八十五話 根之堅洲國迷宮
姉弟の父、健は弟に向かって事ある毎に言い聞かせていた。
“姉ちゃんは弱い。お前が支えろ。姉ちゃんを支えられるのはお前だけだ”
その言葉は両親が日本迷宮へ入っても理解できなかった。
姉は強いからだ。どの迷宮でも姉に勝てる魔物はいなかった。姉を負かす探索者は存在しなかった。
だからその言葉は頭の隅に追いやってしまい込んでいた。子供の頃から健が仕込んでいた剣舞さえも。
ここは根之堅州國。
地下にあり黄泉の国と同様、黄泉平坂を通して葦原中国(地上世界)と繋がっていると思われている場所だ。
暗いイメージのある物は闇、地下、夜と思われがちだが、神様には関係ない。根之堅州國は地下でもあるし、天上でもある。
そこに弟は足を踏み入れていた。スサノオ様を倒すために。
国営迷宮でピエールを喚び夜の食国に連れて行ってもらった弟は、何でもするから鍛錬の続きをしてください、とツクヨミ様にお願いした。
何でもする!? とツクヨミ様とピエールが過剰反応し、何故か鼻息が荒くなる。
そして二人でコソコソと相談したかと思えば、弟に向き直り言葉を告げた。
『月光の君を御祖様から預かった時に才ある事は聞いており、それは月光の君自身が思い起こさねばならない事。ここでの鍛錬の中で呼び覚ます事ができればと思いましたが、薔薇は蕾のままで開花させる事は出来なかったようです』
「俺の、才」
『それでも人間としては強い、と言えるでしょう。ピエールには勝てます。半神より強いと言っているのです。充分ではないですか?』
「うん。ちょっと前までなら満足してた。でも、どんどん強くなっていく姉ちゃんを見て、何故か親父の言葉を思い出したんだ。姉ちゃんを支えられるのは俺だけだって。たぶん親父が言っていたのは純粋な強さ、じゃないと思う。姉ちゃんはもう神様にさえ届こうとしてる。届いているかもしれない。それに並ぶのは、人間には無理っつーのはわかってる。親父が言ってた事はまだぼんやりとしかわかんねぇけど、姉ちゃんの為だけじゃなくて、俺が強くなりたい! なんの強さかはわかんねぇ。けど、お願いします! 言ってることめちゃくちゃで意味通じないかもしれないけど、お願いします!」
ツクヨミ様は一生懸命に言葉を探して頭を下げる弟に優しく笑いかける。それは慈しみの微笑み。本来ある神様としての本能であり責務。
『夜道で迷っている者に道を照らすは月明かり。あなたの道を照らし、示してあげましょう。それは黄泉への道かも知れない。それは望む道とは違うかも知れない。その道があなたの想い人と繋がっている事を願って、私はただ照らすだけ』
「ありがとう、ございます!」
『基礎はここで教えています。あとは月光の君が生かせるかどうかですよ。では、行ってらっしゃい』
「は? どこにーっ!?」
弟が言い終わらない内に足元が抜け、身体が落下して行く。瞳には手を振るツクヨミ様とピエールの姿が小さくなっていくのが映っていた。
「ここどこ!?」
弟が着地した所は真っ暗闇で何も見えない。何も聞こえない。自分の足さえ見ることができない真の闇。
そこへ一筋の薄い月明かりのような光で照らされた道が出来上がっていく。
「こっち行けって事か。ありがとうございます、ツクヨミ様」
道は狭い。二人並び歩くことは出来ない道だ。
警戒しながら光で照らされた道をゆっくりと歩き、ふと振り返った時に道を踏み外してしまった。
「うおお!? あっぶねぇ! 暗いとこに道はねぇのか」
体制を立て直し、さらに警戒度を上げ進む。
しばらく歩くと前方から黒い靄のような物が迫って来た。人間大で人の形をしているようで、しかしその形の境界線はわからず曖昧だ。
『おう? 久方ぶりに光が通ったから辿ってみれば、人間がおる。うむ、人間だな。こんな所に何用だ?』
その靄が話す。話し声は男のようで女にも聞こえる。大人のようで子供にも取れる。何もかもが曖昧だ。
「わかんねぇ。ここどこ?」
