは恵まれなかったようだ。モテモテだっておかしくないのにねと、ママ友には何度も首をひねられた。
けれども私の知っている春帆の姿は、必ずしもそうした人物像とは重ならない。外の世界の華やかな社交とは裏腹に、我が家での春帆は大人しかった。文句も言わないし、自己主張も強くないし、人並みに失敗もするし、怒られれば泣くし、それほど快活でもない。くたびれきって居間のソファに倒れ込むようにして眠っている姿を見かけ、タオルケットをかけてやったことが無数にある。弟の夏樹がちょっかいを出せば姉らしく強気の態度で応戦していたけれど、逆にいえば彼女の「素」が現れているのはその瞬間くらいのもので、夏樹と姉弟喧嘩を繰り広げている最中でさえ、私の目には春帆が「素」を意図的に出し惜しみしているように見えた。
多分、外の世界の春帆は本物の春帆ではない。
社交的な人柄は狙って演出しているものだろう。
横田家の長女として、夏樹の姉として、クラスメートの期待を受ける才女として、友達の尊敬を集める強い女の子として、春帆は求められる姿を演じ続けている。常に他人を評価者として捉えているから、親しげなようでいて実際にはまったく他人に懐いていないし、そもそも心を開くという発想すら持っていないかもしれない。その推論が正しければ、長年にわたって彼氏ができないというのも多少は合点がいく。
つまるところ、ソファに倒れ込んで眠っている姿は、無茶を続ける春帆の身体が無意識にSOSを発する姿だったのかもしれないのだ。この仮説はそれなりに確からしいと思う。そして同時に、こうも考える。
──もしも、襲い掛かってきたのが睡魔ではなく、40度2分の高熱だったなら?
春帆は目の下に大きな隈を作っていた。腹痛の波状攻撃に耐えるのがやっとで、三時間程度の睡眠しか取れていないと言った。病院まで寝ていっていいよと伝えたのに、助手席に座っている間、彼女は蕩けた目を決して閉じようとせず、まるで情報収集でもするように周囲の風景を見つめていた。踏切を渡り、駅前の繁華街を抜け、商業ビルの間に渡された空中通路をくぐり、五叉路もどきのような交差点を通って、右手に現れた大病院の駐車場に車を停めた。
二度目の来院は手続きも簡素だった。あっという間に名前が呼ばれ、二日前と同じ医師が手際よく問診を始めた。
「熱は下がったそうだね。今、いくつですか」
「昨日の夜の時点で平熱まで下がりました」
「それならよかった。よく眠れたでしょう」
「下痢と腹痛が収まらなくて、全然……」
「前に処方したのは乳酸菌の配合薬だったか。もう少し効き目の強い胃腸薬でもいいかもしれないね」
適度に雑談を挟みつつ、てきぱきと医師はカルテに情報を打ち込んでゆく。時おり痛みに襲われるのか、春帆は握ったままの拳を何度も固めていた。さっさと必要なことだけ話して終わらせてくれと背中が叫んでいたけれど、医師は非言語会話には関心がなさそうに他愛のない質問を繰り返した。
「食事は何を食べてるかね?」
「えと……昨日は雑炊とうどんです。今朝は腹痛で何も……」
「いかんなぁ。君くらいの年の子は食べて治す方がいい。エネルギーを摂取しないことには免疫も活性化しないからね。なんだったら好きなものだけでも食べなさい」
「頑張ります……」
「あ、いや、頑張っちゃいかん。無理に詰め込めとは言えない。食べられる範囲でいいですよ」
「……どっちなんですか」
「なに、そのうち腹痛が収まって食べられるようになってゆくでしょう。心配いらないよ、よく効きそうな薬を選んでおいたからね」
背後の椅子に腰かけてやり取りを聞きながら、春帆の様子が変わっているのに気づいた。空虚な応答や突っ込みを口にするたび、苦悶の歪みから一時的に表情が解き放たれた。握った拳もいつの間にか開かれてしまった。──なるほど、彼は漫然と雑談をしているのではなく、必要な情報を聞き出しながら春帆の気を適度に紛らわせようとしていたのだ。
結局、追加で三つもの薬を新たに処方されることが決まった。近隣の薬局に処方箋を提出し、薬を持って車に乗り込んだ。大人しく車の中で待っていた春帆は、小さな声で「ありがとう」といって、薬の入ったビニール袋を受け取った。青ざめた顔には少しばかり艶が戻っていた。
