諦めそうになる心
「あ……」
気付いた時には遅かった。夜中に半分寝ぼけながら本を読んでいたらその前に磨いていた眼鏡が肘に当たって床に落ち、拾おうと椅子を動かしたらうっかり潰してしまった。
「あーあ……ケースにしまっておけば良かった……」
ケースにしまっておけば起こらなかったのか早く本を読むのを止めて寝れば良かったのか椅子を動かす時もっと注意していれば良かったのか。なんにせよ壊れてしまったものは仕方ない。愛着があったんだけど。いや、それもこれも昨夜のせいだ。俺は今非常に精神的に疲れていた。
今までなにかと理由をつけて避けていた女性がいるお店についに取引先の人に連れていかれた。目立たないようにしようと思っていたのにナンバーワンだと言うすごいきらびやかな女の人が出てきてしまい俺じゃなくて先方についてくれと言ってもその人はその人でお気に入りの人がいるらしく……詳しくは覚えてないけどとにもかくにも精神的に疲れてしまった。お酒がたくさんあったのに落ち着かない場所のせいでそこまで飲まなかったから家に帰ってきてワインを1本飲んだ。そして明日は椿を探しに行くから眼鏡を綺麗にして本を読んでうとうとしていたところだった。なにがいけなかったのか、そう、あの未知なお店のせいだ。のらりくらりしながら話して余計に椿に会いたくなった。椿に癒されたい、俺はもう疲れた。これが社会人、大人の世界なのか、怖い。椿が良い。椿に会いたい。でもこんなに近くにいるはずなのにどうして……。本当に運命じゃないからなの?もう諦めた方が……。
アラームの音で目が覚めると俺はリビングにいた。昨夜、いや、今日だったかもしれない時間にここで本を読んでいたことを思い出す。そして壊れた眼鏡を拾い顔を洗う。
昨日は酷い目に遭った。ああいう場所は好きな人が好きなように行けば良いと思う。商談中の女性社員がいる時に堂々とその話をしない方が良いと思うけど遊びに行くこと自体は否定しないし普通にそこにいる女性たちは綺麗だなと思った。だけどやっぱり椿が一番綺麗だし可愛いし椿以上の女性はいないし俺には椿だけだと思いながら話をしていた。なにを話したのかは覚えてないけど当たり障りのないこと。とにかく取引先の人たちが楽しそうにしてるから俺は邪魔しないように大人しくしていたけど精神的な疲労は相当なものだった。結論、もう二度と行きたくない。代わりに去年の10月に入った津田さんに行かせよう。
津田さんは年下の俺が教えても嫌な顔1つしないで聞いてくれるし早々に上原さんは駄目だと察して俺に聞いてくるようになった。最初は牧野さんとかに怒鳴る部長に驚いていたけど普通にちゃんとやってれば怒らないからと言って教えていて5ヶ月ほど経った今では全然1人でやっていけてる。最近部長は俺と津田さんがいるから血圧が上がらなくて済むとよく言ってる。言ったそばから上原さんとかに怒鳴ったり葉山さんに10年前と違うんだからもっと健康に気を使いなよと言われてお前らのせいだろ俺だってお前みたいに気楽に仕事がしたいと怒鳴ったりしている。
そういう部長を見て津田さんは血圧を下げる方法をいろいろ伝授している。おじいちゃんと孫みたいだと葉山さんに言われて津田さんはおじいちゃんが高血圧なんですと答えて、なんだか人の良い感じが滲み出てる人だ。天然とは違うけどふわりとして、あえて言うなら昴みたいな人だ。来月から今度は2人、男の子と女の子が配属されるけど部長は最初から俺に指導を任せる、なんとしてでも1年以内のリタイアはさせるなと念押ししてきた。俺は津田さんにフォローを頼んでとにかくこのミッションを達成しようと思っているところだ。
12時だからこれは昼食だなと思いながらパンを食べていると携帯が着信を知らせる。携帯を見ると竜二さんからだ。竜二さんから電話なんて珍しい、いつもメッセージなのにと思いながら電話に出る。
「もしもし」
『起きた?』
「え?あ、はい」
『良かった、移動中だから今はあんまり時間ないんだけど昨夜のこと覚えてる?』
「へ?昨夜がどうかしたんですか?」
『覚えてなさそうだね。家に帰ってワイン飲んでる途中俺に電話をかけて今日飲みましょうって』
「え、俺が言いました!?」
『うん。で、朝から前倒しで仕事してるから19時なら大丈夫そうなんだ』
「え!?すみません!!え、良いんですか!?」
俺は酔っぱらって竜二さんに無茶を言ったみたいだ。竜二さんの家にご馳走になりに行っても竜二さんはほとんどいないというくらい竜二さんは日本でも海外でもすごく忙しい。それなのに昨夜酔っぱらいとした約束を守ってくれるなんて本当にすごい人だ。
『平気平気。あのあと大丈夫だった?酔ってるのに風呂入ってくるって言ってたから危ないと思ってたんだけど』
「大丈夫だったみたいです。そもそも俺湯船浸からないのでシャワーだけですし、多分それで酔い冷めたみたいです。けど眼鏡が犠牲になりました。あー……そうです眼鏡が……椿に見てもらおうと思ってたのに」
『壊れちゃったの?』
「落ちたの拾おうとしたら椅子で潰れました」
『そっか。直す?買い替えようか』
「どうしましょう……」
『せっかくだから買い直そうよ。良い店があるよ。そこまで高級じゃない』
「んー……じゃあそうします」
