孫の顔は見せられない
また月日が経ち、俺は大学2年になった。そして今年も彼女と出会った月が来た。俺には人より時間が必要だっただけで普通の人と同じように忘れることができた。俺の中にくすぶっていた危ない程の想いはいつしか薄れていった。良かった。これが忘れたってことなんだよね。これで彼女を幸せにできた。
「淳くん遅いわね……」
「いつも10分前には来るのにおかしいですね」
7月のとある土曜日、俺は授業をするために席に座っていたけど来る予定の淳くんが時間を過ぎても来ない。
隣の席で授業をしていた先生が声をかけてくれた。
「連絡が入ってないか聞きに行ってきます」
俺は事務所に行って事務員さんに連絡が入ってないか聞く。
「まだ来てないわね……あ、ちょっと待って」
ちょうど電話がかかってきた。淳くんの家からかもしれない。電話を終えて受話器を置いてからまた問いかける。
「誰からでした?」
「うん、やっぱり淳くんのおうちからだったわ。お休みだって」
「そうなんですね。夏風邪ですか?」
「ううん、なんか家を飛び出しちゃったみたい」
「え!?なんでですか!?」
「んーお母さんもよくわからないらしいのよ。塾に送ろうと思って声をかけたら黙って家から飛び出して行っちゃったらしくて。今探してるんだって」
淳くんは小学5年生の男の子だ。大人しくて控えめな子だけど好きな虫の話になるとよく喋る。俺は少しくらいなら雑談もするようになっていた。だけど突然家を飛び出したなんてどうしたんだろう。
「とりあえず隼人先生この時間の授業お休みになるわね。どうする?」
「そうですね……。では少し早いですけど夜ご飯を買いにいってきます」
「いってらっしゃい」
「いってきます」
個別指導の塾だから生徒が休みになったらもちろん授業がなくなる。俺は支度をして塾を出た。
淳くんはどうしちゃったんだろう。水曜日に会った時はいつも通りだったのに。塾から10分の駅まで歩いていて、視線の先の公園のブランコに座っている子に見覚えがあって驚いた。淳くんだった。俺は公園に行ってうつむいている淳くんの目の前にしゃがむ。
「淳くん」
「え、あ……隼人先生」
塾があるのを思い出したのか淳くんはおろおろしだした。
「別に怒ってないよ。なにかあったの?お母さん心配してるよ」
「……ごめんなさい」
「僕に謝らなくて良いんだよ。お母さんが心配してるから帰ろう」
「……や」
いや、か……。困ったな。
「おうちに帰りたくないの?」
小さく頷いた。
「お母さんと喧嘩しちゃったの?」
首を横に振る。
「そっかー。塾来たくなかった?」
今度はうつむいてるだけで反応がない。こういう時はどうしたら良いんだろうか。俺は淳くんが見える少しだけ離れた所で電話をかける。
「あ、もしもし。佐々木です」
『あら、どうしたの?』
「いえ、駅まで行く途中で淳くんを見つけたんですけど」
『え、本当?良かったわ。お母さんがすごく心配してたのよ。悪いけど塾まで送ってきてくれる?』
「あ、はい。そうしますけどちょっと話してからで良いですか?」
『え?』
「あ、もちろん余計なことはしないように気を付けます」
『ふふ、入ってきた時と変わらず隼人先生って真面目よね。お母さんに連絡するけど塾まで来るのに15分くらい時間がかかると思うからその間に淳くんの話を聞いてあげて』
「あ、はい。ありがとうございます」
俺は電話を切ってもう一度淳くんの前に座る。
「ね、見てみて淳くん」
俺は淳くんの視線の先、地面を歩く蟻の行列を指差して言う。
「蟻がどうして行列をつくるか知ってる?」
「……知らない」
俺はうつむく淳くんになぜ蟻が行列をつくるのか話してみた。
「へー!!そうなんだ!!」
淳くんは顔をあげて笑顔で言う。
「うん。ねえ、聞こえる?」
「セミの音!!」
「なんてセミか知ってる?」
「んーわかんない」
「ヒグラシって言うんだよ」
「へーそうなんだ!!」
また嬉しそうに笑う淳くんがなぜかすぐにうつむいてしまった。
「虫……楽しみにしてたんだ」
「え?」
少し考えてピンと来た。
「おじいちゃんのおうちに行って虫取りに行くっていう?」
「うん。お母さんがお仕事入っちゃったって」
「そっか。それで行けなくなっちゃったんだね」