重い金属交じりの轟音が耳にのしかかる。振り返ると、基地を飛び立ったアメリカ本土行きの大型旅客機が、住宅街の空を斜めに駆け上がってゆくのを見つけた。本国から基地へ直接アクセスできるように、あの基地には海外の航空会社がいくつも就航していると聞く。
「どこ行くんだろうね」
車窓にもたれながら春帆がつぶやいた。
「どこかしらね。札幌よりは遠いだろうね」
「アメリカから来てる人に比べたら、東京から見た北海道なんて隣近所みたいなもんなのかな」
「そんなことないでしょ。二時間飛んだって十時間飛んだって、遠いところに行くのは同じだと思うよ」
春帆は飛行機を目で追いかけるのをやめて、うずくまりながら「そうだよね」とうめいた。腹痛が再来したのかと危ぶんだけれど、目尻の融けた春帆の横顔はどこか満足げでさえあった。
「……わたしさ」
うずくまったまま春帆は切り出した。
「昨日の夜までスマホ見れなかったんだ。画面見ると目がガンガン痛んだし、昨日なんか腹痛でスマホどころじゃなくて」
「うん」
ハンドルを切って応答しながら、既読がつかないと夏樹が言っていたのを思い出した。
「友達からあけおめの連絡がたくさん来てるのは通知見て知ってた。とてもじゃないけど返信なんかできなくて、ずっと放置してた。でも、返事しなきゃ忘れられる、下手すれば『返事しない子なんだ』って思われて連絡取ってもらえなくなるって思って、ほんとは怖くてたまらなかった」
「それで昨日、泣いてたの」
「それだけじゃないよ。……わたし一人だけ、みんなに置いて行かれてる気がして」
「みんなっていうのは家族も含むの?」
「含むよ。全人類みんな含むまであるよ」
一瞬、春帆はくぐもった沈黙を挟んだ。いつかのように唇を噛んでいるのだと思った。
「元日の朝から熱出して倒れて、わたしだけちゃんと正月を迎えることも、みんなに挨拶することもできなくて、しかもいまだに治らなくて家族に迷惑たくさんかけてる。どうにかしたいのに、身体が痛くて怠くて言うこと聞かない。頭も満足に働かない。それが悔しくて、情けなくて、ぐずぐずしてた」
「……そっか」
「惨めだった。なんでわたしだけ貧乏くじ引いたんだろうって。せっかくの帰省に合わせて色々やりたいな、友達とも会いたいなって思ってたのに、最悪のタイミングで風邪ひいた自分が憎くて仕方なかった。負の連鎖だよね。感染症でもないのにそんなこと考えても意味ないって、ほんとは分かってるはずなのに」
鼻息だけの乾いた笑いを漏らし、半開きの暗い瞳で春帆は両膝を睨んでいる。うなだれる彼女を運転の合間に見やりながら、不意に、今すぐにでも頭を撫でてあげたい衝動に駆られた。けれども運転中なので、代わりにつたない所見でもつまびらかにしてみようかと思い立った。赤信号を認めてブレーキを踏みつつ「ねぇ」と声をかけると、春帆がちょっぴり顔を上げた。
「昔、私やお父さんに怒られるたびにお腹壊してたの、覚えてる?」
「中学の頃に卒業した習慣じゃん」
何故そんな話題を持ち出したのかとでも問いたげに、もごもごと春帆は言い募った。
そう、中学の頃までの話だ。むかしの春帆は親子喧嘩や説教で多大なストレスを抱え込むたび、泣きながら「お腹痛い」といって横になっていた。いわゆるストレス性胃腸炎だったのだろう。実際にそれは仮病ではなかったようで、いちど腹痛を抱え込むと最低二時間は寝たきりになり、時には居間のソファに横たわって半泣きのまま寝付いたこともあった。要するに春帆はストレスが体調に直結するタイプの子で、おそらくそれを今も克服できていないと思う。ただ──溜め込んで我慢する能力だけが、あれから飛躍的に向上した。
「自覚はないかもしれないけど、春帆は多分、向こうでのストレスを全部こっちに持って帰ってきちゃったんだと思うよ。安心して倒れられる実家に辿り着いた途端、ぎりぎりまで溜め込んでた七か月分のストレスが爆発して、思いきり体調を崩して風邪をひいた。貧乏くじでも何でもない、当たり前の限界が来ただけのことじゃないかと思うな」
違う?
