セリフ4:「やだ」
前回から引き続きお読みいただき、誠にありがとうございます。
主人公・早瀬弘美はある日夫の声が大好きな声優赤山秋の声で再生できることに気づく。弘美は、聞いた言葉を、好きな声、好きなシチュエーション、で再生できる能力を身につけたのだ!
その能力を使って、疲れた日常をときに荒ぶりときに癒されながら乗り越えていく物語ーー
それでは、つづきをどうぞ!
早瀬弘美は慌てていた。
息子たちを幼稚園に送っていくため家を出発する時間はすでに過ぎていた。早瀬家ではよくあることで、いつもならば大した問題ではないのだが、今日は弘美が自身の診察のために病院に行かなくてはならない日なのだ。
平日朝、早瀬家の玄関を出た先の流れはこうだ。一家の頼れる相棒である軽自動車に四人とも乗り込み、幼稚園に息子二人を送ったあと、仕事へ向かう夫の智成を駅に送り、弘美は家に帰ってくる。
しかし今日は家ではなくそのまま病院に向かわなければ間に合わない。そのことは先ほどから弘美が何度も口に出しているし、カレンダーにも書いてある。家族は弘美が急いでいることを知っていた。
タイムリミットが最終コーナーを曲がってこちらに近づいてくる。
弘美はなんとか支度が終わった長男の優太と手をつなぎ、息子たちの荷物を持って玄関の鍵をあける。扉を開き、振り向きざまに健人よろしく!と夫に伝える。
「やだ」
夫からの返事に、弘美のときが一瞬止まる。
玄関の扉が力を外されたためにバタンと閉まる。
弘美は優太とつないでいる手をぎゅっとにぎり。急に重たくなった足を動かす。車に着き優太を乗せ、待っててねと頭を撫で急いで家に戻る。次男の健人が玄関にいた。おいで!と弘美が両手を広げるとパパと行く!と健人はぷいっと夫に駆け寄る。夫は足に抱きついた健人を払う。用意してんのと夫は鏡を見て髪型を直しながら健人に言葉をこぼす。
けーんと!行こっ!と努めて明るく健人を抱きしめるが腕の中で暴れる健人。体ごとずり落ちようとする健人をどうにか車まで運ぶ。
ここからがまた一苦労。チャイルドシートのベルトが締められないように海老反りになる健人。弘美は待てていた優太にありがとうと言い頭を撫でる。その間に海老反りしていた健人は座席から落ち、だらんと座り込む。弘美は健人の両脇に手を入れ、もう一度チャイルドシートまで持ち上げる。やっとのことでカチンとベルトを締めることができる。その状態で健人は暴れ続けていた。
そうだよね。パパに連れてきてほしかったよね、と声をかける弘美。泣き出す健人。はぁ、余計なこと言っちゃったな。と弘美は思う。
ごめんね、と一言健人に伝えたあとは黙る。こうなったら落ち着くのを待つしかないのである。
そうしてるうちに夫が車に乗り込んできた。すかさず、健人なに泣いてんの!と発する。健人がう、う、と声を震わす。そして、わーー!!ともう一段泣き声が大きくなった。あーもー。と夫は不機嫌そうに車を出発させた。
先仕事行くわ。と運転中の智成に言われ、弘美はうんと答えた。
夫が駅に降りるとき、まだ泣き喚いていた次男は夫とバイバイできなかったーと幼稚園までの道のりも泣いていた。幼稚園につくと優太と健人は入れ替わったかのようにころっと態度を変えた。優太は行きたくないと泣き喚き、健人は先生に抱っこしてもらいご満悦だった。
弘美は幼稚園から出発する前に、病院へ電話をした。申し訳ないですが遅れますと受付の女性に言うと、気をつけてきてくださいと返事をもらい少し心が軽くなった。
弘美は病院に着いた。
遅刻したため待ち時間が増えた。
ここまでの道のりを思い出す。
「やだ」
夫の声だ。そう返されると思っていなかったので、衝撃的だった。あのときの自分は自分を守るために思考を停止してしまった。思い返している今の私は多分眉間に皺を寄せ、春菊の10倍は苦いものを食べた顔をしていることだろう。弘美はそっと目を閉じた。
「やだ」
あ、赤山さんの声だ。
そのまま世界が広がっていく。
突如空に雷雲が立ち込めその中心に穴が空いた。ぬるりと出てきた巨大生物が街を襲う。今まで誰も見たこともないような300メートルはある黒と赤が混ざり合ったような色の生物だ。軟体動物のように体をぐにゃぐにゃさせ、生やしている触手のようなものでビルを壊していた。人々は逃げ惑う。