地面に落ちる涙を見て俺は淳くんの頭をポンポンとする。
「どうしても休めないって。だから仕方ないんだ」
「そっか」
「けど本当は行きたいんだ。けどね、お母さんがごめんねって何回も言うから僕平気だよって」
「淳くんは優しいね」
本当はおじいちゃんのおうちに行きたいと思ってるのに行けないってわかってるから、何回も行けなくてごめんと謝るお母さんに気を使って平気なふりをしていたんだ。こんなに小さいのに本音を隠して我慢してたんだ。
淳くんが落ち着くまで頭を撫でて塾に戻ると淳くんのお母さんがいた。
「淳!!もう!!先生に迷惑をかけて!!」
「あの、僕は迷惑をかけられてないので大丈夫です」
「お母さん……ごめんなさい」
お母さんのそばに行ってちゃんとごめんなさいをした淳くんを見てからお母さんと目を合わせた。
「その、あまりご家庭のことに口出しするのは良くないと思うんですけど……淳くんは夏休みにおじいちゃんのおうちに行くのを楽しみにしていました。それが行けなくなってしまってお母さんの仕事が休めないから仕方ないことだって理解していて、それでも本当は行きたいって我慢してたんです。だから怒らないであげてください」
「隼人先生……。淳、そうなの?平気だよって言ってくれたのに」
「だってお母さんが何回も行けなくてごめんねって……」
「そうだったの。ごめんね、お母さん気付いてあげられなくて」
「ううん……」
「もう一度仕事休めないか聞いてみるわね。駄目だったらおばあちゃんとおじいちゃんに迎えに来てもらいましょう」
「本当!?」
「本当よ」
「やったー!!」
良かった。淳くんが元気になってくれた。結局今日はこのまま帰ることになった淳くんに手を振ると淳くんのお母さんに頭を下げられる。
「あの、頭をあげてください……」
「ありがとうございました。隼人先生は良い先生ですね。それに素敵なお父さんになりそう」
「いえいえ、そんなことないですよ」
淳くんとお母さんを笑顔で見送ってから事務所で夜ご飯を食べて次の授業をした。
バイトが終わったのは22時。帰ってる途中で淳くんのお母さんに言われたことを思い返す。
素敵なお父さんになりそう……か。それは絶対にないことだ。彼女のことは忘れられた。だけど彼女が俺にとって唯一の女の子であることは変わらない。俺が愛するのは彼女ただ一人。だから俺はこれから彼女以外の女の人を好きになることもないし結婚もしない。子供もできないから父親にはならない。
家に着く頃には23時を過ぎてきた。静かにドアを開けて不思議に思う。リビングから音が聞こえる。今日は母さんの好きなドラマはやっていないはずなのに。慎重にドアを閉めるとそのままリビングに向かう。テレビを付けたまま寝ていたら怒ってやろうかなと思いながらリビングのドアを少し開けて止まる。
「子供ってやっぱり可愛いわね」
「うん、そうだね」
録画してたテレビ番組だろうか?小さい子たちが出ている番組を夜中に放送しないだろう。とりあえず起きてるならただいまと声をかけようとドアをもっと開いてからまた思い止まる。
「ふふ、あ、危ないわ……ふー良かった。ねえ、琉依さん、孫がほしいわよねー」
「結婚もしないし孫もできないよ」
「え!?あ、隼人……お、おかえりー」
彼女のことを忘れられたことで彼女を幸せにできた。けど母さんは幸せにできなかった。俺には2人ともは無理だったんだ。
母さんが子供が好きなのは知ってた。短大の保育科に行くほどだったとは知らなかったけど。それでも俺たちのことをすごく大事に思ってることは知ってる。母さんはいつも愛情深く俺のことを育ててくれたけど俺は母さんになにも返せない。
「ただいま。孫の顔を見せられなくてごめんね」
きっと俺に子供ができたら母さんはその子にも全力で愛情を注いで大切にするんだろう。子供が好きな母さんはそんな未来を思い描いていたのかもしれない。子供の頃からずっと見ていた母さんを思い浮かべる。けどそれは無理なんだよ。そんな未来は来ない。ごめん。
「あ、あのね!!えっと……えっと……孫なら若菜と昴の子がいるわよー」
「そっか。……そうだよね、良かった」
俺だけじゃなくて良かった。厳密には違うけど母さんに孫の顔を見せてあげられるのは俺だけじゃない。良かったと思いながら俺は二階に上がった。




