一日目 高熱
「医は仁術なり。仁愛の心を本とし、
人を救うを以て志とすべし。」
──貝原益軒『養生訓』第六巻
慎病・択医 三十項より
娘が、風邪を引いたかもしれない。
「おはよう」
気だるげな声に呼ばれて振り向くと、階段を下りたところにスウェット姿の春帆が立っていた。飛び出したままの無様な寝ぐせに、不覚にも口元が緩む。「あけましておめでとう、じゃないの?」と笑いかけたら、娘は静かにこうべを垂れた。
「今年もよろしくね、お母さん」
「毎年だったら朝の零時くらいに交わしてるのにね、このやり取り」
「まぁ……。わたしだけ紅白も最後まで見ずに寝たし」
「どう? 調子は良くなったの?」
春帆は私のいる食卓から目をそむけた。誰かが起きてきたら準備を手伝ってもらおうと思って、食卓には昨日のうちに仕立てた筑前煮やお節料理用の重箱を並べてあった。
居間にはテレビの声しか聴こえなくなった。すずめの声を拾い上げて窓から舞い込んだ元旦の陽光が、端整な娘の顔に薄い翳を描いている。この静寂には身に覚えがあった。嫌な予感が胸をかすめたけれど、黙って彼女の応答を待ってみた。
観念したとばかりに春帆はうめいた。
「……熱があるっぽい」
春帆より数十分ほど遅れて、夫の冬人が起きてきた。私、娘の春帆、息子の夏樹、そして最後に夫。我が家の起床時間は過去十年間、この順番のまま一度も変動したためしがない。そのことを夫も理解していて、開口一番、尋ねられた。
「あれ、春帆は?」
「熱出した」
「おいおい、元旦からか……」
「自分の部屋で寝かせてる。今のところ38度5分って感じね」
夫は「そりゃ高いな」と顔をしかめた。そのまま台所のシンクで顔を洗い始めたので「ちょっと」と私も顔をしかめつつ、隣に立って筑前煮の鍋をコンロの火にかけた。
テレビの中では社会人駅伝の実況番組が佳境に差し掛かって盛り上がりを見せている。沿道の軒下に並ぶ門松の数々、テロップに浮かぶ「ニューイヤー」の文字、食卓の隅に鎮座する鏡餅のふくよかな輪郭。真夜中に聴く除夜の鐘よりも、こういうものの方が新年の実感を湧かせてくれる。何ひとつ目に入れようとしなかった春帆は、果たして新年の実感を得られたのだろうか。
「夏樹は昼過ぎに帰ってくるって言ってたかな」
「そうね。だから一足先にお節料理を食べちゃっててもいいかなって思ってる」
「春帆の分はどうする?」
「悩みどころよね。そもそも食事ができる体調なのかどうか……」
「聞いてこようか」
「あなたは行かないで。あの子と接触するのは私一人に限定した方がいい」
夫が露骨に失望した目をした。それでも「インフルエンザだったらどうするの」とたしなめると、彼はすごすごと冷蔵庫から紅白の蒲鉾を取り出して、包装を剥がし始めた。
友達と初日の出を見に行った息子の夏樹が帰ってくるまで、残り二時間と少し。
仕事を終えた洗濯機が私を呼んでいる。筑前煮の管理を夫に頼んで、かごを携えて洗濯機のもとへ向かう。ひとかけらの雲、ひとつぶの航空機も見当たらない静かな冬晴れの空に、邪気を振り払う思いで春帆の服をはたいた。
ドアをノックすると、まるで返事にもならない何かが漏れてきた。
「様子はどう」
踏み込んだ私の目に、ベッドにこんもりと盛り上がった布団の丸みが映った。春帆は律儀にも頭から布団をかぶっていた。
窒息しそうな姿のまま、くぐもった声で彼女は唸った。
「頭、痛い」
「ほかに症状はあるの?」
「疼痛と倦怠感もある。下痢とか腹痛とか、そういうのはないけど」
「あれから熱、測った?」
「39度1分」
上がっている。昼前、夫の部屋から発掘した解熱剤を飲ませたというのに。
喉が渇いただろうと思って湯飲みとペットボトルのお茶をベッド脇のミニテーブルに置くと、春帆は布団から身を起こして、細い手で湯飲みを拾い上げた。薄く開かれた瞳の色も、顔色も、憐れなほどに淀んでいた。一月二日に病院の受診予約を取ったことを告げたら、娘は目を伏せた。
