自分が忘れることで
7月になると免許も取り終わり勉強にサークルにバイトにと毎日忙しく過ごしていた。特に塾講師は思っていたより自分でも向いていたと思った。小学生から高校生まで教えて、時には雑談になってしまうこともあるけど子供たちにどうやって勉強に頭を戻してもらえるのか興味をもってもらえるのかに頭を悩ませて、それが上手く行った時、わからないと嘆く子供たちにどうしたらわかるように教えられるのかを考えてやってみて、わかったと笑顔になる時、良かったと思う。そうやって考えていると彼女のことを忘れられた。こうして普通人は忘れていくのだろう。俺が忘れることで彼女は幸せになれる。彼女に出会った季節がやって来たといっても俺は忙しくするだけだ。俺は充実した日々を過ごすことが彼女のためだと信じて毎日を生きていた。
そんなある日、その日はサークルが早く終わってしまいたまには母さんたちと夜ご飯を食べようと帰り道でメッセージを送った。
家に帰ると待ち構えていた母さんに引いてしまう。
「どうー?これなら優しい隼人が静かーに帰ってきてもわかるわよ!!」
「う、うん。そうだね」
嬉しそうだから良いかと思って着替えをしてリビングで夜ご飯を食べた。親父は俺がそう呼ぶたびに嬉しそうだ。なんだか慣れてしまった。あの喋り方を強制されて直したよりも遥かに早い適応だ。……駄目だ、忘れろ。
「ねえ明日美容院行ってくるのよ。隼人はこっちとこっちどっちが良いと思う?」
ご飯を食べ終わると母さんが雑誌を開いて指差す。女性雑誌を見るのは久し振りだ。俺はその雑誌を手にとってみた。パラパラと捲っていると普通のファッション特集のページに写っている母さんに雰囲気の似ているパーマをかけたショートカットのモデルに目が止まる。
「さっきのよりこういうのが良いんじゃない?あ、髪型のページじゃないけど」
「あら、可愛い!!この人みたいにしてくださいって言ったらきっとできるわよ。じゃあこれにするわー。隼人が決めてくれるなんて嬉しいー」
「良かったね、美香」
「ショートカットなんて高校の時以来じゃないかな。久し振りだわー」
「え、それで良いの?親父が決めなよ」
母さんがずっとセミロングの長さでたいして変わらないのは親父の趣味だと思ってた。
「えー良いよ。僕も似合うと思うよ。それにどんな髪型でも美香は美香だから可愛いよ」
「きゃー琉依さんったら」
「試しに丸坊主にしてみたら?」
「もー!!隼人の意地悪!!そんなの嫌ー!!」
「はいはい、ごめんね」
むー!!と怒る母さんを横目に食器をキッチンに運ぶとおやすみと言ってリビングを出た。
母さんが笑っている声をドア越しで聞きながら俺は洗面所に向かった。視界が歪む中たどり着いたところで限界だった。
親父の言葉はもっともだ。俺もどんな格好をしていても彼女は彼女なんだから可愛いと思った。だけど言葉にできなかった。親父はあんなに自然に言葉にして母さんもその言葉に喜んでた。俺にはできなかった。なんでできなかったんだ。そう、俺が彼女といえばこういう格好なんだとそれしか考えられなかったからだ。自分勝手に彼女はこうだと決めつけて彼女にそれしか望まなかった。若菜の言葉も思い出す。
『可愛いって思ってもらいたいの!!褒めてもらいたいの!!好きな人に喜んでもらいたいの!!』
俺は自分の固定概念に彼女を固めようとしていたんだろう。彼女に好きな服を着てもらいたい、自分らしい格好をしてほしいと彼女のために考えてるつもりで自分勝手に強要していただけだ。俺に褒めてもらおうと、喜んでもらおうと一生懸命になってくれていたのにそれは駄目だと否定していた。
改めて自分の身勝手さに嫌になる。みんなの言う通り最低な人間だ。俺じゃない他の、親父みたいな良い人となら彼女はずっと笑っていられたのに。俺なんか好きになるから。いや、俺が近付いたから、俺が無理矢理近付かなければ彼女は別の人を好きになって今もキラキラと目を輝かせて毎日を楽しんでいたのに。どうだろう。彼女は今幸せだろうか。俺のことを忘れられただろうか。幸せにしてくれる人に出会ったのだろうか。どうなんだろう。一目で良いから──。
