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魔性の砦  作者: あおい・ろく
9/17

第九回

(第九回)



透明な膜が休み無く躍動し少しずつ色を変えていく。昨日までは淡い色だったのがもう変化して濃い骨格細胞が幽かに見えるようだ。自分の心臓の鼓動とこの画面に存在している小さな魚卵の命の核とが最早確実に繋がっていることを読みとることが出来る。膜の内側にある細胞で細かな表情が期待通りに進んでおりそれは女の暗示する新しい命なのだろうか。

攸爾は蟻地獄に浸るように取り組んだ。理性の喪失よりむしろ腐敗した観念を違った方向へ差し向けようとする無抵抗な執着があった。この卵を孵化させること以外に費やす価値のある行為は他に見当たらない。無言で点滅を繰り返す電子画面の虚像が攸爾の全霊のなかに宿り込み部屋のなかの壁を貫いて宇宙に届くかのような素粒子の反射音が合唱する。主の居なくなった広い一室を陣取り主に代って支配しているとあの女に手懐けられた素粒子が手順よく反応してその擬似世界を画面のなかで繰り広げるのである。

珠美の部屋は十四階にあった。和室と洋室のほか外のバルコニーには広大な庭が設計されていて休み処まで附いている。マンションから見下ろす都心は巨大な模倣物の山でそこには一点の自然も無くただ敷き詰められた不毛の台地だ。しかし不思議なことにこの庭に出れば失われたオゾンの羽ばたきが感じられる。毎朝緑の垣根から洩れる朝陽の輝きと飛び寄ってくる雀の囀りが別世界の空間を提供した。庭の休み処に腰を掛ければ深い森の静けさが漂い益々そこが都心の十四階だとは思えない。

攸爾には孵化させる約束に異常な執念を持ち始めた不思議とこの十四階の敷地の持つ空間の不思議とがどこかで重なって見えていた。それまでの奈落の腐心や卒業前の挫折感が消えそこはまるで紛れ込んだ真空の世界だった。しかもそこは培養しょうとする新しい土壌の発見とその土壌に注ぐ聖水のような共通点があるように思われた。

疑似体験とはいえ画面のなかの水温の変化、他の魚の群れ方や立ち昇る酸素の量、藻の揺らぎ方から与える餌の時間に至るまであらゆる条件がその新しい命の誕生に絡んでいる。単に野放しにしておいて時間さえ経てば孵化するものではなかった。珠美が言っていたように画面に現われる環境は常に変化するものと見ていなければならない。突然予期もしない侵入者すら登場しかねないからだ。だから毎日この部屋に入って先ずすることは画面を呼び出して孵化までの時間を確認しながら環境に異常が無いかを点検することだった。異常が無ければあとは回遊する魚に餌を与える時間以外に縛られる行為は無かった。広い庭に出て休み処に腰を掛けながら森のような静けさに何時間浸っていようと自由だった。十四階のこの空間の持つ魅力と到来する孵化の魔術のことだけを考えて過ごせばよかったのだ。

卒業後のことは未定である。決定していることはパリへの海外留学は断念していることだけだ。他に進路は何もない。幾度自問したところで長い時間かけて選択したところでこの結論は変わらない。漠然とした絵画の世界が清澄明瞭に熟成するまでの期間はそれはそれなりに自分にだけ与えられている空白の時間なのかもしれない。今画面を見つめている行為がその空白な流れを埋める最適な手段なのだ。求める攸爾の土壌にそれは確実に必要な養分を継ぎ込んでくれると思わずにはいられない。画面に仕組まれた精巧な演出を単なる科学と見るか想像性豊かな芸術と見るか。いずれにしても現実を遮断し一時の逃避を試みながら悦に入るという空間自体が何か意義のある発見に繋がることは否めない。それが例え冷やかに醒めた部分でその擬似という創造物に向けられていたとしても驚嘆は驚嘆であり得る。それに対しては騙されつづけたいし勿論その空間の驚異についても貪りつづけたいと思った。  

攸爾は部屋の温度を感じないほど殆んど一日中画面を見つづけた。


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