「咳も鼻水も出ないし、インフルエンザじゃないとは思うけど」
「まだ分からないでしょ。インフルの初期症状には高熱だって含まれてるんだから」
「予防接種だって済ませてんのに……」
「予防接種が完全じゃないってことは春帆の方が詳しいんじゃないの?」
苦笑いして、空になった湯飲みを春帆から受け取った。寒気が走ったのか、春帆は大きく身体を震わせ、もぞもぞと布団の中へ戻っていった。
春帆は医学部に通う小児科医の卵だ。──もっとも一年生なのでせいぜい受精卵、やっと生まれる可能性の芽生えた段階に過ぎないのだろうけれど、すでに専門知識の量では私を余裕で凌駕していると思う。あいにく私は医療機関に勤めたこともなければ、まともに医療の何たるかを学んだこともない。持ち合わせているのは、二人の子供の母親を二十年近く勤めあげてきた経験だけ。それでも明日、病院を受診するまでの間は、その経験だけで春帆を病魔から守らなければならない。
「何か食べれそう? 筑前煮なら柔らかく煮込んであるよ」
尋ねると春帆は首を振った。
「何も食べれる気がしない」
「そこにスマホがあるでしょ。何か食べたいって思ったら、私のスマホにメッセージを送って教えて。大声で私を呼んだりしなくて大丈夫だからね」
「……スマホの画面見るのもしんどい」
「じゃ、壁なりなんなり身の回りのものを叩いて大きな音を出して。気づいたらちゃんと来てあげるから」
春帆からの返事はなかった。
無言の承諾だと解釈することにして、忍び足で彼女の部屋を退出した。カーテンの引かれた暗い部屋のドアをそっと閉めると、呼気の詰まるような感覚が少しばかり喉を抜けて、黙ったまま私は重い息を漏らした。
あんな暗い中で独りぼっちで寝かせておくのは可哀想だけれど、万が一にもインフルエンザだった場合のことを考えれば、強引にでも家族から引き離して隔離するしかない。これまでも我が家はそうやって小さな病魔を撃退してきた。取りうる手段の多くない私のような素人は、結局、やれる限りのことを粛々と進めるしかないのだ。
「姉貴、風邪で倒れたの?」
帰宅早々、姉の不幸を聞かされた息子の夏樹は、不謹慎にも目を輝かせた。
「じゃあ姉貴の分のお年玉は俺がもらっちゃお」
「そんなこと言ってるとまた蹴られるぞ」
「風邪で弱ってる姉貴のキックなんて怖くないね!」
「お願いだから春帆の部屋に乱入なんて考えないでよ。隔離してる最中なんだから」
正月料理の残りに虎視眈々と眼光を配りつつ、夏樹は「分かってるって!」と笑った。春帆が本当にインフルエンザなら我が家はパンデミックの危機に瀕しているというのに、夏樹といい夫といい、この家の男性陣は今一つ危機意識に欠けている。
大学受験を来年に控える夏樹にとって、今年は「のびのび遊べる最後の正月」らしい。友達と誘い合って初日の出を拝みに行ったのもそのためだという。大学生になってものびのび正月を遊んで過ごすことは可能だと私なんかは思うのだけれど、案外、夏樹の目には大学生という存在がとてつもなく多忙なものに見えているのかもしれない。なにせ最も身近な大学生の姉は、去年の十二月三十日に帰省するまで、半年近くも我が家の敷居を跨がなかった。
「福生の駅で待ち合わせたんだろ。混んでたか、電車は」
「ぜんぜん! 青梅線もケーブルカーも余裕で座れた。でも途中の登山道は意外と人でいっぱいだったな。頂上なんか大混雑で場所探すの大変だった」
「そりゃ御岳山の初日の出は有名だからな。東京中から人が集まってきてるさ」
「やっぱ有名なんだなー。もうめっちゃきれいでさ、自慢しようと思って写真撮りまくっちゃったよ」
