真実(2)
長い時間、俺は高校生の頃を思い返していた。後悔の気持ちと自分への怒りが込み上げてくる。ふと、椿が身動ぎするのがわかった。良かった。このまま目を覚まさなかったら気が狂うところだった。
「目、覚めた?」
口を動かしてるけど声が出ないようだ。
「飲み物買ってくるよ。大丈夫?」
椿が頷くのを確認してから立ち上がる椿の身体が傾く。一瞬鳥肌がたったけど椿は自分で気付いて大丈夫ですと口を動かす。俺は行ってくるねと言って少し離れたところにある自販機まで歩く。
ボタンを押そうとしてまたあの走って会いに来てくれた椿が脳裏に浮かぶ。
「クソッ」
手を握りしめて勢いよくボタンを押そうとして直前で思いとどまる。なにやってるんだ俺は。予想してたじゃないか。ほぼ確実に昴の推察が合っていると予感してたのに。
水を2本買って椿の元に戻る。考え事をしている椿の少し離れた隣に座り椿にペットボトルを1本差し出す。
「水で良かった?」
椿に渡したあとペットボトルの水を飲む。辺りが歪んで見えるけど冷たい水でいくらかマシになった気……はしないな。さすがの俺でも熱中症ではないことはわかる。ペットボトルの半分まで一気に飲んでから言う。
「帰ろっか」
そして立ち上がる俺の服の裾を椿が掴む。引き止める椿に顔を向ける。目に涙をためて今にも泣きそうな椿。泣かないで。もう良い。もう今日は辛い話はやめてさっきと同じ楽しい話をしよう。
「腕、ごめん。急ぎすぎてごめん。今度はちゃんと合わせようと思ったのにできなくてごめん。また今度話そう、早すぎたね」
俺の言葉に椿は何度も顔を横に振る。喋ろうとしてやっぱり声が掠れてる椿。俺は椿が手に持つペットボトルに視線を向けてから椿の手を裾からそっと離そうとして触れると急に吐き気がした。突然のことに何が起きてるのかわからないままさっきと同じ位置に座る。宙に浮く椿の手は存在に気付いたペットボトルを持ち、そして椿は一気に飲む。その間に吐き気は止まり、なんだったのかと思っていると椿はペットボトルのキャップを締めて俺をまっすぐ見る。
「もう無理に笑わないでください」
笑ってる?俺は今笑っているのかと驚いたけど一瞬でわかった。泣きそうな椿を安心させようともう一度笑う。
「無理してないよ」
「してます」
「してないんだけどな」
「……してます」
黙ってしまった椿の目からついに涙が溢れてしまう。
「……してるんです」
「わかったよ」
泣かせたいわけじゃない。泣いてほしくない。声を震わせる椿に俺は続ける。
「無理に笑わない。話も続けよう。これで良いね?」
意識して笑うのを止めて椿の方に身体を向ける。
辛い思いをもうしてほしくなかったけど椿は涙を拭ってゆっくり話し始める。
「ずっと忘れてたんです。忘れてることにも今気付いたんです。ずっと知りたくないこと、自分に都合が悪くなることから目を反らして逃げていたんです。でもそれがいつからかとかそういうこと考えようとも思ってなかったんです、そのきっかけが記憶からなくなっていて」
椿は左腕に目を向け、そっと触ってからまた俺を見る。
「でも思い出したんです。やっと気付けたんです。これでようやく本当に向き合える気がするんです。逃げてしまってすみません、話を聞けなくてすみません、傷付けてしまってすみません、忘れてしまっていてすみません」
謝らないで。椿はなにも悪くない。辛いことは思い出さなくて良い。一生忘れてるままで良い。途中そう言おうとしたけど真剣な椿に口を挟むことができなかった。
「坂下さんはなにも悪くない。俺が今も昔も急ぎすぎて坂下さんの気持ちを考えてなかったから。だから坂下さんが自分で自分の心を守っていたんだよ。俺の自業自得だから坂下さんは気にすることないよ」
「駄目なんです。ちゃんと向き合いたいんです。先輩はいつから私のことを……?」
椿の向き合いたいという言葉にハッとする。俺は逃げようとしてた。真実に向き合うのが怖くて今度にしようとしていた。辛いことを思い出すのは嫌なはずなのに椿は本当に強い。俺も逃げるのをやめる。決めていた通り俺の気持ちを全部伝えるんだ。