ヒロインは高校の校舎でそのおぞましい光景を見た。腰を抜かしぺたんと床に崩れ落ちた。体がうまく動かない。逃げろ逃げろと先生が叫んでいるのが聞こえた。キャーというおびただしい数の悲鳴が耳に届いている。動け動け動け。ヒロインは頭で体に命令するのに本当に自分の体なのかと疑うほど、どこも動かない。触手がスローモーションでこちらに向かってくるのが見えた。あ、もうだめだ。ヒロインは悟り咄嗟に両目をつむった。
と、そのとき手をガシッと引っ張られた。ヒロインは勢いで立ち上がる。謎の手は力強くヒロインの手を引きながら教室を飛び出す。教室のガラスが割れ、飛び散る音と揺れが凄まじい。間一髪だった。階段を駆け降りる中でヒロインのぼやけていた視界がだんだんと蘇ってくる。
その後ろ姿はどこか懐かしかった。ヒロインはハッと気づく。助けてくれた彼は、隣の家に住んでおり、同じ高校に通っているものの、中学生のある時期からほとんど話さなくなっていた幼なじみであった。
ヒロインはこの非常事態にもかかわらず懐かしさで嬉しさが込み上げる。違うクラスなのになんで助けに来てくれたの?心の中から思いが溢れて、ヒロインは泣きじゃくる。口に入ってくるその涙は昔二人で食べた駄菓子のように甘い味がした。
安心したのも束の間、巨大生物は街を破壊し続けていた。散り散りに逃げた学校のみんな、自分の家族や友達、幼なじみの家族のことが気がかりだった。自分たちの家の方へ向かった二人は、跡形もなく変わり果てたその場を見回す。もうどこにも逃げるところはないかもしれない。ヒロインは呆然と立ち尽くした。しばらくそうしたあと、右脚から力が抜けたように崩れた。
もう、疲れちゃった。私のことはここに置いていって。もう、立ち上がれない。
ヒロインからはもう何も考えられなくなっていた。遠くで街が崩れていく音が聞こえる。幼なじみが沈黙を破りヒロインを抱きしめ言う。
「やだ」
だった一言だったが、そこには覚悟が詰まっていた。ヒロインを守り抜くと言う覚悟が。
再び幼なじみはヒロインの手を取り走り出した。ずっと好きだった彼女の手を取りながら幼なじみは思い出す。中学生で恋心を自覚し、うまく喋れなくなってしまった自分。高校でも見守るだけだった自分。やっと近づけたと思ったらこんな事態で。俺は必ず彼女のことを守り抜く。彼女の家族も、自分の家族も、学校の友人たちも無事に逃げ切れていると信じる。俺は絶対諦めない。やっと遠くからじゃなくこんなに近くで守ることができるんだ。こんな事態にならなきゃ近づけないなんて勇気なさすぎだな、俺。と自嘲するように息を漏らす。君の笑った顔がずっと好きだった。その笑顔を取り戻すまで、この手は離さない。
ヒロインは一言発したあと、また何も喋らなくなった幼なじみの後ろ姿を追いかけながら、つながれた手がぎゅっと熱くなるのを感じた。
はーい、15番の番号札の方ー中待合でお待ちくださーい!
弘美はビクッとなる。あ、私だ。とスタスタ歩く。病院のベンチに座り、先ほどの余韻を噛みしめていた。
あぁ、なんだか今日はシリアスだったけど、赤山さんの声素敵だったな〜。
あのー、おちゃらけた感じとか、慌ててる感じとかももちろん最高なんだけど、シリアス場面の低めの声がさぁ……もう!もう!うー!ギャップがあってたまんないのーーーー!!!弘美は番号札を持つ右手で腿をバシバシと何度も叩きたい衝動をどうにか抑える。ここは病院だからだ。
あー、今日もありがとうございます!
赤山に感謝しながら上げたその顔の眉間に皺はなく、苦さも感じない。はちみつ味の飴でも舐めたかのような甘くとろけた表情が弘美の顔に広がっていた。
セリフ4:「やだ」
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次回 セリフ5:「俺には全然急いでるように見えないんだけど!」
つづきも読んでいただけたら嬉しいです!寒い日が続きますので、どうぞご自愛ください。