『ほう? 落とされ者か落とし者か。ここは根之堅州國だ。人間が存在していい所ではないぞ? そうか、存在してはいかんな。うむ、消そう』
靄がそう言い終わると弟を取り込むように大きくなり向かってくる。
弟は咄嗟に腰の太刀『朱刃厘衛・月胱』を抜き真横に一閃の斬撃を入れた。
するとその靄が半分に断ち切れたかと思うと、再び結合し何事もなかったかのようにそこに佇む。
『ほう? 神剣を持つ落とされ者か。攻めに来たか。益々いかんな』
「ちょっ、待って! 待って! 攻めに来たんじゃねぇし! 鍛錬だし!」
『攻めに来たとあらばここで止めんとな。うむ、止めんとな』
「話し聞こうよ! ねぇ! あ、ちょっ」
そう言っている間にも向かってくる靄。好戦的すぎる。
しょうがねぇ! と思いながら見様見真似の業を出す。
「月夜見・偽半月」
靄が弟の間合いに入ろうとしている所を太刀で何とか弾き返す。さらに二度、三度と弾き返す。
本来の御業は『月夜見・半月』
間合いに入るモノ、全てを寄せ付けない防御特化の御業だ。
しかし弟の見様見真似は前方しか弾き返すことができない。
ピエール曰く「まだTバックパンツほどの防御範囲ですね」
『ほう? 月読命が業を出すか。夜の食国が攻めてきたか。これは国主が喜ぶ。うむ、喜ぶ』
「違うって! ああ、もう! ここで喚べるのか?」
迷宮内ではスペルであるが、それ以外だと祝詞となる言葉を紡ぎ出す。
シナツヒコ様、タケミカヅチ様、クラミツハ様……。
三柱がお応え下さり弟の前に立った。立った?
いつもは御力をお貸し下さるとすぐに去られる三柱に弟は首をかしげる。
『ほう? シナ、タケ、クラか。落とされ者にしてはよくやる、と言うておこう。うむ、そう言える』
『お前……か』
『母上』
『母……様』
三柱が驚愕した顔で靄を見る。その顔は見てはいけないモノを見てしまったような顔だ。
『ほう? 母と呼べるかわからんが、そう思うておるか。もはや姿をも固定出来んモノにそう思うか。うむ、思われて嬉しいのか』
「ねぇ、だれ? こいつ何なの? 神様?」
『う、うむ……』
シナツヒコ様が言い淀む。肯定して良いのか否定すればいいのか、それは迷っておられる様子だ。
見かねたタケミカヅチ様がポツリと話し始めた。
『神と言えば神である。神ではないと言えば神ではなくなる。そのお方はイザナミ様から生まれ、イザナギ様に斬って捨てられた哀れな赤子。その血からワシとクラミツハが生まれたのだ』
『人間よ。日の本で人間は死んだら神になると信じられておる。……では、神が死んだら?』
タケミカヅチ様の言葉に続けてクラミツハ様が弟に問いかけた。
「まさか……こう、なるのかよ」
そして少し俯き気味だったシナツヒコ様が顔を上げ言われた。
『人間が神になるのは生きている人間がそう望むからだ。神も同じだ。神が死に、望まれれば位を高くして神として再度生まれる。だが、誰も望むこと無い神は……このモノのようになる』
『ほう? 望むこと無いとは間違いであるな。望んではならぬ禁忌のモノ、である。うむ、珍しいモノを見たであろう? 人間』
まるでそれを自虐するように自分を禁忌であると言う靄。その言葉に感情はなかった。
「なんでだよ、なんで誰も望まないんだよ。なんで禁忌なんだよ!」
赤子の時に捨てられたという状況が姉とかぶる。もちろん姉は捨てられたわけではないが、生まれてすぐに両親の元から姿を消し一時は神がお隠しになったと島で噂になったのだ。
姉は戻ってくるよう強く望まれた。しかし、この靄は……。
『イザナギ様が決められた事だ』
逆らえない、何かに縛られたように言葉を紡ぐタケミカヅチ様。
『彼奴が決めた事。誰も異議を申し立てることはできぬ。誰も何もできぬ。うむ、できぬのだ』
靄の感情の無い言葉、しかし弟にはそれが哀しい嘆きに聞こえる。
「俺が、俺が望んでやるっ! 俺がお前の全てを肯定してやるっ! 俺が一緒にいてやるよっ!」
