遠野物語 六三〇
注意:本作は新字旧仮名です。また、柳田國男氏の著書「遠野物語」の二次創作です。「遠野物語」の著作権は、2012年を以って切れています。
本作は、原作の六三、六四における「マヨヒガ」の記述に基づきます。「青空文庫」等で、その二話だけでも先立って読んでおくことをお勧めします。
青空文庫(新字新仮名)
https://www.aozora.gr.jp/cards/001566/files/52504_49667.html
日本古典文学摘集(新字旧仮名)
六三
https://www.koten.net/tono/gen/063/
六四
https://www.koten.net/tono/gen/064/
遠野郷を知らぬ人へ
岩手県宮古市を流るる閉伊川と云ふは、宮古より八里ばかり遡りし川井の地にて、南より流れ来たる小国川と云ふ川と落ち合ひたり。
此小国川を二里半ばかり辿り行きし先なるが小国なり。
六三〇
小国の某と云ふは、山に登るを愉しむ人なりき。
某のある時、小国の東南なる白望の山を登らんと思い立ちしにより之を目指ししが、枝道へ入りけん、道を失ひたり。
某、危ふしと思ひてすぐさま戻れども、違へしか道に行き遭ふなく、木々は尚も生ひ茂りたり。
少しくありて黒雲の空を被ふを見るに、某悪しき様なりと思ひつつ行きておりしが、小さき川に遭ひたり。
之を逐はば里に出でんとて、某之に沿ひて下りおりしに、立派なる黒き門の家あり。
尚も道無ければ某之を訝しめど、長く彷徨ひ歩きしにより疲れおれば、休むべく門の中に入る。
大なる庭は紅白の花一面に咲けり。
某之を見て、屋敷のマヨヒガなるを知る。
庭を行くに雨の降り初めたれば、某急ぎて玄関より上りたり。
某、此家にて雨止みを待ちたり。
此間、某家を見歩きておれども、一向に聞きしと異なれば惑ひたり。
家中に膳椀、鉄瓶は見ゑず、他のいづれの物も無し。
又一切の鶏、牛馬の声を聞かず。
持ち帰るべき物無ければ、来たる人等の皆まで持ち去りし故では無いかと、某之を哀れに思ひたり。
昼になりて雨の降り止みたれば、某宿りの代にとて、持ちておりし筆記具、昼膳の器、箸の類ひを、汚れしは井水にて洗ひ、之を置きて立ち出でたり。
川を下るに過たず林道に行き遭ひたれば、某小国まで帰り着けり。
某之を人に語りしが、実とする者無し。
けれども少しく後、某が家に封筒の届きしを見るに、黒鉛の古字にて感謝の言書き連ねられたりけり。
此後、某が家は幸運に向かひ、終に小国一となれり。