三日目 下痢と食欲減衰
幼い頃、春帆は身体の弱い子だった。三歳で気管支喘息を発症して以来、事あるごとに体調を崩しては近所の小児科へお世話になり、おかげで近所の薬局にも広く顔を知られていた。
当時、もっぱら世話になり通しだった最寄りの福生小児科医院は、切り盛りしていた夫婦の高齢化を理由に、十年ほど前に廃業してしまった。主治医のおじいちゃん先生の顔は今も懐かしく思い出す。発作を起こし、腹痛で動けなくなり、頭がガンガンするといって泣く春帆を、彼は決して取り乱すことなくなだめてくれた。看護師だった奥さんとも阿吽の呼吸で通じていて、春帆自身、なんでも治してくれる先生に全幅の信頼を置いていたと思う。
廃業して間もなく、医院の建物は取り壊され、跡地には高層マンションが建設された。あの老夫婦がどこへ行かれ、どんな生活を送っているのか、私は知らない。むろん春帆が知るよしもないだろう。更地になってしまった医院の跡を通りかかるたび、変わり果てた景色に春帆はいつも途方に暮れていた。
整地の済んだ一帯が工事用フェンスで囲われ、基礎が形作られ、タワークレーンが立ち上がり、鉄筋コンクリートの柱が天に向かって伸びてゆく。建設途中で躯体がむき出しのマンションは、なんだか理科室で見た人体標本みたいだった。背丈を競うように春帆もまた大きくなり、やがて小学校を卒業し、制服をまとって中学校へ通うようになった。以前のような身体の弱さはずいぶん鳴りを潜め、世話になる先も普通の内科医院に移り変わっていた。そして、竣工したマンションの窓明かりが夜空へ浮かぶようになった頃、春帆はまるでそれが既定路線だったかのように言い出したのだ。
「わたし、小児科医になりたい」
それが思い付きの夢ではなかったことを、私たちは数年後に思い知らされることになる。
トイレの音で目が覚めた。
枕元の目覚まし時計を手に取ると、午前五時を指していた。こんな時間に誰がトイレなんかへ──。ぼやけた頭で考えてから、すぐに春帆のことを思い出した。
いちおう様子を見ておこうと思い、春帆の部屋を覗きに行った。ちょうど布団へ潜り込もうとしていた春帆は、唐突な私の来訪に驚いて固まった。
「起きてたの、お母さん」
「起きてたっていうか、起きちゃったっていうか」
「あ、ごめん……。わたしがトイレ行ったから」
「お腹の調子でも悪いの?」
「いまさら下痢が来た」
春帆は気持ち悪そうに下腹部をさすった。
昨日の問診では下痢の有無も聞かれている。程度が軽いと春帆は答え、医師もそれに合わせて軽めの胃腸薬を処方してくれたのだけれど、あれから症状が急激に悪化したらしい。
「多分、水ばかり飲んで食べ物を摂ってなかったからよ。出るものがなければ下痢っぽくなるでしょ」
「下痢の原理ってそういうもんじゃないけど……」
反論する元気もないとばかりに、ぐったりと春帆はベッドの中へ横たわる。その肩に布団を乗せてやりながら、「何か食べられそう?」と訊いた。
「果物もあるよ。たまご雑炊くらいのものなら数分で用意できるし」
「いつの間に果物なんて手に入れたの」
「お父さんと夏樹が昨日もらって帰ってきたの。小平の叔父さんのとこからブルーベリーと、三鷹のじいじからキウイ」
「そのラインナップなら、その……雑炊がいい」
言いながら一瞬、春帆は唇を噛んだ。
何を思って噛んだのかはあえて訊かずに、「待ってなさい」とだけ言い置いて部屋を出た。下痢の原因には内臓の冷えが影響していることもある。消化もいいし、水分も多めに摂った方がいいと聞くから、簡単に作れて栄養豊富な雑炊は最適解だろう。
東京の冬は決して暖かくない。静かな台所に立って調理を進めながら、ときどき肩をさすって寒さを紛らわせた。北国の本場たる北海道の寒さはこんなものではないのだろうな、と思う。襲い掛かる吹雪の猛威に耐え、骨まで凍てつく北風を防ぎつつ、それまでと変わらぬ大学生活を送るのは簡単じゃない。その簡単じゃない冬を、初めての独り暮らしで春帆は乗り越えようとしている。しんどいとも、心細いとも、春帆は一度たりとも口にしない。まるでメッセージで私を部屋へ呼びつけようとしないみたいに。
「できたよ」
部屋のドアをノックすると、細い声で「ありがとう」と応答があった。春帆はベッドに腰かけ、膝の上に枕をふたつ積んで机のようにしていた。
「すっごい湯気……」
「そりゃ出来立てだもの。熱いからよく混ぜて、冷ましてから食べなさいね。舌を火傷すると痛いからね」
