キャンバスに失恋 ①
「エリン!ちょっとこっちに来てちょうだい!」
階下から自分を呼ぶ声に、エリンはピクリと反応した。
本に落とされていた視線が、少し煩わしげに階下へつながる扉へと向けられる。
今の声は彼女の母親のものだ。この時間帯に言いつけられる用事は、思いつく限り1つしかない。
(これは多分、おつかいさせられるな…)
そう思って、たった今読んでいた本に視線をもう一度戻す。探偵がたびたび起こる難事件を解決するというミステリー小説だ。今ちょうどいいところで、あと2、3ページ読み進めれば犯人が誰かわかるだろう。
「………」
エリンは一か八か、聞こえなかったふりをすることにした。
だが、階下の声はそれもお見通しだったようで。
「エーリーンー!!返事しないと今日の夕飯はドドキノコのソテーにするよ!」
(ゔっ…)
そうきたか。ドドキノコの味を思い出して、エリンは苦々しげな顔をする。
ドドキノコとはエリンが最も苦手な食材の名前である。独特の苦味とエグ味があり、食べる人を選ぶ。ちなみに良薬口に苦しというべきなのか、栄養価は他のキノコ類より群を抜いて高い。
「……はーい!今行く!」
背に腹は変えられぬと言わんばかりに、エリンは1つため息をついて、階下へと降りていった。
◇
「…さてと、これで全部かな」
おじさんの「まいどー!」という声をBGMに、エリンは店を出た。それから買い忘れがないかどうか、確認のためにメモを見る。メモにはいくつかの食材、調味料が書かれている。
風が吹いて、肩口まである栗色の髪を優しく撫でていく。少し湿った空気を感じて、メモを見つめていたエリンは顔を上げて空を見る。
青空だったはずが、いつのまにか灰色の雲がそこかしこにある。これはひと雨来そうだ。
(急いで帰った方が良さそう。)
あいにく傘は持っていないのだ。
頼まれた品が入ったカバンを肩にかけ直して、エリンが一歩踏み出そうとした瞬間、その背中に声がかかった。
「…あら?もしかしてエリンちゃん?」
「あ、ロイドのおばさん」
思わぬ人物にエリンは目を瞬いた。
エリンの母親と同じくらいの歳の女性がこちらへと近寄ってくる。綺麗に結われた金髪がエリンの幼馴染と同じ色で、親子なんだなと実感させる。
その女性──エリンの幼馴染であるロイドの母親は、エリンが提げているカバンを見て、にこやかに笑った。
「おつかい帰りかしら?えらいわね」
「はい」
肯定して、エリンは気恥ずかしくなった。16歳にもなっておつかいなんて子供っぽい。そう思ったのだが、目の前の人物は特に気にした様子もない。
1人気まずい思いに浸っていたエリンはホッとする。
その時、胸を撫で下ろしたエリンの頰に、ひと粒冷たい何か落ちた。それから次いで2度、3度と雫が落ちてくる。
ロイドの母親も気づいたようで、空を見上げながら言った。
「あら大変、雨降って来ちゃったわ。エリンちゃん傘持ってる?」
「いえ、でも走って帰るので大丈夫です」
「ダメよ、女の子が身体冷やしちゃ!ほら、私の傘に入りなさい。うちで雨宿りしていけばいいわ」
ロイドの家には何度も行ったことがある。ここからすぐの距離だ。幼い頃からお世話になっており、いまさら遠慮する仲でもないのでエリンは素直に頷く。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
「ええ。美味しいクッキーもあるから、ご馳走するわ」
「やった!ありがとうございます」
落ち着いたうす紫色の傘に入れてもらいながら、おつかいも悪くないな、とエリンは思った。
◇
「あら、ロイドも外に出てたみたい」
玄関に立てかけられた濡れた黒い傘を見て、ロイドの母親はそう言った。それから、うす紫色の傘を黒色の隣に立てかけて、そのまま扉の鍵を開ける。
「珍しいわね。あの子最近、部屋にこもりっぱなしなのに」
「そうなんですか?」
「ええ。何か心当たりない?」
「うーん…」
特に思いつかない。そう答えようとしたところで、エリンはあることを思い出す。
「そういえば、昨日…」
──ガタンッ!
