墓守の寝屋
夏の日。涼やかな風と夜が恋しくなる昼下がり、僕と彼女はそこにいた。日陰もないこの道は暑くて、しんどくて、だけど、僕にとっては大切だ。
ちょっと不思議で非日常な、大切なひと夏のお話です。
ブレーキの音と共に、自転車が止まる。
「ずいぶんいろいろ貰ったね」
彼女は微笑んだ。二人乗りしていた自転車から降りて、カゴに入っていたビニール袋を持ち上げる。
「この時期はどこも休みだし、帰ってくる人が多いからね」
かしゃん。僕は自転車のスタンドを立てた。熱くなったハンドルから手を離せば、一瞬だけ涼しく感じる。
彼女が道端の木陰にしゃがみ込んだのを見て、僕はその隣を陣取る。
「わたしも帰省で来た訳だしね」
「そういう人ばっかりだろう」
この時期はどこも町の中に人が増えるものだ。
僕は鞄から水筒を取り出し、呷った。冷たい麦茶が喉を冷やす。
「いいもの、あった?」
「うーん」
彼女はビニール袋をがさがさと鳴らした。
「うっわ茄子だ……わたし茄子嫌いなんだよ」
「知ってる」
大袈裟にのけぞってみせる彼女。僕はその手から袋を受け取り、中を検めた。
大振りで光沢のある立派な夏野菜たち。商店街の人たちから少しずつ受け取ったものだが、どれも良いものばかりだった。
きゅうりを一本取り出し、彼女に差し出す。
「これは好き」
彼女は微笑んで、生のまま齧り付いた。
蝉の声。
みーん、みーん、間断なくただ続く声は、それだけで気怠さを感じる程だ。
昼も過ぎ、青空に雲が高い。暑さに汗が流れた。
「あっつ……」
しゃく、しゃく、音までみずみずしい。
なんか、いいな。僕は目の前の一車線の道路を眺めながら思った。
アスファルトには蜃気楼。銀色に輝いて見える表面、光の水溜まり。
彼女がきゅうりを食べ終える。
「今日も楽しかった、ありがとう」
「あ、もう帰る?」
「もう少し休んだらね」彼女は頷いた。長い髪が儚く揺れる。
「わかった」
僕は頷いて、深く息を吐いた。
「そんなに寂しい顔しないの、子どもじゃないんだから」
「してない」
僕は顔を伏せる。
そよ風が吹いていた。夕方ともなると、さすがに風は涼やかだ。どこか遠くの風鈴の音が微かに聞こえた。
「もう帰らなきゃいけないもん」
「分かってるよ。僕だって明日から平日だ」
「そうだよね」
彼女はつばの大きい帽子を被り直した。
「帰省はいいけど、毎年帰るのがつらいよ」
「そうだな」
暑さも次第に勢いを失ってくる。
「僕もお前が帰るのがつらいな」
「そう言ってくれて嬉しいよ」
白い短めのワンピースを揺らめかせて、彼女は立ち上がった。
「お兄ちゃんがそう言ってくれるから、来年も帰ってくる」
「ぜひ頼むよ」
つられて僕も立ち上がる。自転車に導かれる。
「ねえ、もう一か所だけ行きたい所があるの」
「えっ」
毎年、ここで最後の時間を過ごしていた。ぼくは瞬きをする。
「えっ?」
「時間があんまりないから飛ばしてくれる?」
「えっ、えっ?」
急かされるまま、僕は自転車に跨った。彼女が身軽に後ろに飛び乗る。
「まずは町の方に戻って。急いで!」
「はい……!」
気圧され、僕はペダルを踏みこんだ。
ぎゅん、加速する。もともと坂道を下る方向なこともあって、すぐに風を切り始めた。
自転車の音、風、僕と、彼女。
くらくらする頭は、暑さのせいだろうか。
しかし、その感覚に浸っている暇はない。
「そこ、右」
「次、左」
「真っ直ぐ、急いで!」
言われるがまま。
「ここ、止まって」
「はい」
ブレーキをいっぱい握りしめる。ききき、音を立て、自転車を止めた。降りる。
「ここって」
町の外れ。見覚えのある場所だった。
「まあ、何もないけど」
何も無いなんて。
「花でも持ってくればよかったかなあ」
彼女はあっけらかんと笑っていた。
空は茜色。赤く山を燃やすように、蝉時雨が叫んでいた。
「……あの、さ」
「なあに」
「去年のこと、覚えてたんだね」
僕は呟いた。彼女は立ち止まる。風のない空に髪が揺れる。
「もちろん。私が言ったことだもん」
「ああいや……なんだ」
言葉を探す。
自転車を思いきり漕いだからか、心臓がばくばく鳴って止まらなかった。
「去年のこと、覚えていられるんだなって」
「なるほどね、それはわたしも驚きかも」
彼女は笑った。彼女が笑ったとき、僕はどういう顔をすればいいのか分からない。
去年のこの時期も同じように彼女が帰ってきて、同じように自転車を二人乗りしてあちこち走り回ったのだった。最後の日の最後の時間に、この場所のことを思い出して、行きたかったと言いつつ帰っていった彼女を思い出す。
「そっちこそ、去年わたしがここに来たいって言ったの、覚えていてくれたんだね」
「忘れるもんか」
もうきみの言葉は殆ど聞けないんだよ。
「絶対に、忘れるもんか」
上がった息に喉が焼ける。
「嬉しい。そろそろ行くね」
「……うん」
きみは今年も、僕の話を聞いてくれなかったね。
夜になりつつある。風に涼しさを感じた。
ふら、影が、曖昧になる。
足音が遠ざかっていく。手を伸ばすことは、しなかった。
妹と呼ぶにはもはや歳の離れすぎた彼女が、その足を精いっぱい動かして行く。
消えて、いく。
「またね」
ただその背中を見送った。
僕はそれを見届けてから、大きく息を吐いた。がさがさビニール袋を揺らし、茄子を取り出す。
花はない。彼女がここで亡くなってから、花を捧げるには時間が経ちすぎた。
長い旅路に思いを馳せて。霊が帰って来られる僅かな期間が終わり、また長い一年が始まる。
今夜は、静かで暑かった。
夏を急かすように、風が吹く。
読んでいただき、ありがとうございました。