「……初めて会った時、正確には初めて見た時、だね」
改めて過去を思い出す。落ち着いて考えると椿の中で俺と過ごした楽しかった思い出が確かにあるから俺を好きになってくれたんだ。辛い思い出だけじゃないはず。そう思って俺も高校生の時初めて椿を見た衝撃、一目惚れした日を思い返す。俺の初めての恋。幸せで大切な思い出だ。俺はゆっくり話し始める。
「あの日俺は体育館の外にある階段でボールを弄りながら休憩してた。中は暑くてね、このままもうしばらくサボってようかなーって思ってた。そんな時に一生懸命大きな段ボールを運びながらよろよろ歩いている坂下さんを見つけてね。黒髪で雪のように真っ白な肌で頬を真っ赤に染めて必死に歩いてる姿はまさに童話のお姫様のように可愛らしくて。思わず見とれて手に持っていたボールが落ちたのにも気付かなかった。気付いた時には椿のそばに転がっていてチャンスだと思ってすぐに声をかけに行った。それで話してみると声も可愛いくて。高くもなく低くもなくちょうどいい高さの艶のある声。冷静で落ち着いた性格なのかと思えば俺が手伝うと慌てて声を荒げてきたり跳び跳ねて追いかけてきたりして。俺の手が触れただけで全身真っ赤に染め上げて動揺する様子を見て純粋でウブな子だなって思ったよ」
ゆっくり話し始めたはずがどんどん早口になっていくけど止まらなかった。だってすごく可愛いと思ったんだ。
「それでね、その日部活が終わってから椿の名前を聞いてなかったことに気付いて焦ったよ。多分1年生っていうことしかわからなくてね。段ボールの中身くらい見ておけば部活もわかったんだろうけど。とにかく家に帰ってすぐに昴に電話したんだ」
「結城くんにですか?どうして?」
「肌が雪のように真っ白で黒髪で頬が真っ赤で童話のお姫様みたいな女の子を知ってるかって聞いたんだ。そしたら酷いんだよ。普通に童話のお姫様の名前を言ってきてお姫様お姫様言うのは若菜だけにしてくれ、俺が言っても可愛くないからって言うんだ。そうじゃなくて1年生の女の子にいないかって聞いても肌が白い黒髪の女の子がどれだけいると思ってるんだ、茶髪は珍しいんだよって冷たくあしらわれてね。昴は役に立たないと思った俺は自分で探すことにしたんだ。でもどうしても見つけられなくて授業中にサボってクラス1つずつ見に行こうかって考えていた時ようやく見つけたんだよ。若菜と渡り廊下を歩いてる椿を!!その夜昴の部屋に転がり込んで知ってるじゃないか、って怒鳴ったら坂下さんのことなのって声を裏返して言うからとりあえず椿のことで知ってることを全部吐き出させて一安心して帰った。のは良いけど見かけたのはその時だけで全然会えなくて、昴に練習試合に誘うように命……お願いしたりしてね。まったく、なんであんなに会えなかったんだろう」
「な、なんででしょうね」
本当になんで会えなかったんだろう。それにしてもやたらと人が邪魔だった気がするけどなんだったっけ。
「若菜は……若菜のことはどうしちゃったんですか?」
そう思っていると椿は呟くように言う。届かない。こんなに話しても俺の好きは椿に伝わらないんだろうか。
「……この話聞いて俺が椿のことが好きなこと疑う?」
だけど椿は首を勢いよく横に振る。そうかと思えば急に左胸を抑えだす椿にさっきの恐怖が蘇る。向き合うから。俺も一緒に向き合って逃げないから1人で苦しまないで。
「でも私聞いたんです。見たんですよ。……なのにどうして」
「いつ俺が若菜のことが好きだって言ったの?」
「そうじゃ……」
ちゃんとどうして若菜を好きだと勘違いしたのか聞かないといけないと思って問いかけると椿は言葉を止めてなにかを考える。
「どうして先輩が若菜のことが好きだと思ってるって……」
「いや、知らなかったよ」
「でも、それじゃあなんで驚かないんですか……?」
「知らないけど予測はしてたから。昴と若菜とも話し合って考えて」
「結城くんと若菜と……」
再び泣きそうになってしまう椿に慌てて言う。