「経験あるから分かるよ」
一言多いといわんばかりに吐き捨ててから、春帆はまたも唇を噛んだ。スウェットに包まれた肩も、背中も、弱々しく丸くなった。
「ごめん、お母さん。こんな朝早くから負担かけて」
「負担だなんて思ってないから気にしないの」
「負担じゃないわけないじゃん。気だって遣わせて、不便な思いだってさせて……」
「春帆がかけなくたってうちにはもう二匹、気遣いと不便を押し付けてくる家族がいるし」
鼻で笑いつつ、こっそり心の中で夫と夏樹に謝っておく。引き合いに出すのが目的だっただけで、別に常日頃から気遣いばかりしていないし不便もかけられていない。だいたい、そればかりを恐れていたら家族運営なんか成り立たない。血の繋がりがあって性格が似通っていても、本質的に私たちは別々の人間なのだから。
それでもなお春帆は、早朝から私に雑炊を用意させたことに納得がいかないようだった。
「でも……」
「食べ終えたらそのへんに食器を置いておいて。あとで取りに来るからね」
言い逃れるみたいに議論を切り上げて、そそくさと自分の部屋へ戻った。
壁一枚を隔てた向こうには春帆の部屋がある。食器の音がささやかに響き始めるまで、きっかり三分ほどの時間が経った。春帆がどんな顔で雑炊を口へ運んでいるのかは想像しなかった。想像されたと知ったら、春帆がたいそう嫌がるだろうと思った。
今年の暦は一月三日が日曜日、四日が月曜日。世間の大半の企業や学校は、三が日が明けた途端にスケジュールを再開する。春帆の大学が七日スタートとなっているのは例外みたいなもので、おそらくは春帆のような道外出身の学生が多いことに配慮してくれているのだと思う。自宅通学不能な域外の学生を多く抱えるのは、医学部の界隈では珍しいことではない。
「俺も風邪ひいたって嘘ついたら学校休めないかなー」
会社に休みの連絡を入れる私と駅伝の実況を交互に眺めつつ、のんきな声色で夏樹がうそぶいた。大袈裟に嘆息して、本文を打ち終えたスマートフォンを机に伏せた。
「あんたはもうすぐ受験生の自覚を持ちなさい」
「まだ受験生じゃねーもん」
「屁理屈こねないの。だいたいお姉ちゃん見てれば分かるでしょ、ただの風邪だってしんどい時はしんどいんだよ」
「今はどんな感じなの、姉貴」
「食欲がないって。朝方に作ってあげた雑炊も食べきれなかった」
ふうん、と夏樹はそっけない調子で応答した。かといって駅伝に関心を戻すこともなく、スマートフォンに向かって何かを打ち込み始める。まるで飼い主の関心を惹けずに退屈している猫みたいだった。
風邪という言葉はあまりにもありふれていて、あまりにも漠然としている。ほんのわずかな発熱で済む症状もあれば、春帆のように40度を超える高熱に見舞われる症状もある。その判別を素人目に行うことは難しい。いっそインフルエンザの陽性反応でも出ていれば、素直に「風邪」と書くよりも会社の理解を得やすかったかな──。看病のため有休を取る旨の連絡をしたためたメールを見返し、送信ボタンを押してから、みずからの愚かな思い付きを静かに恥じた。恥じたけれども、実際問題そんなもんだよな、と心の中では諦念じみた冷笑を浮かべている自分がいる。嫌気が差してスマートフォンを放り出し、夏樹に見飽きられた駅伝の実況番組へ目をやった。転倒して足をくじきながらも涙目で走り続ける大学生ランナーに、ベッドで苦悶する春帆の面影が自然と折り重なった。
風邪であろうと何であろうと、その瞬間にも世界は回っている。中途半端に代わりの利かない存在であるからこそ、社会人はいかに体調を崩そうとも顔を歪めながら仕事を続けようとするし、そうであることを求められる。自分の身を優先することを許されるのは子供の間だけだ。
大学生って、大人なのだろうか。
十九歳の女子大生を世間は守ろうとするだろうか。
ふと湧いた疑問に、あてはまる答えが見つからない。
「姉貴が返事してこねぇ」
夏樹もスマートフォンを投げ出した。駅伝から視線を剥がして「何したの」と問うと、猫みたいな息子は寝転がってカーペットの上を一回転した。
「しょうもない画像でも送って笑わせようとしたのに既読もつかない」
「あのねぇ……」
「しょうがないじゃん。俺だって暇すぎて死にそうなんだよ」
「だったら冬休みの宿題でもやったらどうなの」
「そんなもんとっくの昔に終わらせた」
「……なんでもいいけど春帆のことは放っておいてあげなさい。せっかく寝られてるかもしれないんだから」
