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痛む頭を我慢しながらおぼつかない足取りで廊下を歩く。
驚くほど廊下には人がいなかった。
そういえば以前にもこんな誰も居ない廊下を歩いたような気がする。
(変だな…つーか…。)
「手ぇめちゃくちゃ痛いんですけど……いたた」
調子にのって壁なんて殴るもんじゃないね。
喧嘩なれしてない分、俺の手には酷だったようだ。
「あーくそ、頭フラフラ」
本当に視界がグラッと歪んだ時、俺の体は傾いた。
「おっとぉ」
「…?」
霞む視界。
その視界に白黒のボーダーが目に入った。
どうやら俺の体は床にたたきつけられる前に抱きとめられたようだ。
「…ははっ…今日は帽子なし?」
「えーまあ、暖かくなってきたんでねぇ、アタシもそろそろ衣替えっスかねぇ」
(てゆーか、来るならもっと早くきなさいよ。)
そんな俺の抗議に気付いたのか、男はにんまり笑いながら俺を担いだ。
細身のくせに、どこにそんな力があるのか不思議だ。
「もしかしてさあ、全然人がいないのもあんたの仕業だったり?」
「あは、これはっスねぇ、蜘蛛君がやったんでスよ~」
「物好きだねぇ、問屋」
帽子のない問屋。
綺麗にも程があるだろう、という顔を曝け出す男はケラケラと笑った。
その笑顔は生徒会役員さえ凌ぐほど美しい笑顔だ。
「いやぁ、いいもの見せてもらったんでお礼っスよ」
「…お得意の盗撮かー、いいご趣味だ事で」
「ははっ、いいんスよー。今回のも無料なのはこの先いいものを見せてくれるってわかっててやってんスから~」
「……嫌な予感ぷんぷんすんなぁ」
面倒くせぇ、と呟くと問屋は酷く楽しそうな声で「仕方ないっスよ」といった。
「蜘蛛君、情報掴んだってんでアタシがきたんっスよ」
「予定より随分早いねー、さすが蜘蛛。てか俺さあ、軽くないんだけど」
腕疲れないの?
そう尋ねれば余裕だそうだ。本当、どこにそんな力があるのか不思議でしょうがない。
「あーあーあー手が痛い」
「最近猫君あれっスね、傷が多いっスねぇ」
「そう?あーそーかな、気にしないからわかんないわー」
「他人に無頓着なのはいいっスけど自分無頓着は駄目っスよー」
「面倒だし。バ神田のせいで最近疲れててさーあ、猫かぶんのも疲れたー」
もう脱ごうかな。
いやでも何年もかぶってきた猫をあんなバ神田のせいに脱がされるというのも癪だ。
静かな廊下で響くのは俺と問屋の声だけで。
問屋のまったく聞こえない足音に声だけが響いた。
「大体足音わからんってどうよ」
「んー癖みたいなもんス」
「どこぞの忍だおのれは」
「伊賀忍者っス」
だそうだ。
じんじんと、手が痛む事に顔を顰めつつ、素直に問屋の肩に頭を預けた。
#
カタカタとキーボードを打つ音が四六時中聞こえる部屋。基本的に電球とパソコンの画面の光が証明のようになっている為薄暗い。
少年は疲れた素振りも見せず、淡々とした表情で画面を見つめていた。
「…ふぅん……哀れだな」
ぽつりと呟かれた言葉は画面に表示された、隠し撮りであろう写真に向けられた。小さな写真にうつる少年は今よりも幼くあどけない。
カタカタとキーボードに指を走らせながら画面に集中しているとドアが開く音がする。第三画面には小豆をかついだ問屋の姿が映っていた。
くる、と椅子を後ろに回して、侵入してきた男を見つめた。
「あ、連れてきたんスよ~、猫君へばっちゃって」
奇妙な格好をした男は視線を自分に担がれている少年に向けた。
「あんたが取り付けたモニターで見てたっつの…どうせ拉致ってきたんだろ、問屋」
「あっは、酷いっスね~!蜘蛛君も怒ってたじゃないスか」
蜘蛛、と呼ばれた少年が眉をひそめる。
問屋は気にかけるわけでもなく、担がれていた小豆をゆっくりとソファに寝かせた。
脳に衝撃があったのに急に動いたからだろう、血液が回らず貧血を起こしたようだ。
小豆はいつも緩く弧を描く眉を苦しそうに歪めていた。
「別に、その糞猫なんかどうでもいいんだよ」
「えー、侵入不可の領域に猫君を入れたのは蜘蛛君じゃないスかー」
不可侵の自分のテリトリーに小豆を入れたのは、紛れもなく蜘蛛だった。
最初に小豆に出会ったのも蜘蛛だ。そこから初めて運命的な出会いへと発展した。
「…こんな性悪と思わなかったんだよ」
小豆を見つめる蜘蛛の目に、いつもの嫌悪の色はなかった。
あるのは穏やかな色だけだ。
(猫君は、愛される存在でもないのに、とことん予想を裏切ってくれるんスねぇ。)
蜘蛛の表情を見ていた問屋は楽しそうに笑った。
気まぐれで自由で手のかかる猫なんて、誰も愛さないのに。小豆には何故か人が寄る。
「まぁ、少し寝かせてあげましょうねー、疲れているみたいですし」
「わぁってる、三山はどうすんだ?糞猫の保護者が黙ってるとも思わねぇけど」
「あぁ、ワカメ君は大丈夫でしょう。それにしばらくは神田秋は動かないでしょうし」
あれだけあからさまな威嚇をされたのだ、頭の中のお花が数本散っただろう。
なにせ「大嫌い」発言をされているのだ。しかも冗談でもなんでもなく、真剣に。
あの猫君に真剣に「大嫌い」と言わせるなんて流石だ。
問屋はマウスに手を置き画面操作をする。
すると部屋のいたるところに置かれたモニターが神田と哲平達の部屋を映し出した。