「若菜は知らないよ、まだ。まだ、もしかして椿は俺が違う人が好きだと思ってるかもしれないってことしか考えてない。帰省した時2人もやっぱり来ていてね。一昨日昴と2人だけで話したんだ。それでその可能性が高いんじゃないかって」
俺の話を聞いた椿はホッとしたように息をはく。
「でもどう考えてもなんでそんな奇想天外な発想にいたったのかわからないんだ。俺がいつそう言ってるところを見たの?」
「先輩が言ってたんじゃないです。見たんです。先輩が若菜のことを見つめてるのを」
見つめてるのを見ていた?聞いたんじゃない?俺の心が冷えていく。
「……見つめてた?それだけ?」
若菜を視界に入れただけで俺は若菜のことが好きだと思われてしまったの?そう思っていると左手を椿の両手が包む。まただ。また吐き気がしてきた。なんなんだ。
「熱い視線だったんです。真剣な熱い視線だったんです。直前にクラスの女の子に聞いたんです。男の人は好きな人に熱い視線を向けるんだって」
吐き気はまたすぐに治まってそっと椿の手から抜け出す。熱い視線ってなんだ。椿にこそいつも愛しいと思って見つめていたはずなのに。
「その時その子から話を聞いて、初めて私は先輩が好きだって気付いたんです。すぐ授業が始まってグラウンドを見たら先輩がサッカーしてるのを見て好きだって思って、だけどすぐに先輩が若菜に熱い視線を向けてるのを見て先輩は若菜が好きなんだって気付いて。だから月下美人の花言葉を聞いて納得できたんです。好きだって気付いたすぐあとに失恋したから……と思い込んでたから」
そんな。椿の苦しみの真実を聞いた俺は項垂れて考える。
「いつだ……いつの話なんだ……」
椿が勘違いしたのはいつなんだ。どうしたら誤解が解ける?
「高校1年の11月でした。……お昼休みのあとだったので5時間目……」
「高2の11月……5時間目、体育……」
記憶を巻き戻しながら高校2年の11月5限目の体育でサッカーをしていた時を思い出す。そんな日があったかもわからないけど必死に思い出す。そしてある日が思い当たって思わず叫ぶ。
「その時って二つ結びしてた?」
「ふ、二つ結び……?えっと……」
二つ結びではないと優菜さんに言われたのを思い出す。椿はえっと、えっと……と呟く。
「多分ですけど、そうだった気がします」
「わかった!!わかったよ!!」
わかった。椿が勘違いした原因がわかった。誤解を解かないと、と椿の目をじっと見る。
「わかったよ。あの日の前日の夜、若菜の家で夜ご飯を食べていたんだ。その時若菜が、椿の髪はさらさらで指を通すと滑らかでずっと触りたくなる、アレンジしたいってお願いするとやらせてくれるから思う存分触れるんだって自慢してきたんだ。俺に椿にはどんなヘアスタイルが似合うと思うかって聞いてきたから二つ結びって答えた。そしたら椿はそれだけは無理ってやらせてくれないけどもう一度お願いしてみようかな、椿は自分のお願いを断らないからって言って。それがあった次の日椿を見てあまりの可愛さに見惚れてたらすぐに顔を反らされて残念だなって思ってたら若菜の視線を感じて。すごいどや顔で見てきてたから睨んでたんだ」
「……そんな……」
口を開けて呆けている椿。あれが勘違いの始まりだったとは……。お姫様よりお姫様だと、いつも以上に破壊力抜群だと思った日だ。あの日からずっと椿は苦しみ続けていたのか。
頭がガンガンと痛む中まだ向き合わないといけないことがあると心を決めて椿に聞く。
「でもそれならどうして?椿は失恋してると思ってたのにどうして告白してくれたの?失恋してるけど好きだって伝えようとしてくれた?」
椿が告白してくれた理由は昴もわからないと言ってた。どうして若菜を好きだと思ってる俺に告白してくれたんだ。昴の推察では告白に答えた俺、好きだと言う俺に傷付いて若菜の代わりにしていると思ったというもので告白してくれた理由まではわからなかった。1年間も俺と距離を置いて諦めようとしていたのになぜ?それに椿はあの日付き合ってくださいと言った。俺がたった今言ったように好きだと伝えてくれたわけではない。でもそうであってほしい。もうさっきみたいにはならないけどそう願わずにはいられなくて黙って椿の言葉を待っていると椿の目からさっきとはまた違う大粒の涙がどんどん溢れてきた。
