まーだーまーだー
「人を殺せばいいじゃないか」
一番親しい友人からの啓示をもって、
『はい、百五十円です』
『まま、はやいよー』
『あははは、それやばいって!』
私は今、商店街の中心で佇んでいる。
揺らぐ髪。
赤く染まった瞳。
制服のスカートが乱れる。
みんな、私の隣をすらりと通り過ぎていった。
まるでそこに存在していないかのように。
視線はある。
ただ、それも下半身に集中していて、私を見ていない。
こういうものだとは分かっていた。
『それでねー、向かいの田中さんがまたひどくてねー』
『……チッ』
『ゲーセンいこーぜゲーゼン』
カコン……っ
赤い空の缶が私の足元に泣きついてきた。
僕のことを簡単に捨てたアイツラのことをこらしめてやってと訴えんばかりに。
無地のショルダーバッグに手を突っ込む。
黒い柄を握りしめた。
私はヒーローになる。
ヒヤリと背筋に冷たいものが流れた。
動悸が乱れ、視界が少しばかり揺らぐ。
この一歩を踏み出さなくちゃ、一生このままだ。
自己嫌悪を糧に、もう一度、力を込めた。
「きゃあああああああああああああっ!!」
悲鳴があったのはその時だ。
数メートル先の女性が腰を抜かして震えているのを目にした。
感情が次々に伝播し、平和ボケした凡人は戦慄に支配される。
怯え、逃げ惑う人々。
出荷直前の鶏のようでおかしかった。
ただ、私はまだ何もしていない。
手に握りしめたこれも、バッグの中だ。決して見えていないはず。
混乱する私の視界がひらけた。同時に、色濃く染まった景色が飛び込んでくる。
夕焼けにしては、強い赤。
そこに、二人の人間がいた。
一人と目が合う。
肉屋のように腹をかっさばかれ。
汚い汁をぶちまけながら。
調理前のはらわたを抜かれている。
目尻に涙。瞳から光彩は消えていた。
カニバリズムを売りにしたシェフは楽しそうに料理する。
ドチャリっ。
彼が手を放すと、肉塊はローションの水たまりに滑り落ちた。
「――――あ」
目が合う。
ゆらり。ゆらり。
身体をゆらして、近づいてくる。
声をもらすことはなかった。
呼吸も乱れていなかった。
不思議と視界は明瞭だった。
隅々まで頭の中に投影される。
目の前の死に震えることは無かった。
なぜなら。すぐそこに、死が横たわっているから。
「こんにちは」
気味の悪い笑みが目前に広がる。
この人は死に焦がれているのか。
だからあの人を殺したのだろうか。
私に向ける笑みも、私の死を楽しみにしてくれるから。
だったら……。
「こんにちは」
最高の笑みでお返しした。
まさか、返されるとは思わなかったのだろう。
きょとんと張り付いた仮面が取れてなくなり、そこにいたのは周りと変わらない凡人だった。
プスリ
バッグから出した包丁で胸を一突きにしてあげた。
「 」
忘れられないこの感触。
忘れられない死に際の表情。
彼はまたたく間に仰向けに倒れた。
頭を打ったのか、後頭部から血を垂れ流している。
比例するかのように胸部からも湧き水のようにごぼごぼと溢れていた。
気づけば私は。
――――人を殺していた。
豚箱にぶち込まれる。
人を殺めた者は人権をはく奪されるものだとばかり考えていた。
けれど、私が十字架を背負わせられることは無かった。
むしろ、
『先日○○市で起こった通り魔未遂の事件につきまして。通り魔から市民を守ったとしてXさんに感謝状が送られることとなりました。警察は――――』
私は多くの命を救った神として崇められていた。
見知らぬ人から握手を求められた。
とっさに血で染まった右手で握り返していた。
私宛に感謝の手紙やプレゼントがたくさん届いた。
皮肉にも、私の発進したメッセージは届いていない。
部屋の隅で点滅する24インチの光のもとを絶つ。
コンコンと部屋の扉がノックされた。
「よお、俺たちのヒーロー」
入ってきたのは私の幼なじみだ。
引きこもりがちな私の、唯一の理解者。
人を殺せばいいんじゃないかと背中を押してくれたダークヒーローの生みの親。
「ほらよ。今日の分」
「ありがとう」
いくつかの紙が入ったファイルを手に取る。
机の上に散乱した宿題のところへぽんと置いた。
私と祐樹がローテーブルを挟んで腰を下ろす。
カバンから取り出した水筒で喉を潤してから、彼は口火を切った。
「まさか、本当に殺しちまうなんてな。それも通り魔を」
「私だって……びっくりしたよ」
どうして人を殺せばいいじゃないかなんて話題になったのか。
きっかけはほんの些細なきっかけ。
一週間くらい前のことだ。
ちょうど今と同じ場所で似たような天気だった。
「最近本当に来なくなったよな」
「……ごめんね」
「謝ってほしくていったわけじゃないんだけど。っていうかなんでお前が謝るんだよ」
