第八回
(第八回)
麻雀の牌の掻き混ぜる音が何度となく繰り返される。その度ごとに攸爾の耳に電子音で日毎に成長していく魚卵の核分裂の音が混じっていた。それは凄まじい音であったり時として眠りを誘うような微弱な静音であったりした。この仲間には聞かせたくない己自身の秘密の戯れであり逃避行の手段でもあった。彼らは皆やがて控えている海外留学のことだけしかその眼に写っていないようだ。牌を混ぜながら虎視眈々と新境地への夢をほざいていた。
一文字は今日のメンバーに加わっていなかったので「ファースト」の話も熱帯魚の話も出来なかった。三人の面々は空間美術の連中で絵画を専攻していた攸爾はいわば門外漢だった。この仲間と麻雀をやるのも今日に始まったわけではなく同じ下宿仲間であったからだ。皆地方出身者で疎外と誘惑と頽廃の牙を剥く大都会の洗礼を浴びながら雄々しく芽を伸ばしていた。
攸爾だけには大学院という課程が芽を摘まれた不毛の大地であったと言わざるを得ない。ウォーホールに眼が向けられたとき自分自身の培養土は根こそぎ植え替えられるべきだった。嘗てミレーに見た湧泉の響きはこのとき既に己の土壌には既に無く目指した芸大の象牙の塔はすっかり消え失せてしまっていたのだ。この修士課程の意義が攸爾にとって何であったというのか。
「大体地球の水っていうのは限度があるんだよな。資源には限りがあるんだよ」
「使えば無くなる」
「そう。それを皆気付かない」
「自然は永久普遍だと思っている。そもそも牛丼一杯のなかには五トンの水が使われる計算になるらしい」
羽根を伸ばした空間美術の連中の声が不毛の懐を撫でるように左右で飛び交う。
「そうでなくても地球はいつ何時破滅しても可笑しくない」
「そう永遠不滅はあり得ない」
「たった五トンの隕石一個で地球は破滅する。宇宙では四六時中小惑星が飛んでるってことよ。偶々(たまたま)地球と衝突しないだけ」
「いずれも五トンか」
「そう。いずれも五トン」
「たったの五トン」
「驚異的な五トン」
淡々とした彼らの喋りが攸爾の耳を通り過ぎる。依然と攸爾にとっては彼らの話す不思議さより珠美の幻想に囚われていた。
単調に響く牌を捨てる音が次々と深みに沈んでいきそれは修士課程の不毛の悔恨すら渦に巻き込んで終いには解明出来そうも無い呪術を持っていた。呪術は攸爾の全霊をやがて新しい扉の前まで誘導しつづけそれはあの女の言っていた契約の実現であることに気付くのである。眼の前にある扉は空間美術の奴らの語る話よりもっと驚異的で破格的な神秘そのもののように思われた。
新しい扉は腐敗し墜落した野心の土壌にやがて微量の聖水を撒きかけていた。それは奈落の底でついに出遭った最後の賭けに見えた。芽は摘まれていてもその土壌は妖しく肥えるに違いない。そしてそこに咲き誇る花を見れば自分が真に何を求めていたかが解明できるかも知れない。
次第に求めていた可能性の焔が攸爾の周囲の雑談を打ち消すかのように純粋に燃えつづけた。
「そもそも恐竜の爪は三本だったんだ。歩くときは.爪を立てて歩んだ」
「鳥類と同じさ」
「進化論だな」
「そう。始めに鳥類ありき。飛べなくなって歩き始めるとそれが恐竜になった。歩き始めると余分な爪を増やして四足になった」
「四足か」
「やがて人類の歴史がそこから始まる」
「そして我々の苦悩もそこから始まる」
果てしなく彼らの駄洒落はつづき呼吸と呼吸の間に水車の音のような正確で等間隔の音が攸爾の耳に伝わった。
牌は幾度も音を重ねて四人の眼を凝視させ喚声を唸らせては再び崩されていく。掻き混ぜる音は性懲りも無く回を重ねその都度煮詰まっていく自分自身の高まりを攸爾は捉えていた。
立ち塞がって見えない扉の向うに彼らのほざく人類の歴史よりももっと幻惑で不可解かつ未曽有な獲物が隠されている。愈々この枯渇した自分の土壌に最適な聖水をやらねばと決意した。