「ごめんなさい……」
ごめんなさいってなに?どういうことなの?止まらない涙を流しながら椿は震える声を何度もつっかえながら言う。
「……若菜が結城くんと付き合ったから……先輩が傷付いてると思って……でも会いに行っただけなんです。あんなこと言うつもりじゃなかったんです。でも先輩が思ってた以上に辛そうで、そんなにショックだったんだって思ったら、いても立ってももいられなくなって、それで……。先輩に元気になってほしかったんです、若菜の代わりになってそばにいたら先輩の気持ちが晴れるかなって、思ったんです……」
それがもう1つの真実。椿は初めから若菜の代わりになろうとしてくれたんだ。俺はその誤解を解こうと本当のことを言う。
「椿に避けられてどうしたら良いのかわからなくて毎日悩んでた。元々睡眠不足だったのに昴から若菜と付き合うって電話が来て一晩中話に付き合わされて疲れてたんだ……」
椿の涙は手で拭っても追い付かないくらい堰を切ったように流れる。俺がハンカチを出して椿に差し出すと椿は両手でハンカチを握りしめて目をおさえて何度も何度も謝り始める。
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい」
「ありがとう。俺のためだったんだね。俺のためにそばにいてくれたんだよね。俺のために一生懸命になってくれたんだよね」
しゃくりあげながら何度もごめんなさいを繰り返す椿に俺はそう言い続けた。椿に、そして俺自身に。そう、椿は俺のために頑張ってくれてた。あの3ヶ月間椿は傷付いてると思った俺のそばに優しく寄り添ってくれていた。若菜の代わりにそばにいてくれた。そんなに大きな愛情を俺に注いでくれていたんだね。ありがとう。
俺は意味のなくなってるハンカチを受け取って涙を拭おうと手を伸ばして初めて自分の手の震えに気付く。両方の手のひらを見つめているとまた吐き気がしてきた。そして俺は思う。椿に触れるのが怖い。付き合っている間俺は何度も椿に触れた。初めてキスした時の泣くのを必死に我慢している顔を思い出す。椿はどう思っていたんだろう。若菜を好きな俺にキスされて嫌だった?軽蔑した?1度めのキスのあと椿は目を瞑ってキスを待っていた。俺はあの時なにを言った?椿の好きな話をしようと若菜の話を始めた。椿はどう思っていたんだろう。なにを思って俺のキスを待った?そのあと抱き締めて家に誘った。椿はどう思いながら頷いてそしてどんな気持ちで俺に抱かれていた?俺は嬉しくて嬉しくてただ嬉しかった。なのに椿はずっといつも自分は若菜の代わりだと思っていた。代わりに付き合ってもらえた?代わりにキスしてもらえた?代わりに抱いてもらえた?どれほど辛かっただろう。俺に触れられるたびに椿の心はボロボロに傷付いていたんだ。今日俺の裾を掴んでいた手、強く握りしめた左腕、気絶した時と身体を支える間触れていた肩……あの頃何度も触れていた。怖い。椿の心を何度もボロボロに傷つけてきてまったく気付かなかった自分自身が恐ろしくなる。もう触れられない。椿がボロボロになって壊れてしまう。俺自身が椿を壊してしまうと思うと手の震えが止まらず吐き気に襲われめまいと頭痛で気が狂いそうになった。
そしてしばらく経つと椿は落ち着いてきた。真っ赤な目で俺を見上げる椿に微笑んで静かに問いかける。
「落ち着いた?」
「……はい」
「ゆっくり歩こうか。大丈夫?」
「大丈夫です」
椿がゆっくり立ち上がるのを見てから俺も立ち上がってゆっくり歩き始める。
まだ伝えないといけないことがある。椿のことをどれだけ愛しているのか。椿のどんなところが好きか。探してここまで追いかけてきたこと。椿がこれからなにがあっても俺から愛されていないと勘違いすることがないように俺には椿だけだと伝えないと。俺はふらつく身体をどうにか普通にして、手に力を入れて震えないようにし、少しの違和感も椿に感じさせないように注意しながらゆっくり歩いた。