『20時までだと思うけどゆっくり見て良いよ。開けろって言っておくから』
「あれ?もしかして今日ですか?」
『そう』
どうやら今日眼鏡を買い替えに行くらしい。俺はその眼鏡店がある最寄りの駅で竜二さんと待ち合わせをすることに決めて電話を切った。
19時に着くには18時に出れば良いけど椿を探しにいきたい。あ、そうだ。待ち合わせの駅の近くに椿が好きそうな庭園があったはずだ。そこに行こう。
俺は掃除したり洗濯をしたりしたあと電車でその場所へ行く。日本ではなく外国の建物があって雰囲気も洋風な場所。可愛らしく咲いている草花を見ながら思う。椿もこの景色を見たかな。外国に旅行に行きたいと思ったりするかも。椿は外国に行くかな。洋楽を聞いてるし椿は英語も得意だったから旅行も行くかもしれない。アメリカのカリフォルニアなら完璧に案内できるよ。海も綺麗だし女の子に人気のあるハンバーガーのお店もあるし。あれ?もしかして若菜が嫌みったらしく話してきた旅行は国内じゃなくて海外だったのかな?でも若菜はそんなに連休を取れないって昴が言ってた気がするから行っても韓国とか?ああ、若菜K-POP好きだからなぁ。だけど俺も優菜さんに付き合わされて行ったことがあるよ。若菜なんかより俺と行った方が楽しいに決まってる。
そう思いながら家の中を見たりしていると時刻はもうすぐ19時。俺は急いで駅に向かった。
19時を15分ほど過ぎた頃近くに高級車が停まって後ろのドアが開く。
「遅れてごめん、乗って」
『だ、大丈夫です……』
俺は慎重に傷つけないように車に乗る。
「別に気にしなくて良いのに」
「いえ、気にします。すみませんご迷惑をかけて」
「良いの良いの。大変な目にあったね」
「竜二さんもああいうお店好きですか?」
「若い時はね。今行ったら殺される」
「……佳代子さん怖いですもんね」
佳代子さんはかなり怖い人だ。初めてマンションで会った時は誰かわからないくらい自宅で会った時と別人でびっくりした。化粧はすごいと思った。思ってすぐに優菜さんに電話したら佳代子さんに言ったら私の比じゃないほどぶん殴られるわよと言われた。なぜかわからなかったけど何度もお邪魔しているうちに翔太くんや洋子ちゃんがいたずらしたり悪さしたりするとフライパンが出てきたり危険なものを振りかざしてきたり。
「怖いよねー。ああ、もうそこだよ」
「あ、思ったより普通ですね」
「だから言ったでしょ」
その眼鏡店は昔からあるような洋風の2階建ての建物だった。
中に入ると店長らしき人が出てきて挨拶され自由に見て良いと言われたけどいまいちわからなくて竜二さんにとりあえず椿に惚れてもらえるようなすごい眼鏡だよねと言われて頷く。すると店長さんがそれならこれはどうですかといろいろ見せてくれた。そして2人の意見も聞きながら選んだのは黒縁の眼鏡だけどただの黒縁眼鏡じゃない。結構な有名ブランドのもので金色のロゴが目の横の曲がった部分に入っている。形は前のと同じだけどなんだか知的でクールで洒落てる感じもする眼鏡だ。やっぱり値段は高いけど竜二さんに安い眼鏡も良いけどこういう良いブランドのものを持ってると男としての箔がつくよ、大人の男って感じがすると言われて決めた。椿もかっこいいと思ってくれるはずだ。
そして眼鏡は後日受けとることにして竜二さんのお勧めの和食のお店に来た。言われるままにお酒も進む。
「最近思うんです。近付いてるのにこの近くにいるはずなのにどうして見つけられないんだろう、若菜も母さんたちもいないのになんでって。椿は俺のことを求めてくれてたはずなのに俺が仕事でばたついてる間に俺より良い人に会ってもう俺はいらないのかなって。それならもう諦めた方が良いのかな」
俺の話を静かに聞いてくれていた竜二さんが口を開く。
「隼人くんがしてるのはみんなが無茶だって思ってるし自分でも思ってることだけどそれをわかっててそれでももう一度椿ちゃんの隣にいるのを諦めたくなくてここまで来たんでしょ。隼人くん自分で自分が諦めたら駄目だっていつも言ってるんだからもう一度やり直したいなら頑張って。椿ちゃんを見つけてまた椿ちゃんに好きになってもらおうよ」
気が付くと家のベッドに寝ていた俺は竜二さんに眼鏡のお礼ともう諦めないとメッセージを送った。すぐにメッセージを受信して竜二さんから返信かと思ったら親父だった。
『有名ブランドの眼鏡が良いなら有名ブランドの財布もどう?箔がつくよ。買ってあげるよ』
『買うなら自分で買う』
一言返しておいた。
見つからない焦りで折れそうになっていた。心の隅で諦めようとしていたところがあった。仕事も落ち着いてるとはいっても忙しいし椿は見つからないし何のために頑張ってるんだろう、何のためにここまで来てるんだろう。諦めた方が良いのかなと思って立ち止まっていたけど竜二さんに考えてること全部聞いてもらったら諦めちゃ駄目だと、前に進み続けようと思えた。
運命は必ずあるはずなんだ。昴に教えてもらった光で照らされたらあの日途切れてしまったと思った赤い糸が進む場所へ導いてくれていた。この糸の先に必ず椿がいるはず。もう弱気になったりしないようにしっかりその赤い糸を握りしめる。椿に会いたい、椿ともう一度やり直したい、そう改めて強く願う。