エリンの声は突然の物音に掻き消される。
驚いた2人が音の方向を見ると、扉を開けた先、目を見開いた金髪の青年がこちらを凝視していた。ロイドである。
彼の後ろには備え付けのキャビネットがあり、恐らくそこにぶつかったことが伺えた。
「どうしたのロイド」
「え、え、エリン…」
「え、エリンだけど…」
一体どうしたのか。ロイドはエリンがいることに随分驚いているが、彼らが会うのは昨日ぶりであるので、感動の再会なんていうことはない。
しばらく呆然と見つめ合っていたが、突然ハッとしたロイドが奥の部屋へと走っていった。
恐らく位置的に彼の自室であろう。そこから次いで何やらドタバタ騒がしい物音が聞こえた。
圧倒されていたエリンは、隣から聞こえた不満気な声で正気に戻った。
「なぁにあれ!あの子ったら!ごめんなさいエリンちゃん。うちのバカ息子が失礼な真似して」
「いえ、それはいいんですけど…ロイド、一体どうしちゃったんですか?」
「分からないわ。最近様子がおかしいのよ。部屋にも入れてくれないし。ともかく、人の顔見るなり自分の部屋に引っ込むなんて!タダじゃおかないわ!」
「とっちめておくから、先に居間にいて頂戴。」そう言われて、エリンは大人しくその言葉に従うことにした。
居間に入ると、当たり前だが自分の家とは違う匂いがした。感じの良いインテリアでまとめられたこの部屋は幼い頃から知っているが、入るのは久々であった。
エリンは部屋の窓際に置かれたやや硬めのソファにそっと腰掛けた。右斜め前には1人掛け用のそれも置かれている。
奥の扉、ロイドの部屋の方から時々声が聞こえる。なんと言っているのかまでは分からないが、雰囲気からしてロイドが劣勢なのは分かった。
彼の母親は普段は穏やかだが、怒ると中々に恐い。どの家も母は強いなとエリンは思った。
エリンとロイドの母親は少女時代からの友人である。2人が幼い娘と息子を連れてお互いの家によく来ていた為、必然的にエリンとロイドは幼馴染になった。ロイドは同年代の男の子と比べて極めて大人しい性格だった。一方のエリンは比較的活発な性格だったが運動よりも本が好きというインドア少女だったので2人の仲は決して悪くなかったとエリン自身は思っている。
とはいえ、エリンとロイドは同い年ではない。実はロイドの方が2歳年上である。エリンが今年16になるので、ロイドは18歳である。自然の摂理とでもいうべきなのだろうか、そのような要因も絡んで、昔は毎日のように遊びにきていたロイドの家にも最近めっきり来なくなってしまった。母親同士の交流は今でも続いているので、最近は母親越しにお互いのことを知る程度である。
そこまで考えて、先程ロイドの母親に言いかけた昨日のことを思い出す。
昨日たまたま図書館でロイドを見かけて声をかけたのだが、彼はひどく狼狽していたように思う。何か後ろめたいことがあるような、そんな感じだ。
そのくせ、会話のふとした瞬間で、エリンのことをやたら注視してくる。何か言いたいことがあるのかと見返すと、慌てて視線をそらす。
(私、何かしたっけ…?)