それは心からの叫び。全てを否定された存在。全てに置いていかれる存在。居なくても良い、認めてもらえないモノ。
そう、なりつつある自分と同じに見えた。姉は自分を置いていくことはないだろう、否定もしないだろう。こんな弱い自分に歩幅を合わせてくれるはずだ。しかし、それでは自分が自分を許せない。ついていけない自分が、支えになれない自分を、許せるわけがない。
何より姉の可能性に蓋をしてそこで留めてしまう事が赦せないのだ。
それはこの靄も同じ。生まれてすぐに殺され誰からも望まれず愛されず求められない。
誰か一人でも一柱でも望み愛し求めていればどんな可能性を秘めていたのか。誰かが誰かの行く末を決める事などあっていいはずがない。それを決めるのは自分自身であるべきだ。
様々な感情の籠もった弟の叫びが靄に突き刺さる。生まれてすぐに貰った感情、それは憎しみ。しかし今、慈しみと愛情と強く望まれる事を初めて知った。
『おお? オオオオオーッ!』
靄が叫ぶ。これまでの会話の中で初めての感情ある叫び。
低い声。それが歓喜するように地を揺さぶり空気を震わせ弟に共鳴する。そして黒い靄の渦に取り囲まれ始める。
共鳴する渦の中で小さな女の子がしゃがんで泣いている姿が見えた。
「これがお前か、誰にも望まれなくても……お前は望んでいたんだな」
その渦の中心で弟が叫ぶ。
「来いっ! ヒヌカン。カグツチィーッ!」
自然とその御名が口に出る。共鳴した中でお互いの全ての事をわかり合えた。もう隠す事は何もない。姉以上に弟のことを知っている存在となった。
全てを受け止めるように両手を広げその場に立つ。
そして黒い靄の渦が少しずつ弟の身体に入り込んでいく。少しずつ少しずつ少しずつ少しずつ。
五時間後……。
「なげーよ! いつまでかかるんだよ!」
“我を全て受けて止めてくれるのであろう? うむ、そう言ったな”
三柱のシナツヒコ様、タケミカヅチ様、クラミツハ様は『高天原から見とくからの、そのモノをよろしく頼む』と還って行かれた。
「見てるの飽きたんだろ! ひでぇ! 神に見捨てられた」
“捨てられたモノ同士、じゃな。うむ、仲良くしよう”
「うるせーよ!」
“クックックッ。楽しくなりそうであるな。うむ、これが喜ばしいという事か”
それからさらに三日。
“うむ、全てを受け止めたな。宜敷頼むぞ、我が伴侶よ”
「は、伴侶じゃねぇし!」
“我に求婚したであろう? 一緒にいてくれる、と。うむ、言うたな”
「あ、あー。友達からお願いします!」
“ククク、もう遅い。契約は成された。お前様の為に我は全てを預けよう。うむ、よきんつうちょうとやらもな”
「はぁ、もういいよ。……しかし長すぎ多すぎこの闇全部お前だったのかよ! しかもヒヌカン取り込んだとか言ったら母ちゃんびっくりするだろうなぁ」
ヒヌカンとは火の神様。そしてカグツチ様は火之迦具土神。生まれる時にイザナミ様に火傷を負わせその傷が元で死なせてしまう。怒り猛ったイザナギ様に斬り殺され捨てられた神様。望んで傷つけようと思ったわけではないのに、火傷を負わせてしまった炎はただ自らの特性であったのに……。今の今まで誰からも望まれ赦される事はなかった。
そして全てが終わったとき根之堅州國の闇は晴れていた。その闇はカグツチ様の虚無と懺悔、赦されたい想いだった。この国全てを覆い尽くすほどの何千年も蓄積された想い。
それが晴れ、弟の前には平原が広がりぽつりぽつりと建物が見える。
“さて、お前様よ。我を受け入れてくれたのはいいが、ここで過ごすつもりなのか? うむ、それでもよい”
「いや、葦原? 日本へ帰る。鍛錬が終わったら、な」
“ほう? するとお前様よ。我をこの国に縛り付ける国主の許可を得なければならんな。うむ、そうしてくれ”
「あー、なんか嫌な予感」
“その予感は正しいぞ。国主はスサノオ。話し合いで済むとは思えんな”
「姉ちゃん連れてくればよかった……」