第六回
(第六回)
「代々木の周辺でもうすぐ梅の花が咲く頃になるわ。そろそろ春ね」
カウンターの向こうで珠美が呟いた。この女が呟くと滅亡したはずの黄泉に棲む気高き霊が射り込んでくる思いである。水晶の玉をいつものように取り出し羊皮の敷物の上に置くと薄暗い店内の音がすべてこの冷涼な光に吸い込まれていく。
「ファースト」のいつもの姿がそこには無くコルトレーンの唸りも無ければ海原に弾けるようなピアノ音もない。開店前の昼下がりがここでは閉め切られた獣の檻のような野性味が漂う。珠美の体臭が周囲を支配し都会が蟻地獄に埋もれていた。
「どこか行くの?」
攸爾は単調に尋ねる。疲れ切った日常が形式的な無感動な問いかけに終わる。卒業式を間近に控えて蝕まれた心の眼より退廃する頭脳の置き処を探していた。何よりも先ず仲間が旅立つパリ留学の光景が重圧となっていた。己の本心は依然と大海の入江に漂泊し同じ処で彷徨っているではないか。
攸爾にとっては見えているもののために大きく武装する必要があった。それは攻め入るための矛でもあり盾でもあらねばならない。そうでなければ納得できなかった。それが長くて肩広くそして軽薄でない重量に完成されていなければならなかったのである。燃焼は息絶えてはいけない。継続する不動な礎がこれから先攸爾の眼を支えるなら今にだって自分も仲間と同じようにパリへの留学を決意したことだろう。しかしミレーを目指した基盤がウォーホールに侵され始めた瞬間に燃焼の焔は煤煙と化し見えていたものを見失ったではないか。
己の眼光に生じたこの痣の実態に何の弁明も施しようが無いこと自体例え大海原へ漕ぎ出でたとしても実らない航海となる。見えているものと信じていた本心そのものが実は心理を変え理屈を変貌させて攸爾の頭脳を巡りまわるである。
「光の趣くまま…。輝きによる直感ね。それが現われれば出掛ける所は決まるわ」
カウンターの上に置かれた硬球大の水晶石が店内の闇を一気に吸い取るかのように物言わぬ威光を放っている。
「光ねえ…そんな魔力で方角が決まるの?大したもんだ」
「そうよ不思議な引力があるの。何も方角だけじゃないのよ。全ての出来事この光の角度でその謎が解けていくの」
いつものこの女の魔法が始まる。
煩わしさの陶酔をはるかに超え今更この非現実的な空間に溶け込む余裕など全く無いはずだった。仲間はパリに留学するというのにこんな御伽話を聞こうとするのか。攸爾は瞬間的に罠に嵌り込んだ餌食を想像した。迷っている餌食がそこにいた。それはまさしく自分の姿であり眼の前の水晶玉に無気味に映し出されていた。
「大したもんだよ…。魔法の鏡って訳か」
「そうよ。お見通しよ。何でも透けて見えちゃう」
珠美は息を吹きつけながら攸爾の耳元で囁いた。薄暗い店内の光のなかに塵が舞っているのが見えその塵がこの女の化身のように見える。眼の前の無色透明の水晶球にその深淵たる塵の正体が怪しく反射し攸爾の脳裏の表面を艶かしく誘惑した。
投げ出された両足がカウンターの上に仰向けに転がり店内に残る射光の半分がその白い肢体を照らし出していた。中開きの赤い唇が熱い喘ぎのなかで悶え乳房のうねりが闇のなかの全ての音を呑み込んだ。
「いらっしゃい」
吐息に吸い込まれるようにしてカウンターにあがり荒々しい自分の呼吸を遠くに聞きながら横たわる黒い影の上に馬乗りになった。木目の軋む音が途切れ途切れに伝わり背後でグラスの触れ合うような振動が聞こえたかと思うと暗闇の塵のようなこの女の化身の短い叫び声が店内に反響し始めた。
カウンターの振動は片隅に追いやられた水晶球の羊皮の敷物の四隅を揺らしその玉芯は少しずつ後ずさりした。そして蠢く獣のような物影をその透明な表面に屈折させ一切の外界の喧騒を遮断して煌きつづけた。
終わった後珠美は無言でカウンターを下り乱れた髪を直しながら暗闇に消えた。店の冷蔵庫からビールを取り出して来ると後ろの棚を振り返りグラスを二個取り出して攸爾の眼の前に置いた。