セリフ8:「x」
引き続きお読みいただき、誠にありがとうございます。
主人公・早瀬弘美はある日夫の声が大好きな声優赤山秋の声で再生できることに気づく。弘美は、聞いた言葉を、好きな声、好きなシチュエーション、で再生できる能力を身につけたのだ!
その能力を使って、疲れた日常をときに荒ぶりときに癒されながら乗り越えていく物語ーー
今回弘美は能力使っ……?
それでは、つづきをどうぞ!
「x」
イヤホンから発せられる音に衝撃を受けていた。爆音が流れているわけではない。むしろ逆だ。弘美の耳をくすぐるのは吐息まじりのキス、の音だった。弘美は声優赤山秋のCDを聞いていた。約3万円したイヤホンは実に良い仕事をしてくれている。
弘美は赤山が歌っているCD、ラジオCD、他の声優とセリフを掛け合いドラマが繰り広げられるCD、様々な種類のCDを過去作から最新作まで、時間とお金の許す限り集め聴き込んだ。
今聴いているのは赤山が一人で演技をしているCDだ。聴いている人をヒロインに見立て、様々なシュチュエーションで楽しませてくれる。
地声とも違う。アニメの声とも違う。赤山が演じている仕事の先輩が、後輩に話しかけ、仲を深めるラブストーリー。CDを聴いてる人は会社の後輩になった気分で赤山演じる先輩と一緒に仕事したり、ランチしたり、デートをしている気分になる。
弘美が聴いたCDの総数は74枚に上っていた。つづきものを除き、同じ人が一人としていないことに驚かされる。たとえ声優だからといって、声色がそんな種類あるわけじゃない。赤山は各キャラクターの性格や状況を確かに掴み、さもそのキャラクターがこの世のどこかに存在しているかのようにはっきりとした輪郭を聴いている弘美にイメージさせた。弘美は赤山のプロとしての凄みをそこに感じ取る。
はぁ〜…もう…最高だな。
先輩の優しくて甘い声…どうしよう…
実態がないのに弘美は一人で照れている。
きっと脳内ホルモンのなかでも幸せホルモンと呼ばれているうちの一つであるドーパミンが脳内で分泌されているに違いない。
弘美はひゃーと目をぎゅっと閉じ両手を顔に当てた。先輩にキスされたのである。
このCDは高価で特殊なマイクを使って収録されており、音が聞こえるのは全部耳に挿したイヤホンからなのだが、その声や音や息遣いが場所に対応して聞こえるようになっていた。
口にキスされれば本当に口元にされているかのように聞こえ、耳元で囁かれればまさに耳のすぐそばで囁かれているように聞こえる。
声優にハマる時点で、もうそうなのだろうと鋭い人は気づくのだろうが、弘美はこういったCDを聴くまで自分は耳が弱いのだということを知らなかった。
先輩…!ありがとうございました…!
至福の時が終わる。このCDはもちろん胸をときめかせるラブストーリーがメインなのだが、日常に隠れている小さなきらめきを見つけていくような物語展開が心を癒す。
はぁ〜!幸せだった〜!!
赤山さん!企画してくださった方!脚本書いてくださった方!キャスティングしてくださった方!録音してくださった方!CDを作ってくださった関係者の皆さま!このCDができるまで応援し続けてこられたファンの皆さま!販売店舗の方!家まで届けてくださった配達の方!ありがとうございました〜!!
色んな人に感謝したくなる。色んな人のおかげで自分はこんな幸せな時間を過ごさせてもらったのだ。
こんなに感情を爆発させる自分を見たら赤山さんは引くだろうか。弘美はふと、不安になる。客観的に自分を見ると顔はニヤけて目じりは下がり頬はこれでもかというほど上がっている。エヘヘと意識していないのに声が漏れる。うん、きっと気持ち悪い顔をしているに違いない。しかし、聴き手がこのようになることはきっと制作側もわかっていることだろう。思っているよりも気持ち悪いかもしれないが、見られているわけじゃないから大丈夫!弘美はニヤける頬を手で抑え、自分の日常に帰っていく。
その日から2週間後。スマホでサイトを検索する。あの日聴いていたCDが公式サイトにて無料で公開される日なのだ。
あのCDは10年前に発売されていた。今でも人気で、再販してほしいという声を受けCD発売。その2週間後にWEBでの無料公開が決まっていた。
弘美はCDが買えたことも、WEBで聴けることも嬉しかった。CD版は手に取れるし、今回のCDは最後にキャストのトークが入っていて役ではない赤山さんの言葉も聞ける。WEB版はCDプレイヤーをセットしなくてもスマホで手軽に聴ける。どちらも選べるなんて、贅沢っ…!と弘美は嬉しくなる。
WEB版で先輩と後輩のラブストーリーを聴く。内容はCD版と変わらない。ただ、2回目ということもあり、もちろんドキドキはするが、日常の中の宝物に気づかせてくれるような物語展開に改めて聴き惚れる。
弘美はその日から、思い立った夜はその物語のWEB版をイヤホンで聴きながら寝るのが習慣になった。息子たちを寝かしつけたあと、イヤホンをセットし、赤山の声と物語に癒されながら眠りにつく。
それまではよかったが、ある日事件が起きた。
朝起きるとイヤホンが耳から外れていたのである。弘美は焦った。以前スマホで音楽を聴いていたときのことを思い出したからだ。
音楽を聴いている最中にイヤホンが耳から外れた。そのあとすぐに、自動で出力先が切り替わりスマホのスピーカーから音楽が鳴り響いたことがあった。
音楽を聴いているときにイヤホンが外れることなんてよくあるが、普段は出力先は変わらずそのままイヤホンから音楽が鳴るだけだった。なぜスマホのスピーカーに切り替わったんだろう…弘美は残念ながら機械音痴で、ついにその原因に辿り着くことはできなかった。
あの気にもとめていなかった出来事が不安となって襲いくる。夫に聴かれた可能性がある、ということだからだ。息子たちが寝たあと智成はスマホゲームをする。どちらが先に寝ているか弘美は気にしていなかった。
偶然が重なっていたらどうしよう。
もしイヤホンが外れたのがラブストーリーが再生されている途中だったら
もしその音声がスマホのスピーカーで再生されていたら
もし夫がその時点で起きていたら
………………
……弘美は自分のうかつさに、あぁ、自分はそういうところあるよ……と優しく手を差し伸べた。
聞かれていたとしてなんだ。もしかしたら夫もそれがきっかけで赤山さんの魅力に気づくかもしれない。……まぁ、そんなことあり得ないかもしれないが。聞かれた可能性も、夫が赤山さんの魅力に気づく可能性も、ゼロじゃないし高くもない。弘美は気にしないことにした。
その後も弘美は思い立つ夜はその物語を聴きながら眠った。脳内に分泌される幸せホルモンはきっとオキシトシンに変わっている。この先輩のキスを浴び、声を聴くとホッと安らぐのだ。眠る前から優しい夢を見ているような心地よさ。弘美は自然とゆっくりとした呼吸になり、そのまま静かに眠った。
セリフ8:「x」
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