エリンは誰もいない部屋で1人、首をひねる。
昨日は変だなと思いながらもあまり気にしないようにしていたが、先程といい、ロイドの様子は少しおかしく感じる。
すると、扉が少し古めかしい音を立てて開いた。
音につられてエリンの栗色の瞳が扉に向けられる。
てっきり現れたのはロイドの母親かと思ったのだが、ロイド本人であった。サラサラとした金髪は少し目にかかるあたりまで伸びている。スラリとした、と言えば聞こえはいいが、少し痩せぎすの背の高い青年が気まずそうにそこに居た。
エリンはじっと観察するように彼のことを見たが、残念ながら彼の青い瞳は忙しなく床の木目を見つめていて、こちらを見ることはなかった。
カサついた形の良い唇がおずおずと開かれる。
「…エリン、さっきはごめん」
前髪に隠れて見えないが眉はきっと下がっているのだろう。高い背丈がいつもより小さく見える。申し訳なさそうにするロイドに、エリンは優しく笑いかけた。
「全然気にしてないから大丈夫だよ。おばさんは?」
「キッチンにいる」
「そっか。クッキー用意してくれるって言ってたもんね」
「…うん」
会話が終わる。いつまでたっても扉の前から動こうとしないロイドにエリンが不思議そうに言う。
「どうしたの?こっちおいでよ」
「えっと…うん」
歯切れの悪い返事だ。緩慢な動きでロイドがエリンの右斜め横の1人用のソファに座る。それからエリンの方を見ずにうろうろと視線をさまよわせている。彼の自宅のはずなのに、まるで他所の家にいるかのようなその様子に、釣られてエリンまでなんだか緊張してしまう。
「そういえば、最近も絵を描いてるの?」
「絵」という言葉に、ロイドの肩が大きく揺れた。
ロイドは幼い頃から絵が上手で、たくさん描いては完成したものをエリンに見せてくれたのである。繊細なタッチで、鮮やかな色使いのロイドの絵がエリンは昔から好きだった。
そういえば最近めっきりロイドの絵を見ていない。最後に見たのは広場の噴水で水浴びをしている小鳥の絵だ。水飛沫まで細かに描かれていて、まるでその瞬間をキャンバスに閉じ込めたようであった。
そこまで考えたところで、エリンは「あっ」と声をあげた。
「おばさんが最近ロイドが部屋にこもりっぱなしって言ってたけど、もしかして新しい絵を描いてたの?」
「………」
「おーい、ロイド?」
「あ、ごめん…その…」
絵について聞かれただけなのに、ロイドはしどろもどろだ。それから特に暑くもないのに彼の首から上は少し赤く色づき始めている。
幼馴染のおかしな様子にエリンは心配そうに顔を歪めた。
「一体どうしたのロイド。さっきからおかしいよ」
「そんなことはないけど…」
「そんなことあるの!もしかして具合でも悪いの?顔も赤いし」
エリンはずいっと斜め前の青年との距離を縮めると、呆けた顔を少し上に向かせた。それから金色の柔らかい前髪をかき分けて、彼の額に自分のそれを合わせる。
「うーん…熱はないね」
「………」
顔を離す直前、ロイドの顔を間近で見る。碧眼を縁取る睫毛が金色で綺麗だなとエリンは取り留めもないことを思う。
エリンが額を離してもなお、彼は上を向いたまま硬直して動かなかった。
「…ロイド?」
───ゴーン。ゴーン。ゴーン。
心配したエリンが様子を見ようとロイドの顔を再び覗き込もうとしたところで、部屋の掛け時計の音が響いた。
弾かれたように時計を見たエリンは「いけない」と慌てた声をあげた。
「もうこんな時間?そろそろ家に帰らないと」
パッとロイドから離れたエリンは、忙しない様子で身支度を整えた。といっても、買い物カバンを持っただけだが。
窓の外を見ると、雲間から白がかった黄色い光が差し込んでいた。どうやら雨もすっかり止んだようだ。
「ロイド、悪いんだけどおばさんに帰るってこと伝えといてくれる?それからクッキーのこともごめんなさいって言っといてほしい。早く帰らないと母さんにどやされちゃう」
「…わ、わかった」
フリーズしていたロイドも時計の音で正気に戻ったのか、小さく頷く。
エリンは「ありがとう」と声をかけて、ロイドの横を通り過ぎた…ところで言い忘れたとばかりに彼を振り返る。何気無く後ろ姿を目で追っていたロイドは驚いて少しビクリと肩を揺らした。
「ロイド、具合悪いんなら無理しちゃダメだよ!」
「うん」
「今日は温かくして寝なよ!」
「うん」
「それだけ!じゃ!」そう言ってエリンは疾風のように去っていく。
パタンと扉が閉じられると、部屋に再び静寂が戻った。その静寂にロイドが少し違和感を覚えてしまうのは、何故なのだろうか。
ロイドはしばらく扉を見つめた後、小さくポツリと呟く。
「……ごめん、エリン」
ロイドは1つ重苦しいため息をつくと、のそりと腰を上げた。それから母親にエリンが帰った旨を知らせようとゆっくりと居間を出る。
誰もいなくなった居間には、時計の針の音だけが響いていた。