「ご、ごめん」
「またそれ」
呆れはてた祐樹はローテーブルへと突っ伏した。
「…………お前、一転して人気者になったな」
「人気者ってそんな」
「新聞にもネットにも取り上げられて、行く先はテレビからの取材だってくるぞ」
スマホを片手にいじりながら話しかけられる。
確かに私は誰かに認めてもらたくて仕方がなかった。
正直なところ、みんなから賞賛されているときほど心地の良かったことが思い当たらない。
しかし。
「こんなのは……私が求めてた理想じゃない」
みんなが見ているのは通り魔を駆逐した名も知れないヒーロー。
自らの人生を救ってくれた見ず知らずのヒーロー。
私が見てほしいのは人とのコミュニケーションが苦手な私。
クラスのお調子者の一発芸で笑ってしまうほどのツボの浅い私。
そんな願いを胸に抱いていたら、いつの間にか包丁を握っていた。
祐樹の冗談が背中を押してくれたということも事実だ。
けれど、いずれかはそうなっていたと思う。
「私が求めていた理想じゃない……だって?」
スマホから視線をそらした祐樹と真正面から目が合う。
少しだけ眉間にしわができているのに気が付いた。
「ゆう……き?」
「お前、それはちょっと調子に乗りすぎじゃねえの」
「え……」
思わぬ言葉に息を呑む。
雰囲気の変わった彼の声音が私の鼓膜を震わせた。
「いくら注目されるようになったからって踏ん反りかえるのはバカのすることだ。だいたい誰のおかげで一歩踏み出せたと思うんだよ」
「……私、そんなつもりは……っ!」
「黙れよ。いい加減にしねえと俺にだって見捨てられるぜ。はっきり言うけどな、お前のことを見てる奴なんて一人もいねえんだ。みんな通り魔から守ったヒーローに感謝してんだ」
「――――っ」
分かっていた。
自覚はしていた。
しかし……、他人からはっきりと告げられると、
――――まるで包丁で一突きされたように、胸が痛い。
自分の意思ではない。
そんなはずなかった。意図していない。
なのに、涙がとめどなく溢れかえった。
嗚咽が止まらない。
もう誰も私のことを見てくれないのだと思うと、死にたくなるほど悲しかった。
「…………悪い。言い過ぎた」
顔を合わせることなく背を向けて祐樹が謝る。
そのまま立ち上がって扉のほうへと向かった。
「でもさ」
ドアノブをひねったところで、彼はこちらを一瞥する。
「ヒーローになりたくてもなれない出来損ないもいるんだよ」
そう言い残し、音もなく去っていった。
ぽつりと一人取り残された私。
祐樹が持ってきてくれた机の上のプリントがちらりと横目に入る。
『○○ちゃん、待ってるよ』
『××さん、ウエルカム』
正方形の折り紙にペンで綴られた文字。
書いてすぐファイルに挟んだからか、インクがにじんでいる。
前までこんなものはなかった。
寄せ書きを送ってくれるようになったのもあの出来事があってから。
人を殺して、私の周りの世界はガラリと態度を変えた。
私の見ている世界は、何も変わっていない。
むしろ、色あせてしまったようにさえ思える。
向こうの世界へと旅立ったあの人は今頃何をしてるのかしら?
生のしがらみから解放されて優雅に暮らしているのだろうか。
それとも、閻魔様ともどかしい答弁でも繰り返しているのか。
どちらにしろ、元気にやってほしいと願うばかりだ。
私が殺してしまったのだから。
そうでないと息が出来なくて死んでしまう。
私の周りの世界が変わってしまってからよく考えることがあった。
どうしてあの人は人を殺そうと思い立ったのか。
なぜ何人もの人を虐殺しようと奸計をたてたのか。
そうでもしないと生きていけない理由があったのかもしれない。
私のように、みんなに見てもらいたかったから。
今となっては闇に葬り去られたこと。
死人に口なしとはよく言ったものだ。
包丁はどこだろう。
自覚することなく必死になって探していた。
見渡してみても、何もない。
必要のないものばかり。
欲しくないものばかり。
手を伸ばして掴んでみたものの、すべてが偽物だった。
だったらもう、誰かに譲ったほうが優しい世界のためになる。
私に出来ることといえば、それだけだった。
ショルダーバッグ一つかけて、外に踏み出した。
商店街。
揺らぐ髪。
赤く染まった瞳。
ワンピースが乱れる。
みんな、私の隣をすらりと通り過ぎていった。
まるでそこに存在していないかのように。
視線はある。
ただ、それも下半身に集中していて、私を見ていない。
通り過ぎる影の先に、見知った顔があった。
彼もまた、ショルダーバッグを肩から下げている。
一緒にヒーローになろう。
『夕焼けに染まる商店街にヒーローが再来した』