目に問いかけを込めたら、春帆は私から顔をそむけた。
「安心して倒れられるなんて思ってない……」
「思わないようにしてるだけで、きっと身体は思ってるの。こういうときは身体の方が正直でしょ?」
ソファに崩れるようにしてストレスと闘っていた頃の春帆を思い浮かべ、苦笑する。図星だったのか、春帆は返事をしなかった。
「春帆はもっと正直でいればいいんだよ。大学生活がつらいなら誰かにすがりつけばいいし、東京に逃げ帰ってきたっていい。身体も心もクタクタなら寝込んでくれていい。風邪で正月を台無しにしちゃったなら、あとからでも正月気分を味わえることをしに行ったらいいの。風邪で倒れてスマホも触れなかったって素直に言えば、友達ならちゃんと理解してくれる。そうじゃない?」
「……うん」
「あなた自身の手で勝ち取った居場所や人間関係のこと、もっと信頼して頼るすべを覚えられたらいいね。たとえ他の何が信じられなくても、最低でも我が家のことは頼れる場所だと思っていてほしいな。どんなに裏切られたって痛い目に遭ったって、少なくとも私たちは春帆のこと、いつでも支えてあげたいと思ってるんだから」
昨日の夜、泣いていた春帆にささやいた言葉の焼き直しだ。理解されるまで何度でも繰り返す所存だった。経験上、春帆ほど自立心の強い子になると、こういうことを言い聞かせるのは本当に苦労する。
マスクの向こうで春帆は応答しなかった。
きっと今、閉ざされた口腔の内側で、彼女なりの正義や倫理観が私の言葉と競っているのだと思った。
答えを出すのは今すぐでなくてもいい。偽りのない本心を届けたという自負があったから、信号が青になったのを確認して、構わずアクセルを踏み込んだ。ぐらり、ふたたび窓の外の世界が動き出す。大きく揺さぶられた春帆の顔から、何かが剥がれ落ちて砕けたのを見た気がした。
自宅に戻った私たちを、居間で夏樹が待ち受けていた。始業式とわずかなホームルームだけの初日を終え、寄り道することもなくさっさと帰ってきたらしい。
ゲーム機のコントローラーを手にした夏樹は、春帆を見るや「お、姉貴だ」と変に明るい声を上げた。徹底的な自主隔離を貫いていたこともあって、春帆が夏樹の前に姿を現したのは昨年の大晦日以来のことだった。
春帆はうつむいた。
「……もう帰ってたんだ」
「仲良いやつらがみんな冬休みの宿題終わってなくて居残りさせられてたから、俺だけ先に帰ってきた」
寄り道をしなかったのはそういう事情か。意外な感心をもてあそぶ私をよそに、「見ろよ姉貴」と夏樹はテレビに映されたゲームのプレイ実績画面を指差す。ずらりと並ぶステージのアイコンの斜め上に、それまでにはなかった金色の星のマークが燦然と輝いている。
「正月退屈だったから俺一人で『ニュースーパーギャラクシー』ほとんど全クリしたんだぞ!」
「すごいね。どんだけ暇だったの」
「そりゃだって、毎年行ってた駅伝の現地観戦も今年はパスしてるし、姉貴も母さんもいねーから親戚の集まりもさっさと帰ってきたし。マジで時間だけは有り余ってた」
いわれてみれば駅伝や正月の特番を見ていない間、ずっとゲームに興じていたのを覚えている。その時間をほんのわずかでも受験勉強に振り分けてくれればいいのに──。野暮な野次を突っ込もうとした瞬間、「ごめん」と春帆がこうべを垂れた。
「わたしが風邪で倒れたりしたから……。迷惑かけたね、夏樹」
ぎゅんと音を立てて胸がすくんだ。どんな思いで春帆が謝罪の言葉を口にしたのか、どんな顔でうなだれているのか、想像するだけで嫌な気分になりそうだった。
夏樹は目をしばたいた。
「なんで姉貴が謝んの?」
「だから……私のせいで正月が台無しって」
「でも風邪ひいて倒れたのは姉貴が悪いからじゃないじゃん」
あまりにも何気なくて鮮やかな言い切りに私は息を呑んだ。夏樹はたったそれだけの言葉で、春帆の不安や心痛の根源を残らず薙ぎ払ったのだ。
春帆は衝撃でフリーズしていた。立ち尽くす姉の顔を夏樹は覗き込み、ふひっ、と変な笑い方をした。
「え、姉貴まさかそんなことで泣いてんの?」
「……うるさい。殴るよ」
「へっ、風邪で体力落ちてる姉貴のパンチなんか避けてやるよ」
挑発に乗せられた春帆が拳を握り固める。本当に殴るかと思ったら、春帆は固めた拳をおもむろに頬の上まで持ってゆき、ぐいと宛がった。聞き取れないような小声で何事かをつぶやいたのが聴こえたけれど、何を口にしたのかは分からない。ただ、夏樹を少し得意げな面持ちにさせただけだ。
「なー、そんなことより姉貴、ラスト二つのステージ攻略できねぇから手伝ってほしいんだけど」
コントローラーを手にした夏樹が本性も露わに迫ってきた。どうやら初めからそれを切り出すつもりで待機していたらしい。春帆がバカ正直に悩み始めたので「まだ治ってないんだから」と自室へ追いやり、不服げな夏樹には「また悪化させたらどうするの」と諭して聞かせた。だいいち春帆は寝不足なのだ。一刻も早く薬で胃腸の調子を整え、快眠してもらわねばならない。春帆を守るためなら手段を選ぶつもりはなかった。
代わりに少し、今月の小遣いは値上げしてあげようかな。
退屈や不満を敵キャラへぶつける夏樹を眺めつつ、自然に緩んでいた頬を、そっと揉んで元に戻した。
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