「姉貴、寝てねぇの?」
「朝五時に起きてトイレに行くくらいだから、眠れてないと思う」
ふうん、と夏樹はふたたび唸った。つい先ほどまでの軽さが急に鳴りを潜めていた。
春帆は昼食もほとんど食べなかった。下痢に加えて腹痛が始まり、とても食事どころではないというのが本人の弁だった。もういちど病院にかかるべきだと提案すると春帆も同意したので、翌日の午前十時に受診予約を取った。
「昔みたいよね」
畳んだ洗濯物をしまい込みながら笑いかけたら、布団から顔を出した春帆に「何が」と睨まれた。
「こうやって風邪で寝込むこと。最盛期なんか二年に一度はインフルにかかって倒れてたのにね」
「二年に一回もかかってた方がおかしいんだよ。毎年きちんと予防接種だって打ってたのに」
「インフルに限らないじゃない。しょっちゅう体調崩して寝込んでたの、覚えてるでしょ?」
「そんなもんいちいちほじくり返さないでよ」
春帆は機嫌を損ね、布団の中に籠城してしまった。ほじくり返したつもりはなかったのだけれど、もはや思い出話を受け付けるゆとりもない娘を前にして、かけるべき言葉を私は何も持たなかった。大人しく仕事を終え、退散した。
大学生は大人なのかと問いかければ、春帆なら『大人』と即答する気がする。そしてみずからの言葉に違わず、相応の責任を背負い込む覚悟を決め、みずからも大人であろうと努力するだろう。物心がついて姉であることを自覚した頃から、春帆はそういう生真面目な少女だった。その姿は時にたくましく、時に頼もしく見えたものだったけれども、少なくともここ数日間の春帆にはたくましさも頼もしさも見いだせない。私には、意地を張って痩せ我慢をしているように見える。無論それを率直な言葉で春帆に届けようとすれば、いよいよ春帆の不興を買うのは分かり切っていた。
三が日が終わろうとしている。
春帆の看病のために、今年は初詣にも行っていない。
夫の会社も、夏樹の高校も、三が日が終わるまではお休みだ。一つ屋根の下で暮らしていれば、それなりに会話をして心を交わす瞬間も生まれる。ひるがえって春帆とは病状の話しか交わせていない。他愛のない話を持ち掛けても満足な応答がない。感染症でないと分かってからは居間などに下りてきてもいいと伝えてあるのに、春帆はまるで自主的に隔離を実行するかのごとく、トイレ以外の目的で部屋から一歩も出ようとしない。頼ろうという姿勢すら満足に見せたがらない。
春帆にとって今、この家は安心できる場所ではないのかもしれない。
あるいは春帆の心がそれを望んでいないのか。
夕陽に色あせる手つかずの年賀状の束を前にして、じわり、釈然としない感情が心の隅に滲んだ。この感情はもっと他の分かりやすい言葉で置き換えられるような気がしたけれど、それが何なのかを思いつけないでいるうちにスマートフォンが鳴動した。有休休暇の申請を受諾する上司からのメールだった。逃げる思いで返信の本文をしたためていたら、いつの間にか導きかけの答えは思考の波間に埋もれて姿を消していた。
「仕事始め早々に朝七時から本社で会議なんてどうかしてるよ。三が日くらい最後までゆっくり休ませてほしいもんだ……」
翌日に初出勤を控えた夫は、就寝準備を終えてもなお、会社への文句を垂れ流し続けていた。臨時の用件が入ったとかで、陽の昇る前には家を出なければならないという。
「なんだか毎年そんなことばっかりね」
「ま、そのぶん金はもらってるしな……。あれだけの薄給で雇い続けてる秋美の会社こそ大概だよ」
「まぁね。それこそ今回みたいに臨時の休みをもらいやすいわけだから、多少の薄給はトレードオフで我慢するしかないけど」
ハンドクリームを塗り込む手を止め、カレンダーに書き込んだ有休の文字を振り仰いだ。大事を取って有休は三日間取得している。かくして私の「正月」は結局、一月六日まで延長戦として続くことになった。
「今年は夏樹の受験もあるしな。仕事も家庭も正念場だ」
そっと笑った夫が、一足先にベッドの中へもぐり込む。すぐに後を追うつもりで「おやすみ」といって電気を消してから、トイレに向かった。廊下の先には春帆の眠る部屋がある。ドアの隙間から光は漏れていなかった。
しんと冴えた空気が街をおおっている。滑走路を備えた広大な米軍基地を抱える私たちの街は、夜にならないと完全な静寂を甘受できない。ごろごろと轟き渡る輸送機のプロペラ音に比べれば除夜の鐘など可愛いもので、暗い夜空の下、おごそかに染み渡る鐘の音へ耳を傾けていると、霧のような煩悩が本当に頭蓋骨を抜けて晴れてゆく錯覚に陥るから不思議なものだった。