夏樹は得意満面で食卓にスマートフォンを置く。山裾の彼方へ延々と広がる平野の向こうで、金色のご来光が東の空を照らしている。ふたつ隣の市に位置する標高九〇〇メートルの御岳山は、頂上から東京都心や関東平野を一望できる眺望の名所として、普段から観光客の絶えない山だ。初日の出ともなれば人であふれかえるのも無理はない。
「ほら、これもきれいだし! これなんか友達が口開けてるとこ撮っちゃってさ、こっちは知らねぇ人の後頭部が映り込んでて……」
興奮冷めやらぬままに写真の自慢を続ける夏樹は、まるで自慢する相手に物足りなさを覚えているみたいだった。仕方ないので、夫と二人で熱心に写真を堪能した。テレビの中では羽織袴姿のキャスターや芸人がのどかに笑い合っている。鏡餅は相変わらず陽の光を浴びている。正月特有のぬるい空気の漂う居間に、今年は春帆の姿だけが見当たらない。
「……だいぶ上がったね」
立ち尽くす私を見上げて、春帆はうつろにうなずいた。
手にした体温計は40度2分を示していた。私の知る限り、春帆が40度を超える高熱を発したことは今まで一度もない。元日早々に嫌な新記録が誕生した。
「ゼリーとかヨーグルトなら食べられる? さっきお父さんが駅前のドラッグストアで買い込んできてくれたけど」
「ヨーグルトなら……食べたい」
「待ってて。持ってくる」
駆け足で階段を降り、冷蔵庫の扉を開けた。テレビの格付けバラエティ番組を見ていた夏樹が「晩飯?」と腰を上げたので、「まだよ」と断じた。寝っ転がってだらけている息子の腹具合など心配していない。案じているのは、朝から何も口にしていない娘の腹具合だ。
わずかにリンゴのかけらを含むばかりの朝食用ヨーグルトを、春帆は布団にくるまったまま、ゆっくりと時間をかけて口へ運んだ。ものを口へ運ぶ動作そのものが彼女の身体へ負荷をかけているように見えた。やはり病人食には柔らかくて流動的なものの方がいいと、暗い顔の春帆を見つめながら考えた。医者でも看護師でもない私は、こうやって経験則で看病の仕方を工夫するしかない。
「今、何時だろ」
「格付けチェックが始まったばっかりだから、午後五時過ぎくらいかしら」
「わたし、今日、何もしてないな」
「病人なんだし当たり前でしょ。あなたのやるべきことはしっかり寝て、身体を休めて、養生すること」
きっと春帆が言いたいのはそういうことではないのだろうと推察しつつ、空になったヨーグルトの容器を彼女の手から受け取る。春帆は大人しく瞳を伏せ、ふたたびベッドへ横になった。首元まで布団をかけてやると、ほのかな熱が空気をつたって指先に染みる。せめてヨーグルトの蓄える冷たい甘みが、高熱の痛みから少しでもこの娘を遠ざけてくれればいいのに、と思う。
「もう寝る?」
一応、尋ねた。春帆は弱々しく首を振った。
「頭もガンガンするし身体じゅうも痛いし、昼間っから寝過ぎて眠気もないよ」
「まぁ……そりゃそうよね」
「大丈夫。頑張って寝るから。電気だけ消しといて」
「きつかったらメッセージするのよ」
「分かってるよ」
そうはいうけれど、結局この時間まで春帆は一度もメッセージを送ってこなかった。トイレにも自力で行っていたようだし、湯飲みの隣へ置いてあった二リットル入りのペットボトルの麦茶も着実に減っている。口で言うほど春帆の症状は重くないのかもしれなかった。そうでない場合のことは、あまり考えたくない。
ひとまず娘の言うとおりに部屋の電気を消して、ドアを閉めた。
明日は親戚の集まりの予定がある。病院の受診予約も入れてしまったし、このぶんだと夫と夏樹の二人だけで行ってもらうことになりそうだな。テレビの前で笑っているのんきな家族を横目に流しながら、そっとヨーグルトの容器を捨てた。たったこれだけしか食べてないの? とでも問いたげな軽い音を残して、ゴミ箱の蓋が閉じた。
▶▶▶次回【二日目 頭痛と倦怠感】