水を流していると横からタオルを差し出された。無言で受け取ると親父は俺の背中を擦る。
「……母さんには言わないで」
「わかってるよ」
母さんにこんなとこを見られたら、知られたらまたとんでもなく心配する。昔からよく泣く母さんは感受性が高すぎる。どんな小さいことでもすぐ泣き出す。どんな涙でも戸惑いを隠せないけど嬉し涙ならほっと安心できる。けど俺のことを心配して悲しむ涙は見たくない。
「……あのさ「忘れないと。俺が忘れればみんな幸せになれる。彼女も母さんも」……隼人」
親父の言葉を遮ると俺は自分の部屋にこもって一晩中講義の復習をしたり、塾のみんなそれぞれにわかりやすい解説を考えていたりした。
そして朝大学に行くと学生センターで川口さんを呼ぶ。
「やっほー佐々木くん。どうしたのー?」
「掛け持ちできるバイトをしたいです。なにかないですか?」
「じゃー向こう座って待っててー」
「はい」
この前と同じ席に座って待っていると紙を持って川口さんが来た。
「また急だったねー。塾講師はどう?」
「自分でも向いてたと思います」
「なんかクマ酷いよ?眉間にシワも寄ってるし。それになんか急いでるみたい」
どうして俺の周りはスキンシップの激しい人ばかりなんだ。眉間に指で触ろうとする川口さんの手をやんわりと退けて笑う。
「気のせいですよ。それよりなにかないですか?家庭教師とか」
「なんだ、今度は希望あるんだね。僕もその線で持ってきたんだけどさ。家庭教師は塾講師の時と違って自分で直接そのおうちに連絡してもらって面接日とか決めてもらうよ。ここに今募集が来てるご家庭が書いてある。学年とか希望ある?」
「そうですね……。中学生か高校生が良いかもです」
「性別は?同姓の方が良い?」
「いや、むしろ向こうが同姓じゃなきゃ嫌なんじゃないんですか?ほら、危ないって」
「まーそういうのは家庭によるかな。相性もあるし。一応大学でも希望は聞いてどっちでも良いってご家庭は同姓を紹介してるけど」
「男の子のところにしてください」
「真面目だねー。めったにおかしなこと起きないよ」
「それでも普通同姓の家庭教師に教わりたいはずです」
「ほんと教え方が上手ければ男性でも女性でもどっちでも良いって人もいるのになー。まあ良いや。じゃあこことかは?英語だけってとこ。中学生の男の子」
「そこでお願いします」
「わかった。じゃあこれが連絡先だよ。大学はご家庭を紹介する、学生を紹介するっていうだけで細かい契約は双方で決めてもらうことになるよ。紹介状を持ってってもらうからちょっと待ってて」
こうして紹介状を受け取った俺は聞いた連絡先に連絡をして後日面接を受けてその翌々日には家庭教師初日に行くことになった。
俺が教えることになったのは人見知りで昔の昴に似ている物静かな男の子だった。だけど週に2回通ってしばらく経つと打ち解けてくれたみたいで隼人先生は甘いもの嫌いだから激辛煎餅を自分が買ってきたんだと笑顔で手渡してくれた。なぜ激辛にする必要があったんだと一応聞いてみた。
「えへへ、隼人先生そういうと思った。試しに食べてみてよ。美味しいから」
「ん、辛い!!」
「これで隼人先生の眠くなる声を聞いてても目が覚めるよ!!」
「彰くん……?」
「げ……ごめんごめん!!寝ないから!!でもとりあえず食べてよ。癖になるからさ」
『わっ!!辛い!!』
『それが良いんですよー』
忘れろ……忘れろ……。
「確かに癖になる味だね。今日はそうだね……このページ全部自分で和訳してみな」
「隼人先生の鬼!!」
「あの人見知りで物静かな彰くんが……」
「わかったよー!!やるよー!!」