私も夫も夏樹も、年越しの瞬間とともに除夜の鐘を聴いている。あの鈍くて重たい神様の拍動は、眠っている春帆の胸にも響いて煩悩を祓ったのだろうか。そうであればいいのに。
何気のない心持ちで、耳を澄ませてみる。
すすり泣く声が聴こえた。軍用機や電車の爆音でも、雨音でも、はたまた鐘の音でもなかった。
用を足してトイレの扉を閉め、忍び足で春帆の部屋の前に立った。鼻をすする音は春帆の部屋から聴こえていた。湿っぽい鼻音の合間に、しゃくり上げるような小声が途切れ途切れに割り込んでいる。勇気を出してドアをノックした。予想通り、たちどころに泣き声は静まった。
「入るよ」
形ばかりの予告とともに扉を押し開けると、暗闇の向こうから「何しに来たの」と詰問を受けた。平静を装っているけれど、どう聴いても鼻声だった。
「様子、どうかなって思って。晩ご飯もあんまり食べなかったし」
「どうもしないよ。お腹が痛いのと下痢なのも変わんない」
「……そっか」
「何も変わってないから様子なんか見ないでいいよ。寝に行きなよ」
つっけんどんに春帆は吐き捨てる。
何も言わずに、ベッドの片隅へ腰かけた。春帆は抵抗こそしなかったものの、布団の中で露骨に身体を縮めた。
この調子だと、ひとりで泣いていた理由も教えてもらえそうにないな。避けられていることを改めて自覚した途端、忘れかけていた感情の名前が唐突に天から舞い降りてきて、釈然としなかった私の心情にぴったりと符合した。──そうだ、思い出した。あのとき私は「寂しい」という言葉で、自分の胸中を理解しようとしていたのだった。
寂しい。
実に自分本位な感情だ。
少し迷ったけれど、凝り固まった春帆の心をほぐす多少の役には立ってくれるという期待があった。なるたけ平静を装い、おもむろに話しかけてみた。
「あのね、春帆」
春帆の肩が小さく動いた。
「今朝、どうして『負担だなんて思ってない』って話したか、分かる?」
「分かるわけないじゃん。親じゃないし……」
「そうね、親じゃないから分からない。私も親になるまで分からなかった」
暗闇の底で両手を組んだ。生まれたての赤ん坊の頃から、数え切れないほど春帆の手を握ってきた手だ。春帆のそれほど瑞々しくはないけれど、きっと今もまだ、温かい。
「親だから心配しちゃうし、手をかけようとしちゃうんだよ。理屈でも何でもない、そういう習性の生き物なだけ。元気でしっかり生きててくれるなら何も文句は言わないけど、今の春帆はそうじゃないから、つい心配したくなっちゃうの。そこに負担を感じるような私なら、そもそもこの歳まであなたたちを大事に育て続けようなんて思わなかったよ」
春帆からの返答はなかった。
「春帆が今、苦しい思いをしてるのは分かってる。分かっているけど、私たちは春帆の痛みや苦しみを肩代わりしてあげられないから、せめて世話だけでも精一杯に焼いてあげたいって思ってる。それはね、春帆が何歳になっても、たとえ成人して家を出て社会に羽ばたいていっても、多分いつまでも変わらない。変わりたくたって変われないんだよ」
「……そんなこと話すために覗きに来たの」
「そう。忘れてもらっちゃ困るからね」
布団の山がかすかにうごめく。頭のあたりとおぼしい膨らみに手を宛がい、心を研ぎ澄ませて撫で回すと、ふたたび山が震えた。さわり、さわり。ボブカットの柔らかな髪が布団越しに揺れる。二度、三度と断続的に震えの波が来たところで、布団の中の春帆の様子を私は早々に察知した。
分かってる。
無理に話さなくたっていいんだよ。
ただ、つらい時はつらいと言って。痛い時は痛いと言って。そうすれば私はあなたのために飛んでいく。北海道にだって飛んでいくだろう。その覚悟が伝わってさえいればいい。春帆がSOSを発するのを、あとは黙って傍らで待つだけだ。すぐにでも差し伸べたくて疼く手を、背中に回して隠しながら。
立てた誓いの通り、そのまましばらく待ってみた。春帆は布団の奥で静かに泣くばかりだった。
「……おやすみ」
もう一度、真心を込めた手で頭を撫でて、立ち上がった。心の壁の向こうから、ぼやけてくすんだ春帆の声がした。
「うん」
応諾以外の意味を何も持たない、たった二文字だけの返事。
けれどもずいぶん角は取れていた。
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